3、招き綿毛③
彼にそのつもりがないとしても、こうも一方的に振り回されるのは納得がいかない。
ハルは嬉しさ半分悔しさ半分の複雑な思いで運ばれてきた食後のスイーツを眺める。
彼女の百面相の理由に興味はないらしく、竜太は平然と話題を変えた。
「ハルさんの頼んだティラミス、一番人気なんだよね」
「そうなんだ、定番だもんね。っていうか竜太君のそれ何だっけ? アイス?」
「アフォガート。俺も食べるのは初めて」
そう言いながらも彼は迷いない所作でバニラのジェラートに熱いエスプレッソソースを回しかけている。
聞きなれない料理名と見慣れない食べ方に目を奪われていると、彼は面倒臭そうにカトラリーケースからスプーンを取り出し、ハルに向けて差し出した。
「見すぎ。知らないなら食べてみれば」
「え? いや、は!? や、そんなつもりで見てた訳じゃ……」
「早く。溶ける」
有無を言わさぬ圧に押し負け、ハルは恐る恐るスプーンを受け取る。
震える手ですくい取ったなめらかなジェラートが、口に入った途端にスッと溶けて消えた。
エスプレッソの苦みと冷たいバニラの甘みが口一杯に広がり、何故だか無性に彼女の心を締め付ける。
(苦いのに、甘い……)
まるで自分の恋心のようだなどとらしくない感想を胸に秘め、ハルはたどたどしく器を彼の元に押し返した。
「お、美味しかった。ありがとう。苦甘いかった」
「何で片言なの」
突っ込みを入れる彼の右手のスプーンがちょいちょいと揺らされる。
何なのかと疑問を抱く間もなく、その手はハルのティラミスを差し示した。
「一口あげたんだからハルさんも頂戴」
「!? へ、あ、どうぞ……」
「世の中タダで貰える程甘くはないからね」
遠慮の欠片もなくザクリとスプーンを突き立てる姿勢にはいっそ清々しさすら感じる。
大きな一口を持っていかれたものの、ハルはいよいよ赤面してしまった。
キャパオーバーもいい所である。
(まだ口をつけてないとはいえ、交換こは私にはまだ無理無理っ! 居たたまれないっ!)
欠けたティラミスが気恥ずかしい。
早く落ち着かねばと動揺しきりで顔を上げると、彼は既に「全部混ぜた方が旨い」とジェラートをグリグリかき混ぜていた。
甘い空気の欠片もない。
色々と台無しすぎる光景に幾分か落ち着きを取り戻し、ようやくハルもティラミスにありつく事が出来た。
「そういや大学は県内って言ってたけど、学部とかは決めてるの」
「んー、一応文系で考えてるよ。もしくは……福祉系とか?」
まだ全然分からないけどね、と肩を落とすハルとは対照的に、竜太は何故か表情を和らげている。
「まぁ何でも良いんだけど。……でも少し良かった」
「何が?」
「前に言った『旧世与で視える若者は大抵世与から出て行く』って話、覚えてる?」
初めて会った頃の話とは、これまた随分と遡ったものである。
覚えていると頷くと、彼は少し言いづらそうに口を尖らせた。
「ハルさんビビりだし、もしかしたら世与が嫌で出ていくかもって思った」
「えぇ!? いやいや、それはないよ。わざわざ親を説得してまで一人暮らしする気もないし……そこまでして進学したい県外の学校も無いもん」
むしろ世与を出る選択肢は非現実的すぎて真っ先に除外した位である。
そう笑いながら話した所、彼は「そう」とふて腐れたようにスプーンを置いた。
「? えと……どうしたの?」
「別に」
頬杖をつく彼にかける言葉も見つからず、アフォガート以上に甘くてほろ苦いティラミスを頬張る。
客で賑わう店の中、二人の周りだけ切り離されたように静かな時間が流れていく。
(もしかして、私が世与から出ていかないか心配してくれてた……?)
もしそうなら喜ばしい限りだが、勘違いだった場合の事を考えると口に出すのは憚られる。
何れにせよこの日はとことん調子が狂わされる日のようだ。
「あ」
「え、何?」
急に目を見開いた竜太につられ、ハルも目を丸くする。
何事かと聞くより早く、彼は少し慌てた様子でハルに静止するよう右手を掲げた。
「動かないでハルさん。ゆっくり、落ち着いて左腕を見て」
「何それ怖いんだけど……」
ギギギ、と錆びたロボットのような動きで言われた通りに左腕に視線を落とす。
ふよん ほよん
「ぅ、わわ……」
(近いっ!)
