1、不定形
ジリジリと強い日射しが焼きつける。
日傘を差しても体感的にはあまり意味を感じないレベルの暑さだ。
今月一の猛暑にうんざりしながら、ハルと北本は日当たり良好なバス停に佇んでいた。
「あっつ~……でも来て良かったね、ハル」
「うん。アカリちゃんも、今日は付き合ってくれてありがとう」
この日、ハルは北本と共にY大学のオープンキャンパスに来ていた。
北本は既に志望校が決まっているのだが、「色々見ておくのも参考になるから」とハルの付き添いを快く引き受けてくれたのだ。
今はその帰り際で、大学専用のバスが来るのを待っている所である。
少し長居してしまったせいで乗車待ちの人間は少なく、ハル達を除くと五人しかいない。
道に迷う心配さえ無ければ炎天下でバスを待たずに駅まで歩くのも有りだっただろう。
「生徒も派手すぎずっていうか、おっとりした雰囲気だったねぇ」
「うん。建物もちょっと古いのが多かったし、私は落ち着くかな」
「ハルらしい~。でも私も思った!」
今までに訪れた大学はスタイリッシュな校舎だったり、きらびやかな学生が多かったりと何かしらの華があったのだが、それらと比べるとY大学は少々地味な印象であった。
夏休みという事もあってか見かける学生も真面目そうな人が多く、ハルは初めて自分の気性に合った大学を見付けられたと感じていた。
「ハルの知り合いの先生も優しそうだったねぇ。あの喋り方で授業されたら即寝ちゃいそうだよ」
「ふふ、それちょっと分かる。でもあの先生の授業を受けてみたいから寝ないように頑張るよ」
「その為には受かんなきゃだけどねっ」
「う……そっちも頑張るよ」
ジージーと騒ぐ蝉の声に紛れ、二人はクスクスと笑い声を上げる。
大学の敷地沿いを流れる小川から鴨が一羽飛んでいった。
(今日は吉見先生に会えて良かったなぁ。話も聞けたし、アドバイスも貰えたし)
講堂での説明会の後、ハルは以前に出会ったボリューム満点の白髪頭を見つけた。
吉見もハルを覚えていたらしく、すんなりと話す事が出来たのも幸運だった。
──やぁ、来たんですねぇ。
穏やかさも健在で、彼はハルの質問に対し実に丁寧に答えてくれた。
学部ごとの男女比や学生の気質等、説明会だけでは分からない話が聞けたのは大きな収穫である。
その上更に、新たな気付きもあった。
話が脱線した折に彼が語った「遺跡発掘の話」やら「邪馬台国の場所がまだ分かってない話」やらがとても面白かったのだ。
元々雑学を聞くのは好きな方であったが、この時ハルは初めて「自分は歴史や民話の話が好きなのだ」と自覚した。
──ハルって結構日本史とか得意だしさぁ。人文学っていうの? そういう系は向いてるのかもね~。
しみじみと肯定する北本に背中を押された気がして、ハルは吉見に「この大学を受けたいと思う」と宣言してしまう。
以前より迷いが無くなったハルの様子に、彼は「自分は合否に関わらないが」と前置きをした上で「お待ちしていますよ」と微笑んだのだった。
(やっぱり目標って大事なんだなぁ。ずっとしんどかったけど、今はやる気が出てきたもの)
本を沢山読むようアドバイスも貰い、ハルは久しぶりに浮き立つ思いで額の汗を拭う。
ハルの心境の変化に気付いているのか、北本もどこかホッとした様子で顔を扇いだ。
「それにしても平和だねぇ。暑くなければ最高なのにー」
「本当、溶けちゃいそうだよね」
背後に小川、前方には広い芝生。
その向こうに覗く複数の校舎。
大学周辺は住宅地ばかりで、たまに畑がある家も存在する。
世与市に隣接する市でバイパスも通っているとはいえ、かなりのどかな地域といった印象だ。
「バス遅い~。アイス食べたーい!」
「んー、時間的にはそろそろ……あ、来た!」
車体に大学名が書かれた小型バスが停車し、乗客が後ろの扉から降りていく。
「オープンキャンパスで来た」と運転手に告げれば、バス券無しの乗車が許された。
「涼し~。生き返るぅ」
座席に座った所でようやく人心地つく。
バスは数分待機してから静かに発車した。
静かな車内での会話は憚られ、二人は大人しくバスの揺れに身を任せる。
(斜め前に座ってる人、ずっと落ち着き無いなぁ)
バスを待っている時から地味に視界に入っていた人物がやたらと目につき、ハルはチラリとそちらを盗み見た。
学生と思われる、うっすらと顎髭を生やした若者だ。
ただの癖なのか顔が痒いのかは分からないが、彼はやたらと顔を撫でたり払ったりとソワソワし通しである。
(鬱陶しいなぁ。そんなベタベタ顔触らなくても良いじゃん)
北本も流石にウザいと感じているのか、僅かに嫌な顔をしてからバスの外に視線を向けている。
結局駅に着くまでの十分間、若者はずっと鼻やら頬やらをペタペタ、さわさわと触り続けていた。
「さーて、帰りますか! この辺あんまお店無いし!」
「うん。世与本町に着いたらアイス食べよう」
バスを降りた途端に熱気に襲われ、二人はさっさと駅に入る。
考える事は他の乗客も同じらしく、全員がゾロゾロと改札目掛けてまっしぐらだった。
(うわ。あの髭の人、同じホームっぽい)
足早に歩きながらも顔を撫で続ける彼には不潔感しか抱けない。
北本と顔を顰め合っていると、電車が来るアナウンスが流れ始めてしまった。
「うっそヤバ! 早く早く!」
「わわ、待って待って」
バタバタと階段を駆け下り、タイミング良くやって来た電車にどうにか乗り込む。
それなりに乗客が多いのもあって髭の人物はあっさりと見失ってしまった。
「ふぅ、間に合って良かったぁ。この暑さで次の電車待つのは地獄だもん」
「だね。それにこれ快速だし、世与本町には早めに着くよ」
「いいなぁ。各駅でも三十分位? 最寄りから一本ってのは楽だよね~」
扉の脇に寄りかかってとりとめの無い話をする間にも、電車は乗客を降ろしては乗せ、降ろしては乗せを繰り返す。
気付けば乗客は乗車時よりもかなり減っていた。
あと一駅で降車駅だと思ったタイミングで、ハルは同じ車両の少し離れた所に先程の若者がいる事に気が付いた。
彼はハルがいる位置から対角にあたる扉の横に立っている。
もしや同じ最寄りではなかろうか──
こちらの方を向いて相変わらずベタベタと顔を撫でる彼に辟易すると同時に、妙な違和感に気付いてしまった。
(……あっ!)
