9、捨てる
ハルに対する持田の第一印象は「仲間意識」であった。
常に控え目で周りの顔色を窺い、誰かに声を掛けられるのをジッと待つタイプである……と。
新学期の初日、持田は自分と同じ人種のハルが近くの席だった事に安堵していた。
一人で過ごす生徒が多ければ多いほど悪目立ちせずに済むからである。
ところが彼の予想に反し、ハルの周囲は実に賑々しいものであった。
何故かハルには志木のような騒がしい友人が付きまとっているのだ。
同じクラスで良かったとはしゃぐ彼女達を盗み見た彼は肩を落とした。
(良いなぁ……楽しそうで)
勝手に抱いた仲間意識が羨望へと変わっていく。
そしてその感情は短時間で目まぐるしく変わっていった。
「じゃ、女子の学級委員は宮原な。頑張れよぉ」
「えっ……?」
恐らく話を聞いていなかったのだろう。
強引に仕事を押し付けられる彼女に同情するのも束の間だった。
「センセー、俺ぇ、マジメな持田クンを推薦しまぁーす」
ニヤニヤと頬杖をつきながら挙手をする富士の発言に持田の心臓が竦み上がる。
明らかに悪意のある推薦だ。
断らねばという思いとは裏腹に言葉が出てこない。
無言を肯定と捉えたのか、持田はあれよあれよという間に学級委員長にされてしまった。
(どうして、こんな事に……)
プリントを配っている間、クラス中の視線が自分に集まっているように感じられる。
緊張で指先が震えるのが自分でも分かり、それが酷く情けない。
救いを求めてハルを見やると、彼女も真っ青な顔でプリントを配っているのが見えた。
同族を頼ってもどうにもならないのは明白だった。
(もう、無理だ。この二人で委員長なんて……)
目の前が暗くなり、グラグラと足元が崩れるような不安が押し寄せる。
その時だった。
「えと……じゃあ、年間行事の各実行委員を決め、決めます……」
ハルが声を振り絞ったのだ。
腹を決めたのか、先程までとはうって変わって胸を張り、前を見据えている。
「あの、黒板に書くの、お願いします」
「……う、ん……」
「では、希望する委員会があったら、手を……」
強張った笑顔で慣れない指示を出す彼女が、「同族」ではないと告げているように思える。
二人が無事に初仕事を終える事が出来たのは担任の誘導あってのものなのだが、持田にはハルの働きが全てのように感じられた。
(凄いな、宮原さん……俺なんかと違って……)
羨望が憧憬に変わり、自分も少しは頑張らねばと思い始める。
それ以来、富士達が絡んできても「委員長共」と大抵ハルと一括りな為、そこまで苦ではなかった。
(良いなぁ……宮原さん)
ほとんど決まった女子生徒としか話さない彼女だが、委員長の仕事を介して自分とは多少会話をする。
それが持田のささやかな喜びだった。
ところが──
「そういえば、この前のチョコ美味しかったよ。ありがとう」
「……そーかよ」
偶然聞いてしまった、何て事ない会話。
問題なのは、話していたのがハルと八木崎だったという点だ。
二年の時に同じクラスだったらしいが、性格が真逆と言って良い二人に接点があるとは思えない。
酷くショックを受ける持田の元に、更なる噂が飛び込んでくる。
──桜木と宮原が一緒に登校しているらしい。
──桜木が試合の応援に宮原を誘っていた。
何故地味で大人しい彼女の噂の相手が、よりにもよって人気も人望もある桜木なのか。
何故パッとしない彼女の周りに人が居て、自分の周りには誰も居ないのか──
募った恋慕と嫉妬が彼の胸中で吹き荒ぶ。
どうしようもない感情に呑まれ、持田は勢いのままにペンを取った。
(……で、でも、何を書こう……)
告白してもどうせ振られるだろう。
ハルはともかく、周りの人間にバレたら馬鹿にされるかもしれない。
そもそも自分には告白する勇気などありもしないのだ──
散々悩んだ末、持田は白紙を彼女の机の中に入れた。
(気味悪がられるかな……)
彼とて当然、こんな事をしても思いが伝わらないのは分かりきっていた。
それでも止められなかったのは、どんな形でも良いから「自分」という存在を意識して欲しいという願望があったからに他ならない。
(あ、宮原さん、紙に気付いた……)
斜め前に座るハルの行動は簡単に把握する事が出来た。
ハルは不思議そうに紙の表裏を確認した後、それを戸惑いがちに机の中に戻した。
(うわ、捨てないでくれた!)
