2、廃トンネル①
錆び付いた扉がガタガタと不快な音を立てて開かれると、吹き抜ける風に乗ってカビた臭いが鼻をついた。
(うぐ、埃っぽい)
不衛生な空気を察知したハルはすぐさま左手で鼻と口を覆い隠す。
完全な密閉空間だった訳ではないのに嫌な臭いである。
予想通り内部は暗くて懐中電灯二つだけでは心もとない。
暗闇に慣れない目をよくよく凝らせば、向かいにトンネルの出口らしき明かりが見えた。
「足元気を付けて下さいよー」
「は、はい……」
躊躇なく足を踏み入れる忍の後に慌てて続く。
彼は「あ、暗いし扉は開けといて」とだけ言うと懐中電灯で辺りをグルグルと照らしながら歩き始めた。
閉めても閉めなくてもさほど大差無いだろうが、無いよりマシな光源といった所だろう。
(完全な暗闇じゃなくて良かった……)
目さえ慣れれば足元が見えると分かり、少しだけ気が楽になる。
転ばないよう足元を注視しながら忍から離れすぎないようについて歩く。
彼のようにフラフラと周囲を見回す余裕はない。
(出口が見えるし、そんなに長いトンネルじゃなさそう。何メートル位あるんだろ?)
砂利混じりのアスファルトを歩く靴音が反響し、吹き抜ける風が甲高い悲鳴に聞こえる。
意外だったのはゴミの多さだ。
封鎖される前に廃棄されたのか、あるいは封鎖後に侵入した誰かが廃棄したのか──
お菓子や煙草、ペットボトルや空き缶のみならず、何故か段ボール箱に詰められた服や雑誌の束まで落ちていた。
(不法投棄か……なんか嫌だなぁ)
人目のない所でひっそりと行われていた悪事の痕跡に、ハルは怪異とは違う不快感を覚えた。
「──っ!」
一瞬、彼女の心臓が悲鳴を上げる。
巻かれたカーペットが打ち捨てられた簀巻きに見えたのだ。
(ビッ……クリしたぁ。人かと思った……)
どうやら自分で思っている以上に恐怖に過敏になっていたらしい。
「大丈夫っスか?」
「は、はい。大丈夫です」
ドキドキと早鐘を打つ胸を押さえて歩みを進める。
湿気た空気が全身に纏わりつく。
気遣う忍の声も、ジャリジャリと響く足音も、風の音も、悪臭も──
五感で得られる情報の何もかもが、まるで世界から切り離された場所にいるような錯覚に陥らせるのだ。
(涼しい。いや、少し寒い……?)
近くに換気口があるらしい。
一層不気味な風切り音がヒョォォと耳を付き、ふとハルの足が止まった。
(あれ? 何で足が、)
首を傾げる暇も無く両腕に鳥肌が立っている事に気付く。
日陰とはいえここまで寒い筈がない。
地面を照らす懐中電灯の灯りが小刻みに震えだす。
(動かない……どうして?)
なすすべなく立ち尽くしていると、丸い灯りの先に忍の革靴が入ってきた。
「何かありました?」
「あの、なんか……変です。これ以上、進めないっていうか……」
「動きたくないって事?」
「そう、それです!」
食いぎみに顔を上げるが、忍の表情は見えない。
目の前の彼は本当に忍なのだろうかという不安がよぎり、つい懐中電灯を上に向けてしまった。
咄嗟に目を閉じて顔を背ける彼に慌てて謝罪し、ハルは棒立ちのまま身を縮める。
「他に何か異変はある?」
「えっと……寒いです。あと鳥肌も凄いです」
「他には?」
「うーん……?」
これといって思い付かない。
しかし気付いていないだけで何か見落としがあるのかもしれない。
ハルは思案しながら探るように懐中電灯をゆっくりと回した。
湿った地面と片方だけ落ちている汚れたスニーカー。
染みだらけのコンクリートの壁。
下手くそなスプレーの落書き。
そして──
「ひっ……!」
頭上すれすれに何かがあり、それが何なのか理解するより早く彼女は後ずさる。
それは逆さまの人影だった。
シルエットしか分からないが男のようだ。
爛々とした白目をキョロリと動かしてハルの方を見下ろしている。
目が合わなかったのは幸いだったものの、あと二、三歩進んでいたら頭がぶつかっていただろう。
目を逸らして懐中電灯を下に向けるが、一度気付いてしまえば意識しない訳にもいかない。
(何でオバケが視えるの!? ここは旧世与じゃないのに!)
