3、仔猫
この日は塾がある日だった。
ハルは帰りのHRが終わり次第、すぐに学校を出て帰宅する。
時間的に忙しいという事ではない。
単にギリギリまで自宅で休んでから塾に行きたいという思いから身に付いた習慣だった。
(あれ? あそこにいるのって……)
学校から歩く事数分後。
車通りの多い道の端に見知った少女の姿があった。
「千景ちゃん、どうしたの?」
「あ、ハルお姉ちゃん。こんにちは」
制服姿の千景は心ここにあらずといった様子で周囲をキョロキョロと見回している。
何かを探しているのは見て明らかだった。
「何か探し物?」
「うん。仔猫。クラスの友達が逃げちゃって困ってるって言ってて、皆で探してんの」
(あぁ、この辺は車が多いし心配だよね)
ハルも辺りを見渡すと、千景と同じくらいの年の女子中学生が植え込みを覗き込んでいる所が見えた。
「見かけたら保護するね」
「ありがと! その時は連絡してねっ!」
千景の垂れ目がキュッと細くなり、満面の笑みを向けられる。
裏表のない彼女の態度は面倒な時もあるが憎めない。
「うーん。こっちじゃないのかも。アタシ、あっちの方探してみる!」
言うだけ言って彼女は駆けていく。
頭の中は仔猫の事で一杯なのだろう。
(相変わらず元気だなぁ)
手を振って見送ったハルは再び家を目指して歩き出した。
「あ」
「……よぉ」
千景と別れて数分も経たぬ内に、今度は八木崎と遭遇した。
信号待ちをしていたらしい彼は何故か渋々といった様子でイヤフォンを外す。
これでは話をする流れではないかとハルは内心でため息を吐いた。
「八木崎君、駅はこっちじゃないのに珍しいね」
「じいちゃん家寄んだよ。土産に『旨い屋』のみたらし買って来いって言われてよぉ」
「へぇ……」
彼の祖父母の家は「ナナサト床屋」という、ハルの家から徒歩十五分程の距離にある床屋である。
ちなみに「旨い屋」はハルの家の近所にある和菓子屋で、長らく地元民に愛されている小さな店だ。
信号が青に変わり、ピヨ、ピヨと音が鳴る。
同時に歩き始めるが会話は途切れたままだ。
(き、気まずい……)
旨い屋までの分かれ道まであと数十メートル。
間が持てない。
どうしたものかと思っていると「あぁ、ダメ! じっとして!」という悲鳴が聞こえてきた。
「? この声……」
「あ゛? 何だ?」
立ち止まってわき道を覗くハルにならい、八木崎も億劫そうにわき道に目を向ける。
すぐ横にある古いアパートの敷地に千景が立っていた。
彼女は敷地内に生えている四メートル程の木を見上げてオロオロしている。
ハルは八木崎から逃れるように千景の元に駆け寄った。
「どうしたの、千景ちゃん。仔猫見つかったの?」
「えっ!? あ、お姉ちゃん。仔猫が……」
「うわ、降りられなくなっちゃったのかな?」
頭上に目をやると一番低い木の枝に灰色の仔猫が乗っていた。
青い瞳が愛らしい。
仔猫は呑気に欠伸をしている。
「どうしよう?」
「うーん。ギリギリ手が届かないなぁ」
試しに幹に手を回してみるが、足を掛けられそうな取っ掛かりはない。
見かねた八木崎が止めに入る。
「止めとけ。お前に登れる訳ねぇべ」
「で、でも……」
「お兄ちゃんなら届くんじゃない?」
千景の言葉にハッとする。
ハルは千景と共に期待に満ちた目で八木崎を見つめた。
「八木崎君。仔猫、届く……よね?」
「……はぁ……」
八木崎は酷くやる気のない態度で枝に向かって両手を上げる。
しかしその手が上がりきる前に、猫は警戒した様子で更に一つ上の枝へと飛び乗ってしまった。
「ひゃっ! あっ、ぶな!」
「あぁ~! お兄ちゃんの目付きが怖いから~」
「ちょっと千景ちゃん……でも、どうしよう。あの高さまで行っちゃうと、流石に無理だよね」
肩を落とす二人に八木崎は苛立ちを隠しもせずに頭を掻きむしる。
「ちっ、もう良ーべ。諦めろ」
「そんな訳にはいかないよ! もし落ちたら大変だし……」
近所で脚立でも借りるしかないかと思案していると、千景は「そうだ!」と両手を叩いた。
「お兄ちゃんがお姉ちゃんを肩車すれば届くんじゃない!?」
「かか、肩車ぁ!? む、無理無理無理! それは無理だよ千景ちゃん!」
「だな。肩車は流石にねぇや」
呆れたように肩を竦める八木崎に激しく同意すると、千景は「でもぉ……」と二人を見上げる。
「お兄ちゃん、お姉ちゃんを持ち上げられないの?」
「だ、だから何言ってるの! ダメだよ、八木崎君が潰れちゃう!」
「そんなひ弱でねぇけんど」
馬鹿にされたと捉えたのか、八木崎は断固拒否するハルを無視してムスリとしたまましゃがみ込んだ。
「え、ちょ、八木崎君!?」
「暇じゃねんだ。気ぃ変わる前に早くしろ」
(嘘でしょ!?)
