2、訪問者
それから十日も経つ頃には、持田の件はハルの中で非常に印象の薄い事案となっていた。
一度同じような首を絞められた手形が残っていた日があったが、当の本人が何事も無いように普通に生活しているのだから仕方ない。
誰が困っている訳でも、助けを求められた訳でもない。
何より自分には何も出来ないと言い訳をしながら、彼女は持田の首問題から目を背けて過ごしていた。
そんなある朝、ハルは登校途中で桜木とバッタリと出くわした。
「よ。宮原、おはよう」
「おはよう、桜木君……って、あれ? 今日木曜だよね? 朝練は?」
桜木は目を丸くする彼女に応えるように大あくびをする。
「いやぁ、今日はちっと寝不足っつーか、調子悪くてよ。朝練休んだ」
「え、大丈夫?」
部活に熱心な彼らしからぬ発言だ。
彼はやたらと心配するハルに向かって力無く微笑んでみせた。
「……実はな。昨日の夜中、息苦しくって目が覚めてよ。気が付いたら黒い何かが腹の上に座ってたんだ」
「何かって?」
怪異絡みの話だったと分かるやいなや、ハルの表情がにわかに強張る。
彼は「うーん」と唸ると言い渋るように頬を掻いた。
「たぶん若い男……って事くらいしか分かんなかったんだよなぁ。なんでか顔が視えなくてよ。部屋が暗かったからってだけじゃなくて、顔だけが認識出来なかったっていうか……」
「どういう事?」
「俺も分かんねぇ。ただ、見える距離に居る筈なのにどんな面か分からなかったんだよ。モヤがかかってた訳でもねぇのにさ」
見ているのに視えないとは不思議な話である。
彼も言葉にして説明するのが難しいらしい。
「で、そいつが俺に凄ぇ悪口言ってくるんだよ。ウザいだの邪魔だの、消えろだのって何度も、何度もな」
「やだ、怖いね……」
そんな目に遭ったらハルだって寝不足になるだろう。
歩きながら相槌を打つが、彼の話はそれだけで終わらない。
「しかもそいつ、途中から首を絞めようとしてきたんだぜ。もうガチで殺されるかと思った」
「えぇ!? それってかなりヤバかったんじゃ……」
持田の首に付いていた赤い手形を思い出し、反射的に桜木の首元に目をやってしまう。
幸いな事に手形は残っていなかった。
ハルが安堵と心配の半々といった様子で続きを促すと、彼は何故か歯切れ悪く視線を逸らした。
「あー……笑うなよ?」
「うん?」
「俺、頭真っ白になっちまって咄嗟に『なむみょーほーれんげきょお!』って叫んじまってよ。そしたら黒いそいつが、『はぁ?』って言って……消えたんだ」
「はぁ……」
意図せず怪異と同じ返しをしてしまい、ハルは慌てて口を噤む。
桜木は「やっぱ宮原もそう思うかぁ」と照れ混じりに苦笑した。
「必死だったとは言え、霊に呆れられるって地味に凹むのな」
「そんな……結果的に撃退出来た訳だし、凄いと思うよ?」
「いや、撃退ってよりも『気が削がれたから帰るわ』って感じだったんだけどな」
彼は納得がいかないといった様子で肩を竦める。
(それにしても首か……持田君の事もあるし、ちょっと気になるな。オバケの世界でも襲い方に流行りとかあるのかな?)
そんな流行りがあって堪るかと馬鹿な考えを払い捨て、彼女は教室の前で桜木と別れるといつも通りの一日を過ごしたのだった。
ところが翌日、二人はこの「首絞め未遂事件」が終わっていなかったのだと知る事となる。
「はよ、宮原……」
「おはよ……って、桜木君! その首は!?」
彼は通学路の途中でハルが来るのを待っていたらしい。
その首には両手で絞められたような赤黒い手形がくっきりと付いていた。
濃さこそ違えど持田の首に付いていた手形と酷似している。
目の下に薄い隈を作った彼は力無く首を擦った。
「昨日も出たんだ。顔の分からない若い男……今度はマジで首絞めてきやがった」
「そんな……」
かなり目立つその手形は桜木の指よりも若干細身に感じられる。
見た目はかなり痛々しい。
しかし彼は「この痕、俺の家族とか他の奴には視えてないっぽいんだよ」と痛がる様子もなく首を傾げている。
ハルは心のどこかで「やっぱり」と持田の件と関連付けていた。
(まさか同じ霊の仕業? でも何でこの二人に?)
