6、雨宿り
三日前の事だ。
母親からスーパーへのお使いを頼まれていたハルは、その目的地の十メートル程手前で交通事故があった事を知った。
粉々に散らばったガラスの破片に、何らかの部品や金属製の破片──
何よりアスファルトに赤黒く広がっている大量の血痕が事故の凄惨さを物語っていた。
既に現場検証等は終わっているらしく、野次馬は少ない。
通りがかっただけの彼女にはどんな事故だったのか詳細が分からなかったものの、生々しく残る事故の痕跡には少なからず動揺した。
(事故かぁ、怖いなぁ。凄い血の跡だけど事故に遭った人は大丈夫なのかな?)
ジロジロ見るのも気が引けた彼女は、バケツで血溜まりに水をかけて洗い流している作業員を横目に足早にその場を通り過ぎたのだった。
その翌日、ハルは母親から「昨日、スーパーの近くで小学生がトラックにはねれて亡くなったらしい」と知らされた。
歩道と車道の区別のない道を飛び出した所、運悪くトラックに轢かれてしまったのだという。
(あの大量の血、子供だったのか……いや、大人なら良いって訳じゃないけど)
井戸端会議で得たというその話が事実であるなら、なんとも胸の痛む話である。
母親に言われた「ハルも気を付けなさいよ」という言葉は記憶に新しい。
──そして現在。
この日もハルは再びスーパーへお使いに向かう途中で、件の事故現場前を通りがかった。
近くの電柱の下に供えられた真新しい花やお菓子、ヌイグルミなどから母の話の信憑性が増していく。
(ピンクの物が多いし、女の子だったのかな? それにしても……)
目を引くのはセンターラインの無い道路に広がる赤黒い染みである。
まだ濡れてすら見える血痕は、事故当日に見かけた時と寸分違わぬように見受けられた。
(でも、あの時ちゃんと洗い流してたような……?)
まるで薄れていない事故の痕跡から目を背け、ハルはスーパーに入店した。
(ちょっと気味が悪い、なんて思ったら被害者の子に悪いよね)
怪異などではなく、きっと血液の汚れは落ちにくい物なのだろう──
更に日が経てば消える筈だ──
そう思い直して買い物に専念する内に、ハルの頭からは血痕の事などすっかり抜け落ちてしまった。
しかしその数十分後、買い物を終えた彼女は怪異とは全く関係ない理由で途方に暮れる事となる。
ザァザァ──
ザァザァ──
(うわぁ、雨降ってる。しかも本降り)
ビニール傘を買おうかと一瞬迷うが、今日に限って両手が塞がる大荷物である。
(予報じゃ今日は曇りだったのにツイてないなぁ。雨が弱まったタイミング狙って帰ろう)
ザァザァ──
ザァザァ──
「雨、結構大粒ですねぇ」
「!……はい……そうですね」
スーパーから出てきた白髪の初老男性が、のんびりとした所作でハルの左側に並んだ。
人一人分以上離れた距離は男性の気遣いだろう。
どしゃ降りの中を早足で行き交う人々を前に、ハルはチラリと男性を盗み見る。
彼はふわふわとしたボリュームのある白髪頭で水色のポロシャツにベージュのズボンというラフな格好をしており、大きなエコバッグを提げていた。
「この荷物だし、少しでも弱まってくれたら助かるんですけどねぇ」
「そうですね」
(羊みたいな人だなぁ)
ははは、と控えめに笑う男性の穏やかさにつられてハルも小さく微笑み返す。
ふいに視界の端で何かが動いた。
通行人とは明らかに違う動きと気配である。
ギョッとしつつも平静を装えば、数メートル離れた場所──事故現場の血痕があった場所にずぶ濡れの少女が立っている事に気が付いた。
こちらに背を向けているので顔は見えない。
高い位置で結われたツインテールも薄桃色のワンピースもグッショリと濡れている。
普通の子供であるならば傘を差し伸べたくなるような光景だ。
しかし広くない道幅とはいえ、車道の中央に所在なさげに立ち続けている様は異様としか言いようがない。
何より道行く人々は誰一人として少女に目もくれていないのだ。
少女は時折電柱の花を気にする仕草をしたかと思えば、足元の赤黒い染みを見下ろしたりしゃがみ込んだりしている。
「……君は慣れている感じかな?」
「え?」
「僕はこの町、結構長いんだけどね。でも、まだ慣れた気がしないよ」
僅かに少女の方を気にしたような男性の目線の動きから言わんとしている事を察し、ハルは慎重に言葉を選ぶ。
「私はまだ来たばかり……の方です。最初と比べるとだいぶ慣れたと思ってましたが、そう言われると自信無くなってきました」
「ほぅ?」
男性は少し意外そうに目を細め、「いやぁでも、見た感じ十分慣れてると思いますよ?」と少女から意識を逸らすように空を見上げた。
視界の隅に映る少女は静かに足元を見つめるばかりだ。
降りしきる雨で視界が悪いにも関わらず、不思議と遠目からでも黒い染みだけはハッキリと見えた。
哀愁漂う小さな背中が見ていられず、ハルはそっと目を閉じる。