千景は「やったぁ! ありがとうお兄ちゃん!」と無邪気にはしゃいでいる。
これではもうハルも腹をくくるしかない。
「えぇぇ……じゃ、じゃあ、あの、失礼……します」
「おー」
同い年の男子の肩に跨がる日が来るなど、誰が予想出来ただろうか。
ハルはスカートを気にしながら恐る恐る彼の肩に乗った。
上を覗かれるという事もなく無事に腰を下ろす。
(は、恥ずかしい。これ思った以上に恥ずかしい!)
彼の頭にかかるスカートを慌ててどける。
膝丈もあるスカートが邪魔で少しだけたくし上げると八木崎は何事かの悪態を吐いた。
「あの、重くない? ホントに大丈夫?」
「……立つぞ」
「うん……う、わ、怖ぁっ!?」
グラリと体全体が大きく揺れ、咄嗟に彼の頭を掴んでしまった彼女はワックスで固くなった髪の手触りに改めて驚きの声を上げる。
「髪引っ張んな」
「ごめ、ごめん」
揺れたのは最初だけで一度立ってしまえば彼の肩車は非常に安定したものだった。
見慣れない高さの景色にビクビクしながらも、ハルは恐る恐る仔猫に向かって両手を上げる。
「八木崎君、あと一歩右前」
「へいへい」
ザリ、と一歩踏み出され、ハルの手が仔猫に届く。
(お願い、逃げないで!)
千景が固唾を飲んで見守る中、ハルはゆっくりと仔猫の胴体を掴んだ。
「ミー」と甲高い鳴き声が漏れたが暴れる気配はない。
「や、やった!」
「凄い凄い! ありがとうお姉ちゃん、お兄ちゃんっ!」
「……しゃがむぞ」
ゆっくりとした動作で八木崎がしゃがみ込む。
仔猫はハルの胸で大人しく抱かれながらクリクリとした青い目を向けている。
「可愛い! よしよし、いい子だね」
両足が地面につくとすぐに「よいしょ」と八木崎の頭から離れる。
ハルが完全に離れてから彼はようやく顔を上げた。
意外と紳士な所があるようだ。
「ありがとう、八木崎君。おかげで助かったよ」
「助かったんは宮原でねくて猫だべ」
「それはそうだけど」
捻くれた物言いにムッとするが文句は言わずに仔猫を千景に渡す。
再び「ミー……」と鳴く仔猫の愛らしさに千景は目を輝かせた。
「かっわいい! よしよし、良かったねぇ」
千景が仔猫の喉元を撫でる。
暫しされるがままだった仔猫は、突然スルリと彼女の腕から抜け出した。
「「あっ!?」」
それは一瞬の出来事だった。
反応する暇もない。
仔猫は軽やかに駆けていきながら段々と薄くなり──消えてしまった。
辺りには何もいない。
猫の鳴き声も聞こえず、木のざわめきばかりが耳につく。
(……え? 嘘。どういう事?)
絶句するハルと千景に、八木崎が「終わったんなら帰るぞ」とつま先を鳴らした。
そのまま背を向ける彼にかける言葉が見つからない。
(まさか八木崎君……)
「ねぇお姉ちゃん。あのお兄ちゃん、ちょっと怖いけど優しいね」
「う、ん……」
「私、もう行くね。じゃあね、お姉ちゃん!」
風のように走り去る千景にろくな挨拶も返せぬまま、ハルは呆然と八木崎の後を追った。
始めから何も視えていなかったにも関わらず、肩車までして付き合ってくれた彼に、改めて礼を言う為に。
その数時間後、千景からメッセージが届く。
──猫ちゃん見つかったよー!
添付された画像には笑顔の千景と茶色い仔猫が写っていた。




