1、チャイム
四章は一話完結メインの短編集となっております。
衝撃的だった首絞め事件も幕を下ろし、ハルの生活は平穏を取り戻した。
持田とは以前と変わらぬ距離感を保てている。
ハルが持田や男性に対してトラウマを抱えなかったのは、彼女の認識があくまで「怪異に襲われた」というものであったからに他ならない。
襲われた際に顔が視えなかった事も、持田が犯人という実感が湧かない要因の一つであった。
(なんか、不思議な感じだよなぁ……)
いっそ告白されたのが夢だったのではないかと思える程の変化の無さだ。
しいて変わった事を挙げるとするならば──
「あれぇ、持田、眼鏡は?」
「あ、えと、コ、コンタクトにしたんだ……その、変かな?」
「へぇ、イメチェンかぁ。いーじゃん」
ハルは背後から聞こえる男子の会話にこっそりと耳を傾ける。
僅かに明るい口振りから、持田なりに変わろうとしている努力が感じられた。
彼の本心は不明だが変に拗れなかったのは幸いだった。
(私も、もっとしっかりしなきゃ。じゃないと、私を好きだと思ってくれた持田君にも、何だか申し訳ないもん)
ハルとて人に好かれるのは嫌ではない。
だがそれ以上に「何故自分が」と思ってしまうのだ。
前を向きつつある持田に気兼ねばかりするのも失礼な話である。
(私も早く気持ちを切り替えよう)
目下の課題は一週間後に控えている体育祭を乗り切る事と自身の進路である。
(こればっかりは人を頼れないよね。自分で何とかしないと。いつまでも立ち止まってる訳にはいかない……)
配られたばかりの体育祭プログラムを机にしまい、ハルは静かに肩の力を抜いた。
ある日の下校時。
ハルは珍しく北本と帰る事になった。
随分久しぶりだとはしゃぎながら互いに近況を報告し合う。
「って訳でね、染めてた人、皆一気に黒髪に戻してんの! も~単純っ!」
「あ~それで……染めてた人は大変だね」
下らない話が楽しくて仕方ない。
暖かな陽気も相まり、ハルはすっかり浮かれていた。
──……ポーン、ピンポーン
車通りの少ない民家に差し掛かった時、小さなチャイムの音が聞こえてきた。
それだけなら「どこかの家に人が訪れたのだろう」で済む話だが、直感がそうではないと告げている。
(あれは……)
前方十数メートル先の右側の戸建て住宅。
その家の前に一人の女性が立っていた。
思い切り屈み込み、不自然な程インターフォンに顔を近付けている。
先程のチャイムを鳴らしたのは彼女だろう。
まだ距離があるにも関わらず、微妙に嫌な気配がゾワゾワと伝わってくる。
「私は地毛だけどさぁ、やっぱ面接は黒髪の方が印象良いのかなぁ~」
「うーん……私は気にしなくても大丈夫だと思うけど」
(やっぱり、アカリちゃんは気付いてない)
北本の話に相槌を打ちつつ女性の様子を探る。
近付くにつれて分かったのは、女性の服装がやけに古めかしいという事だけだった。
(なんだっけ。バブリー……ってやつ?)
フワリと上に流された長い前髪。
えんじ色のジャケットにタイトスカート。
やけに目立つ肩パッド。
彼女の外見はテレビで見たバブル世代の女性ファッションそのものだった。
「そーいやハルって髪綺麗だよねぇ。なんか手入れやってんの?」
「ふ、普通だよ。特に何もしてないし」
「へー、良いなぁ。艶髪って感じで」
北本は呑気に自身の毛先をつまんでいる。
ハルはそれとなく左側に寄って歩き、何も知らない友人を女性から遠ざけるように誘導した。
(アカリちゃんにも、女の人にも気付かれちゃいけない……!)
女性との距離が迫っている。
五メートル──
四メートル──
『……さい。……の…………が、……い…………せんか……』
(うっ)
どうやら女性は応答の無いインターフォンに向かって何事かを呟いているらしい。
異様な光景に肝が冷える。
「でさ、試供品余ってるからハルにも明日一個あげるね!」
「良いの? ありがとう」
ニコリと笑顔を浮かべるが、内心は気が気ではない。
この距離にもなると女性の声がハッキリと聞こえていた。
滑舌は良いが抑揚のない声だ。
不快な事に北本の明るい声より耳につく。
『ごめんください。お宅に私の荷物、届いてませんか。返して下さい。私の荷物なんです。ごめんください……』
繰り返される言葉の意味は分かるが理解は出来ない。
(何なの、もう。気持ち悪い)
「そんでさぁ。もっと、」
二人が女性の後ろを通りがかった瞬間だった。
ピンポーン、ピンポーン
「えっ!?」
急に鳴り響いたチャイムに驚き、北本が横の家を振り返る。
女性の姿は見えずともチャイム音だけは聞こえるようだ。
(まずい!)