勿体ないと思っただけだろうが、たったそれだけの事でも嬉しくて堪らない。
持田は震える指でノートを破り取る。
雑な切り口になってしまったが、この際どうでも良かった。
(このノートの切れ端も、もしかしたら捨てないでくれるかも……)
持田の期待は現実のものとなる。
ハルはノートの切れ端に落書きをしてからゴミ箱に捨てたのだ。
捨てられた事に代わりはないが、持田としては「活用」してくれた事実の方が重要だった。
(俺のノート、使ってくれた……!)
ゴミ箱からこっそり回収した紙にはよく分からないウサギのような金魚の絵が敷き詰められている。
よく分からないセンスだが、そこもまた良いのだ。
少なくとも桜木はこの絵を見た事がない。
歪んだ優越感はじわじわと加速していく。
次は何を入れてみようか──
未使用のティッシュなら使ってくれるかもしれない──
丸めた紙ならどうするだろうか──
鞄に入れたらどんな反応をするだろう──
ハルの事であれこれ画策する一方で、彼は別の問題を抱えていた。
(……あぁ、またこの夢か)
持田は足下で眠る自分を憎々しく見下ろす。
(明晰夢、だったかな。嫌な夢だなぁ)
すやすやと寝息を立てる自分の寝顔に嫌気が差す。
(くそっ! こんな顔、見たくもない!)
もう少し顔が良ければ──
もう少し頭が良ければ──
もう少し気が強ければ──
そうすれば、もっと自分に自信が持てるのに。
自信が持てれば、もっと好きな人と話せるのに。
自信が持てれば、富士の嫌みから好きな人を庇ってあげられるのに。
気付けば体が動いていた。
ギリギリと首を絞める感触が両手のひらにリアルに伝わる。
首を絞められた自分が苦しそうに咳き込んだ事で我に返り、ようやく手を離した。
(……俺、何をやってるんだろ……)
そう思った瞬間、強い喉の痛みを感じて目を覚ます。
慌てて鏡を見るも、喉元に異変は無い。
やはり夢だったと思い直し、彼はその後も何度となく似た夢を見たのだった。
ある時は恋敵の桜木の首を絞める夢を。
ある時は嫌いな富士を蹴り飛ばす夢を。
終にはハルの夢まで見る事となった。
(やった! 初めて宮原さんの夢が見れた!)
どうせ夢だと高を括り、持田は欲望のままにハルの服に手をかけた。
自分に都合の良い夢らしく、ベッドの上の彼女は何の抵抗も示さない。
罪悪感に目を瞑り口付けようと顔を近付けた時だった。
「──ら、ないで……」
(え──?)
「触らないで!」
初めて向けられる恐怖をはらんだ軽蔑の目。
はっきりとした拒絶をされ、彼は大いに動揺した。
(夢の中でも上手くいかないのか……)
目が覚めた後の罪悪感は普段の比ではない。
その後、急に現れた一年生に怒りの矛先を向けるも返り討ちにあってしまう。
その上、今までの事は夢では無かったと知らされ、最悪な形で告白する流れとなってしまった。
(終わった……全部。あぁもう、最悪だ……)
帰宅してからも散々泣き晴らした後、持田は引き出しにしまっていたハルの落書きを取り出した。
彼女の想い人が桜木ならすんなり諦めもついただろうが、現実は残酷である。
(あの一年生、もの凄く不気味だったな。……よりによってあの子か……)
持田はあの生意気な一年生がハルの想い人だと確信していた。
(でも、こんな俺よりはマシか……)
自嘲した彼は落書きの紙をクシャリと丸めてゴミ箱へ落とす。
(次は、もっと胸を張った恋がしたいな……)
そっと眼鏡を外す彼の目元に、もう涙は無かった。