どう考えても持田と桜木の共通点が見つからない。
今一つ確信が持てず閉口する彼女だったが、桜木は構わず言葉を続ける。
「あー……それとよぉ。昨日ん時は気付かなかったけど、なんかそいつ違和感があったな」
「違和感?」
「ほら、前、宮原に大場の生霊が取り憑いた事があったろ? あれに雰囲気が似てたっていうか……あと、修学旅行の後でクラスの女子に絡み付いてた黒い手! あれにも似てたな」
「あぁ、あれ……」
確かに以前、ハルは桜木の元彼女である大場の生霊に体を奪われた事があった。
黒い手というのはハルの友人であるリナの生霊が同級生に絡み付いていた事件である。
どちらも恋愛絡みの嫉妬心によるもので、本人達も無意識に生霊を飛ばしていたようだった。
普段よく視る冷ややかな怪異とは異なり、生霊は熱を持った様な生々しさと力強さを放っていたとハルも記憶している。
「ねぇ。もしかしてその男の人って、」
「……やっぱ、宮原もそう思うか?」
二人はほぼ同時に「生霊……?」と呟いた。
ブロロロロロ──
突如として乱暴な運転のオートバイが真横を追い抜いていく。
けたたましいエンジン音に二人は大袈裟に肩をびくつかせた。
あっという間にオートバイは去ってしまったが、残された静寂と張り詰めた空気が居心地の悪さを引き立たせている。
「……俺、誰かに恨まれてんのかな……」
「そんな、桜木君は誰かに恨まれるような人じゃないよ!」
(あ、でも妬みって可能性ならあり得るかも……桜木君、男女問わず人気あるし)
励ましの言葉は気休めにもならず、桜木は難しい顔をしたまま足元に視線を落としている。
殺意を向けられる程誰かに嫌われているかもしれないのだから仕方ない。
(どうしよう。生霊って本人の意識が変わらないと追い払ってもまた憑くって聞いたし、相手が分からないのにどうすれば……)
彼の消沈ぶりが見ていられなくなり、ハルは何とはなしにポケットに入れておいたパワーストーンに触れた。
カチャリと石がぶつかる軽い音を聞き、彼女の中にある考えが浮かぶ。
(そうだ!)
「ねぇ桜木君。御守りを持つのはどうかな? 寝る時も肌身離さず持って、悪いモノから守ってもらうの」
「御守りぃ? ……まぁ、良いかもしんねぇけど……本当に効くんかなぁ」
「無いよりずっと良いと思う! あと、馴染みのある神社があるならそこにお願いするのも良いみたい」
半信半疑の桜木に「自分も何度も御守りに守られてきた」と力説する。
始めこそ微妙な反応を見せていた彼も、ハルの話を聞く内にだんだんと顔が明るくなっていく。
「御守りってすげぇんだな。今日学校終わったら近所の神社に行ってみるよ!」
「うん。今夜はちゃんと眠れると良いね」
「おー。いつもサンキューな、宮原! 今日も一日頑張ろうぜ!」
いつもの元気を取り戻した彼はハルの教室の前で手を振ると自身のクラスへ向かって行く。
その後ろ姿を見送ってから、彼女も教室へと入った。
すっかり見慣れた仲睦まじい二人のやり取りを今更からかう生徒は居ない。
尖った視線を向ける人物が一人だけ居たが、気に留める者は誰も居なかった。