取り乱さずに混乱するという器用な芸当をこなす彼女に、忍は同じ言葉を繰り返す。
「他には?」
「えっ、と……」
流石に「今、目の前に逆さまの人影がいます」とも言えず、ハルは頭上のそれを避けるように右側から回って忍の横に並んだ。
背中を中心にゾワゾワと産毛が逆立つ感覚に襲われる。
直感で自分を探しているのだと理解できた。
「……行きましょう、忍さん」
「はいはい。どーもありがとね」
何故礼を言われたのかは不明だが、妙にしっくりくる言葉だった。
ジャリ、ジャリ──
ジャリ、ジャリ──
一歩一歩進むごとに嫌な視線が薄らいでいく。
寒気も治まり、鳥肌が引いていくのも分かる。
追って来られたらどうしようという彼女の不安は杞憂に終わり、何事も無くトンネルの出口に到着した。
(よ、良かった。今のやつ、動かないやつで……)
外の眩しさに目が眩む。
ハルが目を瞬かせている間に、忍は出口側の仮囲いの扉をガチャリと開いた。
扉の向こうも荒れてはいるが細道が続いており、鬱蒼と繁った木々がざわめいている。
「この先は小さな集落でね。今はもう誰も住んでないらしいけど、たまに土地の所有者が廃屋になった家の様子とかを見に来るらしい」
「はぁ……」
ポツポツと語る彼の話は要領を得ない。
突然、ビュウと強い風が吹き付け、ハルの体がグラリとトンネルの方へ押しやられた。
拒絶──
たったそれだけの些細な事象は、まるで見えない何かがここから先への進行を拒んでいるように感じられた。
「あの、忍さん。さっき、」
「待った……今は少し良くない。話は車に戻ってからにしましょ」
「はぁ……」
折角開けた扉を再び施錠し、忍はトンネルを引き返し始める。
一体何が「少し良くない」のか聞く気にもなれず、大人しく彼の背を追う。
戻る途中、先程と全く同じ寒気に包まれたかと思うと、やはりぶら下がった逆さまの人影を確認できた。
きっとずっと同じ場所に居続けるタイプの存在なのだろう。
今度は足を止める事なく左に避けてやり過ごす事に成功する。
見られている気配を背中で受けつつ、来た道を黙々と歩く。
(嫌だなぁ。何でこんな目に……)
ハルにとって旧世与以外で怪異に遭遇するのは初めての体験だった。
激しく気落ちする彼女を気遣ったのか、忍が明るい声を上げる。
「ほら、もうじき出口っスから、元気出していきましょ。もうひと頑張り、もうひと頑張り」
「……はい……」
言葉一つで元気になれる筈もなく、それでもどうにか無事にトンネルを抜け出た彼女はギギギ……と錆びた扉を力任せに開く彼の背を眺めて頭を抱えた。
(私、開けっ放しにしてたよね……うぅん、深く考えないようにしよう)
短い距離を往復しただけとは思えない程、彼女は疲れきっていた。
「で、どうでした?」
車に戻るなり本題に入る忍の態度が竜太と重なり、ハルは不満を言えずに口を噤んだ。
怪しい人影には遭遇したが、彼の言う通り危険な目には遭ってないのだから文句のつけようも無い。
男性らしき人影を視たと伝えると、彼は興味津々に相槌を打ちながらトランクを開けて荷物を弄ったり、スマホに文字を打ち込んだりと忙しなく動き回っていた。
「寒気を感じて足を止めた所で人影が視えたんスね?」
「はい」
「なるほどねー」
あの人物は何だったのか──
ハルがそう聞くより早く、「その時視えたのはそいつ一人だけ?」と逆に問われてしまった。
まるで他にもあの場に何かが居たような口振りだ。
「……あの、そろそろ帰りません?」
バタンと閉じられたトランクの衝撃に顔を顰め、ハルは薄気味悪さから逃れるように助手席に背を預けた。




