2、判別
Y大学を受けると決めて以降、ハルの心は嘘のように軽くなっていた。
あれほど長らく思い悩んでいたというのに、目標が出来るだけでこうも変わるというのだから不思議なものである。
彼女が親の次に志望校を伝えたのは、学校の教師ではなく塾の講師であった。
夏期講習のタイミングでそうなっただけで、別に嫌いな担任に対する他意はない──と本人は思っている。
(良かった。塾の先生、Y大学なら今の成績なら大丈夫だろうって言ってくれた!)
つい先程言われたばかりの「残る課題は面接ね」という講師の言葉が嬉しさ半分、不安半分である。
とはいえ今までの頑張りも無駄ではなかったのだと感じられ、ハルの足取りは自然と軽くなっていた。
自分へのご褒美に何か甘いものでも買って帰ろうか──
彼女は機嫌良く地元で人気の和菓子屋に寄り道する事にした。
「あっ」
「あ゛?」
交差点の前で八木崎とバッタリ出くわし、両者の足が完全に止まる。
彼は学校で開かれている夏期講習にほぼ不参加な為、顔を合わせるのは終業式以来であった。
「よぉ」
「こ、こんにちは……」
上機嫌で歩いていた所を見られたのもあるが、それ以上に気まずいのは忍から聞かされた「昔話」のせいである。
まさか幼い頃の淡い想いの相手が身近な人物だったとは夢にも思わなかったのだから仕方ない。
当の八木崎は怪訝な顔でハルを見下ろしている。
「んーだよ。ヘラヘラしたり難しいツラしたり忙しい奴だぁな」
「別にヘラヘラなんて……」
(もう、言い方! 小さい時はあんなに大人しくて可愛かったのに……)
やはり何かの間違いじゃないかと疑念を抱きつつ、ハルは彼から少し距離を置いて信号が変わるのを待つ事にした。
「……どっか行くんか」
「え?」
「家、コッチでねぇべ」
さして興味なさそうに前を向きながら話す彼に不満を抱きながらも、彼女は正直に「旨い屋に行くの」と答える。
途端に八木崎の表情に「面倒だ」という色が浮かんだ。
「おめーもかよ」
「え、もしかして八木崎君も?」
「ばーちゃんに大福、じーちゃんにみたらし頼まれた」
まさかの同じ目的地に沈黙が訪れる。
かといって今更行くのを止めるのは感じが悪い。
幸いにも気まずいと感じているのはハルだけのようで、八木崎は普段と変わらぬふてぶてしさを醸し出している。
「良い事でもあったんか」
「え? な、何で?」
「夏休みの前はクソ暗ぇツラしてたのに、さっきはウッキウキだったろーがよ」
(ウッキウキって、猿じゃないんだから)
信号が青になるやいなや、彼はさっさと歩き出してしまう。
話をしている相手に歩調を合わせる気は毛頭無いようだ。
ハルは「失礼な」とむくれながらも律儀に彼の後を小走りで付いていく。
志望校が決まり、成績的に問題が無さそうだという事を告げれば、意外にも「そら良かったな」と祝いの言葉を贈られた。
(八木崎君もマイペースだよなぁ。優しいんだか意地悪なんだか分かんない)
どうにも調子が掴めない。
早足で息が上がる中、ハルは思いきって話題を広げた。
「えっと、ありがとう。その……八木崎君は進路決めたの?」
「まーな。俺ぁ早くっから決めてたからよ」
「そうなんだ。どういう系?」
何の気なしにした質問に、八木崎は初めて言葉を詰まらせる。
聞いてはまずかったかと焦るより早く、彼は「専門。理容師」と呟いた。
「へぇ、理容師……あっ」
意外だと思ったのも束の間の事で、すぐに彼の祖父を思い出して納得する。
彼は「じいちゃんの店を無くす訳にゃいかねーからよ」と遠い目をしていた。
「親父も兄貴も継がねんなら俺しか残ってねっかんな」
「そっか……何ていうか、偉いね」
「好きで選んでんだ、別に偉かねーよ」
クハッと笑う彼を見上げ、ハルは目を見張る。
そこにはいつもの人を食ったような悪どい笑顔では無い、穏やかな笑みを浮かべる八木崎が居た。
遠い思い出の絵を描いていた少年の笑顔が重なり、ハルは咄嗟に顔を伏せた。
「んだよ」
「あ、や、別に……」
言葉を濁した所で旨い屋に到着し、一旦会話が途切れる。
ガラス扉を押して入店すれば、狭い店内のカウンターでラジオを聞いている店主の奥さんに迎えられた。
「はーい、いらっしゃ……あらまぁ、宮原さんのお孫さんに七里さんトコのお孫さんじゃないのぉ。なぁに? デート?」
ほぼ同時に「違います」と「違ぇよ」という否定文句が重なり、無駄に大笑いされてしまう。
(地元の個人店って、こういう所が面倒なんだよなぁ)
ハルの場合は祖父が地元で有名だったせいもあるのだが、まさか八木崎も似た境遇とは思わなかった。
(そうだ、おじいちゃんが好きだったっていうすあまにしよう)
二人はそれぞれ目当ての物を購入すると、ムスリと黙りこくったまま店を後にした。
しかし分かれ道まで黙ったままなのも気まずい。
何か言った方が良いかと思案を巡らせるハルの耳に、突如として子供の泣き声が聞こえてきた。
「うぇぇ~ん、ひっく、うぁぁ~~ん」
(一体どこから? あ、右のわき道か)
すぐ横の小道の先に小学一、二年生位の少年が立っていた。
おそらく転んでしまって泣いているのだろう。
少年の膝からじんわりと血が滲んでいるのが見えた。
(どう見ても転んで泣いてるようにしか見えないけど……でも……)
怪異に対する気配の察知能力に自信が持てず、ハルは反射的に八木崎の顔色を窺ってしまう。
彼は明らかに嫌そうな顔をして「泣いてんな」と一言だけ呟いた。
ハルとしてはその一言だけでも十分である。
人間だと分かってすっかり安心した彼女は、ボロボロと涙を流す少年に小走りで駆け寄った。
「大丈夫? 転んじゃったの?」
「うぅっ、ひっく……遊んでたらっ、友だちに押されてっ、痛いぃ~!」
「あらら……大丈夫だよ。ほら、小さいケガだから、ね? 泣かないで?」
オロオロと励ましながらハンカチで血を拭ってやるが、少年が泣き止む様子はない。
一人っ子のハルには子供の扱いなどてんで分からず、しきりに「痛い」「いじわるされた」と泣きじゃくる少年に早くもお手上げ状態となってしまった。
周囲を見回しても他の子供の姿は無い。
「ど、どうしよ……確かこの先に公園あったよね? 水道で洗う?」
「宮原」
黙って鞄を漁っていた八木崎が、おもむろに何かを突きつけてきた。
それが大きめの絆創膏だと気付き、ハルはパッと目を輝かせる。
「わ、凄い! 準備良いんだね」
「いーから早く貼ってやれ。こーいうのは傷が見えっから痛ぇし怖っくなんだ」
「う、うん。ありがとう」
絆創膏を受け取るやいなや、ハルは少年に「お家に帰ったらちゃんと洗うんだよ」と念を押しながら絆創膏を貼りつける。
すると八木崎の言葉通り、少年はグズグズと鼻を啜りながらもようやく泣くのを止めたのだった。