平静を装い、ハルも適当に北本の動きに合わせる。
「何々? 今のピンポンこの家だったよね。故障?」
「……かもね。故障だよ、きっと」
北本は特に足を止めたりはせず、ただ「ビックリしたねー」と前を向く。
「あれっ、何の話だっけ?」
「……トリートメントの話だよ」
「あ、そうそう。も少し髪がサラサラになったらさ、しばらく伸ばそうかなって考えてるんだぁ」
お喋りに夢中の北本はハルの焦りに全く気付いていない。
(呟きが止んだ。たぶん今、こっちを見てる……)
幸いにも女性の気配は先程の家の前から動いていない。
(このまま離れて乗り切ろう。大丈夫。ただの知らんぷりなら私も得意だもん)
この程度の怪異で一々怯えていては世与に住んではいられないと気合いを入れる。
この一年で怪異に対する度胸だけは鍛えられている自覚あってのものだ。
「じゃあね、ハル。また学校でね」
「うん、バイバイ」
北本と別れ、真っ直ぐに家へ向かう。
女性の気配は感じられない。
(良かった。見逃してくれたみたい)
嫌な事はさっさと忘れてしまうに限る。
帰宅した彼女は鞄を置くとすぐにリビングのソファーにもたれ掛かった。
(そういやお母さん居ないな。買い物か……)
ローテーブルに置かれた母の書き置きを手にした時だった。
ピンポーン、ピンポーン
家のインターフォンが鳴り響き、ハルの心臓が大きく跳ねた。
はたして自宅のチャイムはこんなに大きな音だっただろうか──
(な、何!? まさか……)
恐る恐るインターフォンを覗き込む。
カメラに映っていたのは帽子を目深に被った宅配業者の男性だった。
(やだもう。怖がりすぎちゃった)
気恥ずかしい思いで通話ボタンを押せば、男性の「お届け物でーす」という元気な声が返ってくる。
溌剌とした声に胸を撫で下ろし、ハルは判子を持って玄関へと向かった。
「お疲れ様です」
「はい、どーも」
父宛の荷物を受け取り、すぐに家の中へ入る。
片手で持てる程の小さな荷物だ。
玄関で送り主の名前を確認していると、再びチャイムが鳴った。
(また?)
何か不備でもあったのだろうか。
扉を開けようと鍵に手をかけるも、何故か体がそれ以上は動かない。
(……確認しよう)
そろりと扉から離れ、音を立てずにリビングまで戻る。
「ひっ!?」
宅配業者の男性が映っているという彼女の期待は大きく外れた。
インターフォンの画面一杯に化粧の施された女性の右目が映っていたのだ。
カメラに睫毛が触れているのではと思う程の近さだ。
まるでカメラを通してこちら側を覗いているようである。
(さっきの人だ!)
目しか見えないが、他には考えられない。
画面が見えない位置まで移動したハルはどうしたものかと考えを巡らせる。
応答しないまま数十秒が経過し、やがてカメラがプツリと切れた。
ピンポーン、ピンポーン
(また鳴らしてきた!?)
ハルの脳内に先程の呟きが思い起こされる。
──ごめんください。お宅に私の荷物、届いてませんか。返して下さい。私の荷物なんです。ごめんください……
(いや、この荷物はお父さん宛の物だもん。絶対違う。ウチは関係ない……)
ブツッ──
ピンポーン、ピンポーン
再びカメラが消え、またチャイムが鳴らされる。
(これ、いつまで続くの!?)
もし今母親が帰宅して鉢合わせでもしたら、と嫌な想像をしてしまう。
(家に入られたらヤバい! お母さんが帰ってくる前に何とかしないと!)
ブツッ──
ピンポーン、ピンポーン
四度目のチャイムが鳴り、画面に変化が起こる。
(? 動いた……?)
詳細を確認するべく、恐る恐る画面が見える位置に移動する。
映っていたのは先程すれ違ったえんじ色のジャケットを着た女性の後ろ姿だった。
じっと佇み、何かを見ている。
(あっ! まさか……)
ハルが気付くのと女性が歩き出すのはほぼ同時だった。
画面の奥には向かいの家のインターフォンを押す宅配業者の男性が映っている。
(次は、お向かいさんの家に……)
向かいの家は留守だったらしく、男性は不在連絡票をポストに入れるとその場を離れてしまった。
画面に残ったのは後ろ姿の女性だけである。
(……鳴らすのかな……)
女性の右手がインターフォンに伸びた瞬間、画面がプツリと切れた。
わざわざカメラを起動して確認する気にもなれない。
ハルはズルズルとその場にへたり込んだ。
(とりあえず離れてくれて良かった……それにしてもあの人、何の荷物が欲しかったんだろう?)
考えても分かる筈もない。
ハルは今度こそ気を取り直して自室で勉強する事にした。
階段を上る途中、ガチャリと玄関の扉が開く。
「ただいまーハル」
「あ、お帰りお母さ、んん……っ!」
「特売多くて買いすぎちゃったわぁ~」と笑う母のすぐ後ろに、先程の女性が立っていた。
『ごめんください。私の荷物、届いてませんか……』