うっかり目を凝らしてしまった彼女は即座に視線を落とした。
若者と目が合ってしまったからではない。
むしろ目が合う事があり得なかったからである。
(か、顔が無い!?)
印象深かった顎髭すら見えない。
パーツの消失したその顔は凹凸すら無くツルリとしたもので、まるで肌色の卵の殻を被ったような見た目をしていた。
しかし生々しい程の皮膚感がただの殻やお面ではない事を物語っている。
あるべき目鼻や口、彫りが無いだけでここまで不安な気持ちになるのかと、ハルはのっぺらぼうの彼を直視しないよう体をずらした。
彼はしきりに顔を撫で続けており、周囲の乗客はチラチラと怪訝な顔で彼を見る者もいれば視界に入れないよう目を伏せる者もいる。
北本の反応も「まだやってる」といった表情をしているので彼自身が怪異といった可能性は低そうだ。
(えぇ? あの人の顔が見えないのは私だけ? でも何で? 旧世与に入ったから?)
人に見えないモノが視えてしまう事は数あれど、人に見えるモノが自分にだけ見えないというのは滅多と無い現象である。
説明し難い気味の悪さに嫌な汗がジワリと浮かぶ。
(昔話でよくある「のっぺらぼう」のお話の主人公も、こんな気持ちだったのかな……)
先程からハルの脳内では、のっぺらぼうに驚いた男が助けを求める先々でのっぺらぼうに出会うという怪談が繰り広げられている。
ここでもし他の乗客や北本がのっぺらぼうになって「顔が無いって、こんな顔?」などと言い出したら──
そこまで考えた所でハルは慌てて考えを振り払った。
「どしたの? ハル」
「何でもないよ。暑くてボーッとしてただけ」
笑って誤魔化した拍子に、ハルはつい若者の方を見てしまい──
目が、合った。
そう感じた瞬間、相変わらずベタベタと顔を撫でていた彼の顔からデロリと何かが剥がれ落ちた。
肌色の何かがベシャリと水気の多い音を立てて床に叩きつけられる。
(ひっ、何!?)
彼からはすぐに目を逸らしたものの、落ちたソレは視界の端で捉えたままだ。
スライムの玩具やアメーバのように不定形な肌色のソレは、モゴモゴと蠢きながらあろうことかハルの方へと真っ直ぐに移動し始めた。
ネチャネチャと粘着性の高い不快な音が嫌でも耳に入ってくる。
(やだ、こっちに来る!? 気持ち悪い!)
動きは早くもないが遅くもない。
このままではすぐにこちらに辿り着かれるだろう。
焦る一方、ハルの足は電車の揺れに踏ん張ったまま動かない。
その代わりに彼女の頭はフル回転していた。
(どうしよう、アカリちゃんに何て言ってここから離れる? いや、私が狙われてるなら私だけ移動? でも私は御守り持ってるし、代わりにアカリちゃんが狙われちゃうかも)
ネチャ ニチャ
形の無い肌色との距離はもう一メートル程しかない。
ブヨブヨとしているのに質感はしっかり人間の皮膚なのが分かる距離だ。
ここまで来たら腹を括るしかない。
(……よし!)
踏みつけて、怯んだ隙に北本を連れて隣の車両に移動する──
そんな千景のような行き当たりばったりの決断を下した時だった。
ガタンッと車体が大きく揺れた。
「ひゃっ」
油断した──そう思ったのはハルだけでは無かったらしい。
ハルの近くに立っていたハイヒールの女性が、大きくバランスを崩し、なんと肌色のアメーバを思い切り踏みつけてしまったのだ。
(え……えぇ?)
ウゴウゴ、ネチャネチャとひとしきり暴れたソレは女性のハイヒールを伝い、ネロネロとふくらはぎを伝っていく。
(うぇ……)
ネチョネチョと服の上を這い上がったソレは、女性の顔の上に収まるとようやく動かなくなった。
顎髭の男と同様、女性の顔は肌色の何かに覆われてのっぺらぼうのようになっている。
(あれって顔に付くオバケなんだ?)
意図せず救われた形になってしまったが、このまま放っておくのも良心が痛む。
しきりに顔を気にしだす女性を前にどうしたものかと考えていると、とうとう降車駅に着いてしまった。
ハルが「まずい」と思う間もなく、女性は急いでいたのか扉が開くと同時に電車を飛び出してしまう。
しきりに顔をペタペタと撫でながら早足で立ち去る女性を申し訳なく見送りながら、ハル達も電車を降りた。
(あのスライム、さっきの人から早く離れると良いけど……)
激しい蝉の鳴き声が耳に残る粘着音をかき消していく。
「この暑さであの肌色の何かが溶ければ良い」と願わずにはいられないハルであった。