なんと先程視たばかりの綿毛がハルの真横で跳ねていたのだ。
あまりにも気配が無かったので気付かなかった。
角度的に分からないが、半袖の部分に触れているかもしれない程の近距離である。
(何で私の所に!?)
ふよん、ほよんと緩慢な上下運動はまるで生き物のようだ。
身動き出来ずに硬直する彼女に、竜太は羨望の眼差しを向けている。
「どど、どうしよう、これ……」
そっと右に体をずらしたが、綿毛も一緒になってほよんほよんと付いてくる。
開かない距離に困惑していると、手を伸ばそうか否か迷っている竜太と目が合った。
「……俺、昔さ。宮原のじいさんにこの綿毛捕まえて良いか聞いたんだよね」
「……うん。それで、おじいちゃんは何て?」
「『可哀想だからそっとしといてやれ』ってさ」
「だろうね……」
ふよんほよんと真横で跳ねる綿毛を見つめながら右手で頭を抱える。
悪いものではないと思われる手前、手で払いのけるのは気が引けた。
「そいつ、熱いとか冷たいとかあるの?」
「無いよ。触れてる感じも空気が動く感じも無いし」
むしろ視界から外すと居るのか居ないのかさえ分からない程の存在感だ。
とうとう痺れを切らしたのか、竜太が少しだけ身を乗り出した。
「触っちゃまずいかな。噛むかな」
「えぇぇ……流石に噛まないだろうけど、おじいちゃんの言う通り、止めといた方が良いと思うよ? よく分からないってのもあるけど、なんか可哀想だし」
「チッ」
(何も舌打ちしなくても……)
行き場のない右手を悔しげに握りしめる彼には悪いが、得体の知れないモノに手を出させる訳にはいかないだろう。
それより問題なのは自分である。
下手に動くとぶつかりそうな上に、もし席を離れても付いてくるようなら恐怖でしかない。
「……ハルさんずるい」
「そんな事言われても、私だって代われるなら代わりたいよ」
綿毛を熱心に見つめる彼の視線が羨ましいやら居心地悪いやらで、ハルは申し訳なさげに縮こまる。
長い葛藤の末、竜太はようやく諦めた様子で握りしめた右手をテーブルに置いた。
「……正直、すっごく触りたい。……けど、ハルさんがそう言うなら我慢する」
「う、うん。そうしとこう?」
「本当は触りたいけどね」
どこまでも未練がましい彼に苦笑しているとウェイトレスと目が合った。
先程竜太と話をしていた人物だ。
向けられる視線を怪訝に思ったハルはそれとなく「さっきの店員さんも視える人なの?」と声をひそめる。
しかし彼の答えは「多分否」であった。
「この店の人で視える人は居ない筈。何で?」
「いや、なんかビックリした顔でこっち見てたから……綿毛に気付いたのかなって」
「ハルさんの百面相に引いたんじゃない?」
しれっと失礼な発言をされ、ハルは小さくむくれながら「お店を出たら離れるかなぁ?」と綿毛に視線を戻す。
綿毛は飽きもせずに跳ね続けている。
ふよん ほよん
(離れなかったら嫌だけど、懐いてくれてるみたいなのは可愛いかも……)
とりあえず店を出る事で意見は一致し、二人は静かに席を立つ。
意外にも綿毛はその位置から移動する事なく、跳ねながらその場に留まってくれた。
「すんなり離れられたね。たまたまハルさんの横に出ただけだったのかな」
「良かったぁ。どうしようかと思っちゃったよ」
伝票片手に歩き出す彼に続こうとしたハルは、一瞬だけ立ち止まるとこっそり「バイバイ」と綿毛に片手を上げた。
伝わったかは不明である。
綿毛は何も変わらず、ハルが座っていた席でほよんと跳ねるだけであった。
その後さっさと会計を済ませる竜太に慌てて財布を出したり、結局ハルは二千円だけ払って端数を彼に出して貰ったりと一悶着あった事は割愛する。
最初に居たウェイトレスとは違う店員の生暖かい視線が気まずくてならない。
「ありがとうございましたー」という声から逃れるように会釈をしたハルは、悠々と店を後にする竜太の図太さに改めて感心した。
(今更だけど竜太君、バイト先で私みたいなのと噂されても良いのかな?……まぁ虫除けになるのを期待してた位だし、気にしないんだろうけどさ……)
竜太にとって自分は何なのか──
聞くに聞けない質問が頭の中で渦を巻く。
颯爽と前を歩く彼の隣に並んでみようかと足を速めた時だった。
「……天沼?」
道の脇から凛とした声が掛けられた。




