5、上書き
ハルが三沢へメッセージを送るよりも少し前の事だ。
図書室を出た三沢は苛立ちを隠しもせずに帰路についていた。
この時の彼にとってメリーさん以上に煩わしかったのは、オドオドと後ろから付いてくる持田の存在である。
「ッゼーな。付いてくんな!」
「で、でも俺、怒らせちゃって……」
「わーってんならこれ以上怒らせんな!」
公道で人目も憚らず怒鳴り付ける三沢に、持田は怯みこそすれ逃げる様子はない。
以前の彼ならばまず考えられない行動である。
その態度を「舐められている」と受け取り、三沢はガリガリと頭を掻きむしった。
「っつーかこの際だから言わして貰うけどよ。お前一番カンケーねーだろ! 気配が分かる訳でもねぇ! 声が聞こえる訳でも、情報を集められる訳でもねぇ! ぶっちゃけお前は宮原に付いてきたオマケなんだよ!」
今まで蓄積されてきたストレスが言葉となって溢れ出る。
もはや本人の意思では止める事が出来ない感情の爆発であった。
すっかり青ざめて立ち尽くす持田を見ても尚、三沢は怒りの感情に身を任せたまま更に捲し立てる。
「これ以上付いてくるってーんなら、お望み通りマジでお前の番号書いてやっかんな!」
吐き捨てながらも勢いよく顔を背けたのは、彼の中の良心が「言い過ぎた」と思ったからだろう。
しかしここで予期せぬ反応が返ってきた。
「……! そ、それだよ! 三沢君!」
「…………は?」
これまで言われるがままだった持田が、「良い作戦を思い付いた」とばかりに表情を明るくしたのだ。
「三沢君が俺の電話番号を書いたら、メリーさんは俺の方に電話を掛けてくるだろ? そしたら俺が電話に出て『今時間ないし、番号間違ってる』って答えれば良いんだよ!」
「なっ……は……えぇ?」
あまりに突拍子もない大胆な作戦に、三沢は目を白黒させて言葉を失う。
しかしすぐに我に返り、持田の胸ぐらを荒々しく掴んだ。
「馬鹿かてめぇは! アレの気配も分かんねぇような鈍感な奴に、絶対に電話が掛かってくるって保証もねーだろが!」
「で、でもほら、電話のアポは噂の大前提みたいだし……いざとなったら番号を消すとかさ」
「だーかーら! 俺ん時みてーに落書きが消えてたら消せねぇだろーが!」
互いに引かない言い合いは、持田の「三沢君が書かないなら俺が自分で書きに行くよ」という半ば脅しのような台詞で幕を閉じた。
「チッ。何でお前が身代わりになんのを俺が止めてるみてーになってんだよ。クソッ」
「まぁまぁ。とりあえずダメ元で試してみようよ。もしかしたら俺が鈍すぎて、メリーさんも呆れて帰っちゃうかもしれないし」
あのおぞましい気配を感じないからこその呑気な発言である。
変な所で図太い持田に完敗し、三沢は渋々と母校へ向かう事を了承する。
抑えようのない怒りはいつの間にかなりを潜めていた。
◇
頭世駅から歩くこと十数分。
二人は一度コンビニに寄った後、何事もなく頭世北小の体育倉庫裏に到着した。
周囲は閑静な住宅地で、夕方とはいえまだまだ明るいにも関わらず人通りは殆んどない。
校舎や樹木の陰になっている事も相まって、そこはかとなく鬱々とした印象だ。
「これがその倉庫の壁?」
「……おぉ」
茶色く錆びた格子状のフェンス越しに壁を見る。
背面側だけ不自然にクリーム色のペンキが塗られたコンクリートの壁だった。
「汚れてるけど、何も書いてないねぇ」
「けど、前に見た時は確かに俺の番号が書かれてたんだ。丁度この辺と、この辺に」
「うーん。もしまた番号が書いてあったらこれで消せたのにね」
持田は先程コンビニで購入したばかりの修正液を手持ち無沙汰に振る。
広範囲を塗れる筆タイプの修正液がカシャカシャと小気味良く鳴った。
「そう上手くいかねーだろ。っつーか勝手に修正液塗っつけんのも器物損壊? とかになんじゃねーの?」
三沢の口調は酷くやる気のないものだが、態度は警戒の色が強い。
またいつあの気配が近くに来るとも知れないのだから当然といえば当然である。
メリーさんが本当に刃物を持っているかは不明として、恐らくアレは「時間がある」と判断した瞬間、自分に刃を突き立てるのだろう──そんな確信が彼にはあった。
「で、どーすんだ? お前マジで自分の番号書くつもりかよ」
「う、うん。落書きなんて初めてだからバレて怒られないか心配だけどね。あ、消しゴムでも消せるようにシャーペンにしとこう」
