9、利用者
「そこまで!」という担任の声を合図に、教室中の至る所からフゥと息を吐く音が聞こえだす。
ギリギリまで回答用紙を見直していたハルもようやくといった様子でシャープペンシルを置いた。
(大体大丈夫。……英語以外は……)
三年に上がって初めての中間試験はそこそこの手応えだった。
全ての試験が終わった達成感に浸りつつ、ハルは後ろから回収される答案用紙を回していく。
(疲れたなぁ。暫くは勉強しないでゆっくりしたいや)
千景の「くねくね動画事件」以来、ここ数週間は平和な日々が続いていた。
相変わらず毎日おかしなモノや不気味なモノを見かけはするが、実害は皆無である。
そもそも身の危険を感じる程の怪異など、そう転がっているものではない。
「あ゛ぁ~つっかれたー! あ、ハル。明日ジム行く約束、覚えてる?」
「勿論覚えてるよ」
帰りのHRも終わり、ハルは志木とトイレに行きながら翌日の予定に胸を踊らせる。
試験が終わったら北本と大和田の四人で駅近くのスポーツジムの一日体験に行く約束をしていたのだ。
「ちょっと緊張するなぁ……私、ジムって行った事ないんだ」
「私だって初めてだよー。もうすっげ楽しみ! 泳ぐぞぉ~!」
志木は本気で夏までに痩せたいらしく、やる気に燃えながら拳を握っている。
はしゃぎながら教室に戻ると、生徒はもう殆ど残っていなかった。
皆テストから解放されて早く帰りたかったのだろう。
「アハハ、皆どんだけ遊びたいんだか! 受験生の自覚が足らんねぇ!」
「それユーコちゃんが言う?」
自分達も早く帰ろうとそれぞれの席に向かう。
机の横に掛けてあるスクールバッグを掴んだ所で、ハルはおや、と異変に気付いた。
(あれ? 鞄のチャックが開いてる?)
いつもならしっかりと閉じられているチャックが三分の一程開いていた。
閉め忘れにしては微妙な開き方だ。
まさか泥棒か──ハルの顔色がサッと変わる。
「どしたん?」
「あ、や、別に……ごめんユーコちゃん。ちょっと待って」
とにかく一旦落ち着こうと深呼吸しながら鞄の中身を確認していく。
(財布、ある。中身も無事。スマホ……ある。特に無くなってる物は無さそう……あ、)
カサッ。
「何そのゴミ?」
(これ、私のじゃない)
クシャクシャに丸められたノートの切れ端が鞄の底に入っていた。
何も書かれてはいない。
見覚えのある罫線だ。
恐らく以前机の中に入れられていたノートと同じ物だろう。
「なんか、誰かに入れられたっぽい」
「はぁ? またぁ!? あんた一昨日も机にゴミ入れられてなかった!?」
「ゴミっていうか、ポケットティッシュね。使ってない奴が、一枚だけ」
「ゴミじゃん!」
憤慨する志木をどうどうと宥め、ハルは丸められた紙くずをゴミ箱に捨てた。
今まで何度か机に紙やらティッシュやらを入れられる事はあったが、鞄に入れられるのは初めてである。
こうも続くと流石に気味が悪い。
(地味だけど、嫌がらせ……だよね。一体誰が?)
怒りが収まらない志木と帰路につきながら、ハルは嫌な可能性に行き着いていた。
(ダラダラお喋りしてたとはいえ、トイレに行ってる間にゴミを入れたのなら、きっと犯人はクラスの人……)
まだ数人残ってはいたが、その全員がグルとは考えにくい。
ともすれば犯人はハルの席の近くに居ても違和感のない生徒が怪しいだろう。
ふとハルの脳裏によぎったのは斜め前の席の男子生徒だった。
富士実乃流。
その生徒は少々柄の悪いグループの中心人物で、何かと委員長であるハルや持田に嫌なヤジを飛ばしてくる面倒くさい男である。
ハルが勇気を出して何かを言う度に「あぁ? 聞こえねぇよぉ」だの「もっかい言って下さぁ~い」だのと言ってはニヤつき、何も言えない持田には「仕事しろよ、根暗眼鏡」と悪態をつくのだ。
特に女子からは彼等を敬遠する程度には嫌われている。
(あんまり疑いたくはないけど……)
富士とその取り巻き三人を思い出すだけで腹が立ってしまう。
教師の前ではそこまで悪目立ちしない所も妙にみみっちい印象である。
あまりに度が過ぎると八木崎が「うっせぇよ」と一喝して黙らせてくれるのだが、それが無ければクラスの雰囲気は今より険悪化していたに違いない。
(持田君とか大人しい生徒をパシリにしてるって噂もあるし……)
彼等ならゴミを入れるという陰湿なイタズラもやりかねないだろう。
嫌な生徒が近くの席にいたものだと、ハルは力なく肩を落とすのだった。
翌日の土曜。
塾の午前講習を終えたハルは昼食を済ませるなりスポーツジムを目指して自転車を飛ばした。
運動が不得意な彼女でも、体育の授業とは違うという期待感がペダルを漕ぐ足を軽くさせる。
「ごめん、お待たせ!」
「セーフセーフ、時間ピッタシ!」
既に現地集合していた北本、大和田、志木の三人と合流し、ジムの中に入る。
予約をしていたおかげで受付はスムーズに行われた。
施設の説明を聞き終えた四人はパンフレットを片手に施設内を見回す。
ベンチプレスなどは利用者が少なく空いており、逆にランニングマシンは混んでいる。
時間帯にもよるのだろうが、運動方法にも人気不人気があるらしい。
目ぼしいものが見つからなかったのか、志木は近くに並べられていた青いバランスボールを押してブー垂れた。
「ちぇ~、あの乗馬マシン乗りたかったなぁ。全部調整中とかツイてないわー」
「どこから行く? 定員数によっては二手に別れるのもアリだよね。私、プールの前にヒップホップエアロやってみたいんだけど」
事前にプールを利用する事は四人で決めていた事だった。
志木は北本の提案に妥協する口振りで「じゃあ私もエアロビで~」と賛同した。
「二人はエアロビかぁ……アタシは第三スタジオのヨガが気になるかな。もうじき始まるっぽいし。ハルはどう?」
大和田に話を振られたハルは少し悩んでから頷く。
「特にこれっての無いし、私もヨガにするよ」
「んじゃ二手に別れますか! 終わったらまたここに集合ね」
北本と志木が第一スタジオと書かれた部屋に入っていくのを横目に、ハルと大和田も第三スタジオを目指して移動する。
(調整中……ねぇ……)
全部で四台ある乗馬マシンは一台一台に「調整中」と手書きの紙が貼られており、当然動いていない。
動いてはいないが──
(満員だ)
四台全てに運動着を着た半透明の人間が跨がっていた。
一人は中年男性で三人は中高年の女性だ。
皆一様に俯き微動だにしていない。
彼等が乗っているからマシンの調子が悪いのか、調整中で使う者がいないから乗っているのかは不明である。
(あんなの視ちゃったら、今後使う気失せるよなぁ)
考えようによっては霊になってからでも使いたい位良いマシンなのかもしれない。
(オバケも運動するのかな……)
そんな下らない疑問を振り払い、ハルは大和田と第三スタジオに入室した。