「……僕は気になった事はとことん調べたいタチでねぇ。若い頃にたまたま旧世与町を知ってしまって以来、ずっとこの町の性質について調べているんですよ」
「え、ずっと……ですか?」
「ははは、住み着いてからもう四十年になりますか。それなのに未だ分からない事だらけですよ」
男性は「困ったものです」とさして困った風でもなく笑っている。
一体この町のどこにそこまでの魅力があるのか、ハルには今一つ理解が及ばない。
(人って見かけによらないんだなぁ)
この穏やかそうな男性が怪異に魅了されているとはとても思えなかった。
「あ、あの……」
「はい?」
「そんなに長く調べるくらいこの町……というか、旧世与町の特性って、良いと思えるものなんですか?」
口に出してしまってから「しまった」と後悔する。
この言い方ではまるで変わり者だと指摘しているようではないか──
慌てて「すみません、失礼な事を……」と頭を下げるも、彼は全く気を悪くした様子はなくハルに頭を上げるよう促した。
「さっきも言ったように、僕はただ『何故この町がこうなのか』が気になるだけなんですよ。恐怖心よりも探究心が強かった。それだけなんです」
「はぁ……」
「まぁ調べるといっても、仕事の延長線上の趣味といった所ですがね。僕はこう見えて大学で民俗学を教えているので」
事もなげに話され、ハルは驚きの声を上げる。
「え、大学の先生なんですか?」
「えぇ。一応准教授をやらせて貰ってます。だから古い文献を調べたり、フィールドワークなんかは得意なんですよ」
フィールドワークが何なのか分からない彼女は曖昧に相槌を打ちながら男性を見つめた。
知ってしまえばこれ以上ない程に彼にピッタリな職業のように思えてくるから不思議である。
話をまるで聞かない今の担任とはまるで違い、理想の教師像とすら感じられた。
「その……なんか、良いですね」
「はい?」
「私、趣味とか特技とか夢とか。ずっと調べていたいと思えるような熱中できる物も、何も無くて。……友達が、この町の特性に興味があるっぽい子がいるんですけど、私はちょっと……」
身を縮ませる仕草を見せれば男性もハルの複雑な心境を理解したらしい。
彼は「なるほど」と何度も頷きながら思案した。
「君は高校生かな?」
「あ、はい。三年生です」
「なるほど、悩ましい時期ですねぇ。……でも、始めから『この先ずっとコレについて研究したい、学びたい!』とガチガチに決めてから入ってくる学生は少ないですよ」
諭すような口調に絆されつつも、ハルは「でも……」と不安げな声を溢す。
「夢や仕事だってそう。何となく自分に合った道に進んで、選べる選択肢の中から徐々に決めていく人が大多数です。……少なくともうちの大学では、ですが」
少しだけおどけたような口調はどこまでも優しい。
ハルはこれまで積み重なっていた焦りと不安の心がじわりと刺激されるのを感じた。
男性の話は穏やかに続く。
「物事のキッカケなんて些細なものです。道に迷っているのなら焦って無理に決め付ける事もないでしょう」
「……はぁ……」
「あぁ、流石に今のは受験生相手に無責任な発言でしたか。指導者失格ですねぇ」
「まずいまずい」と照れ笑いする男性につられ、自然とハルの口元に笑みが浮かぶ。
優しげな男性の表情が遠い記憶の祖父の顔と重なった気がした。
(この人の話し方、落ち着くなぁ)
もう少し話を聞いてみたい──そう思った矢先に、彼は「さぁて」と話を切り上げてしまった。
「雨足も弱まってきたようだし、私はもう行きますね」
今にも歩き出しそうな男性の行動を引き留めるべく、ハルは慌てて声を上げる。
「あっあの! えっと、その……おじさんのいる大学ってどこか聞いても良いですか!?」
男性は少し驚いた顔をした後、「Y大学の文化人類学部ですよ」と微笑んだ。
彼は吉見と名乗ると「それでは」と軽く会釈だけして小雨の中を行ってしまった。
(Y大学、吉見先生か……民俗学ってどんな事を勉強するんだろう?)
エコバッグを抱えて足早に立ち去る彼をぼんやり見送り、ハルも小雨の中に足を踏み出した。
── 。
少しだけ気になるというだけの、まだ興味とも言えないようなささやかな疑問。
そして「吉見という教授ともう少し話がしてみたい」という小さな願望──
── 。
『物事のキッカケなんて些細なものです』
つい先程の彼の言葉が頭によぎる。
(確かにそうなのかも……)
── ?
怪異は勿論、旧世与にもさほど興味はないが、彼の授業がどんなものなのかには興味が湧いた。
── 。
(そうだ、「フィールドワーク」が何なのかも調べよう)
── ?
早く帰ってY大学について調べようと意気込んでいたハルは、最後まで事故現場の少女の呟きに気付く事なく家路についたのだった。
──押されて死んだ。
──友達に押された。
──どうしたら良い?
──あの子許せない。
──どうしたら良い?
雨がまた少し強くなっていく。
ザァザァ──
ザァザァ──
少女の呟きに気付く者は誰も居ない。