頼りない手つきで筆箱を漁る持田を苦々しく眺めていると、三沢のスマホがヴーヴーと震えた。
気を張っていた分派手に肩が跳ねたものの、メッセージの送り主がハルだと分かり、彼は気まずく舌打ちをする。
「大丈夫? ま、まさかメリー……」
「いや、宮原からだ」
届いたメッセージにザッと目を通す。
持田はハルからのメッセージの内容を聞いても良いのか迷った様子で、壁とシャープペンシルと三沢を順繰りに見比べている。
──さっき持田君が言ってた事だけど、別に三沢君を疑うつもりで言った訳じゃないと思うよ。
持田君、話を聞いてから今までずっと三沢君の事心配してたし……
──あのメリーさん、凄く嫌な感じがするし、三沢君が大変なのは分かるけど、持田君の事、あんまり怒らないであげて下さい。
──長々とごめんね(汗の絵文字)それでは(手を振る絵文字)
「…………」
「あ、あの、宮原さん、何て?」
みるみる内に険しくなる三沢の顔に気付き、持田が不安そうな声を出す。
それを見た三沢の胸に、先程の怒りとは比にならない程の激しい憤りが沸き起こった。
「っんで、こう、どいつもこいつも……!」
「え? え?」
「チッ、貸せ!」
三沢は持田からシャープペンシルを奪い取ると勢いのままにフェンスに腕を突っ込み、数字を壁に書き込んだ。
「わ! ちょ、どうしたの三沢君!?」
「お人好しな学級委員長共に世話になりっぱなしでいられっかよ!」
乱雑な字で番号を書き終え「これでどーだ!」とフェンスから手を抜く。
呆気に取られていた持田が声を掛けようとした瞬間、明らかな異変が起こった。
「……は……?」
「嘘……壁に字が……」
ジワリ、ジワリと染みが浮き上がるように、クリーム色の壁一面に数字や名前の落書きが浮かび上がってきたのだ。
まるでプロジェクションマッピングやCGを思わせる、不可思議としか言い様のない光景である。
先に硬直から解けたのは三沢だった。
「ぁ……こ、コレと、コレだ。俺のケー番」
「そ、そっか……えと、一応、消しとこっか?」
持田が震える手を伸ばし、モタモタと三沢の電話番号を消しにかかる。
一つは雑だが癖のある、何処かで見た事があるような筆跡だった。
そしてもう一つはやたらと丸みを帯びていて可愛らしい、若い女の子が書いたような──
首を傾げながらも丁寧に番号を白く塗り潰す持田の背中を、三沢が突如として激しく叩いた。
「っ早くしろ持田! 来てる! 奴がこっちに来てるっ!」
「え? えぇ?」
「急げ! あいつ早ぇっ! 早くっ!」
もしこの場にハルが居たら声なり足音なりが聞こえたのだろう。
残念ながら二人には遠くで聞こえる工事現場の音しか聞こえない。
三沢からすれば凄いスピードでこちらに向かって迫ってくる得体の知れない邪悪な何かがいる事しか分からないのだ。
何度想像したか分からない、金髪の少女の皮を被った皺だらけの怪物が頭に浮かび、彼は焦りに焦る。
「消したか!? 消したか!?」
「待って、塗りが薄い所あって、透けてて、」
「早く早く早く! もう来ちま──」
ざわり。
何かが、来た。
「……お、俺達時間ない! 番号も間違ってる!」
『 』
声など全く聞こえない。
それでも、いるのだ。
二人のすぐ背後に、間違いなく──
三沢は持田の背中を掴んだまま微動だに出来ない。
持田は持田でただならぬ空気を感じて壁に手を伸ばしたまま動けずにいた。
どれくらいそうしていただろうか。
実際には短い時間だったのかもしれないが、二人にはとても長い時間に感じられた。
『 』
スゥ、と嫌な圧が退いていく。
いつものように、また来ると言って出直す事にしたのだろうか──
それとも──
「…………は、はは……行ったみてぇだ……」
「……そっか……もう来ないのかな?」
「知るかよ。宮原じゃねーんだから」
二人は乾いた笑いを滲ませながら壁を見た。
修正液で完全に見えなくなった三沢の電話番号と、新しく書き加えられた三桁の数字。
それらが全て、先程見た光景を逆再生するかのようにジワリ、ジワリと消えていく。
壁一面のぐちゃぐちゃな落書きはあっという間に消え去り、元の薄汚れたクリーム色の壁だけが残された。
三沢が書いた番号はおろか、修正液の跡すら見当たらない。
「……帰っか」
「う、うん」
非現実的な現象を目の当たりにした二人は、口数少なくその場を後にする。
空はすっかり日が落ちていた。




