2、怒声
ある放課後。
ハルは下駄箱に向かう途中で桜木に呼び止められた。
「なぁ宮原。今週の土日にテニス部の……県の予選会があるんだ。もしその、良かったら見に来てくんねぇかな?」
彼の緊張した面持ちのせいでハルの背筋も自然と伸びる。
「えっと、土曜日なら空いてるけど……でも私、テニス詳しくないし、大丈夫かな……」
不安がる彼女とは対照的に、桜木は「平気平気!」と明るい声を上げた。
(大袈裟だなぁ。私なんかの応援、いるのかな)
ハルは父親がたまに観るテレビのスポーツ中継を思い出す。
アウェーでブーイングだらけの試合や、観客席がガラガラの試合──
それを思うと、やはり選手としては応援はないよりあった方が心強いのだろう。
考えてみれば高校三年、最後の部活なのだ。
いつも世話になっている彼の頼みとあらば張り切って応援せねばなるまい。
ハルは大きく頷いてみせた。
「アカリちゃん達にも声をかけてみるよ! 頑張って応援するからね」
「えっ!? あ、おぉ! サンキュな!」
気合いの入った返事をするハルに驚いたのか、桜木は目を丸くしながらも嬉しそうに頭を掻いたのだった。
その後桜木と別れたハルは北本、大和田、志木と合流してファミレスへと向かった。
学校から少し離れた場所にある、平日はあまり混まない貴重な穴場である。
「アホ」
「え?」
大和田の開口一番の罵倒にハルは戸惑いを隠せない。
「もし良ければ皆でテニス部の応援に行こう」と誘った所での発言であった。
「桜木はハルに来て欲しくって誘ったんでしょーよ」
「で、でもほら、私声小さいし。応援なら人数多い方が良いかなって……」
「アッハハ、桜木可哀想~」
散々な言われようだ。
ハルが小さくなって野菜ジュースを啜っていると北本のフォローが入る。
「まぁまぁ。ハルがズレてるのはともかく、折角だしさ。私も応援行こうかな? ハル一人じゃ心細いんでしょ?」
「アカリちゃん……!」
一言余計な気もしたが、今ばかりは気遣いが有りがたい。
分かりやすく顔を輝かせる彼女を見捨てられず、志木も「仕方無いなぁ」と参加する姿勢を見せた。
土曜は予備校があるという大和田は不満を露にフライドポテトをつまむ。
「あーあ。皆が行くならアタシも行きたかったなー。勉強やだやだ……」
「なぁに言ってんの! イケメン彼氏と予備校デートって考えたら楽しいでしょーに」
ニヤニヤとからかう志木を一睨みし、大和田は話の矛先をハルに戻す。
「ハルはどうなの? あの生意気少年、気になってんでしょ?」
「ごほっ!」
(な、何でバレてるの!?)
野菜ジュースでむせ返りながら友人の鋭い観察眼に慄く。
その上北本までもが「えぇ~? むしろ竜太君の方がハルを大事にしてる印象だけどなぁ~」などと言い始める始末だ。
「や、あの、もう勘弁して……」
「アッハッハ! ハルってあの後輩君の事言われると弱いんだねぇ~」
志木がテーブルを叩いて笑う。
ちょっと声が大きい、と北本が注意した瞬間だった。
「うるさい黙れ!」
空気が震えるような若い男の怒声が店内に響き渡り、四人は一斉に息を飲んだ。
(怒られちゃった……)
小さなざわめきが残る店内ではクラシックの音楽が静かに流れている。
チラホラ居る他の客達は何事も無かったかのように談笑を続けていた。
誰からともなく違和感を口にし始める。
「……ねぇ。今の、誰が言ったの?」
「さ、さぁ? 男の人、だったよね?」
「……マジ?」
四人はチラチラと周囲を窺う。
店内にはハル達の他に三組の客が居たが、孫を連れた優しそうな老人以外は全員女性客だった。
もしかしたら怒鳴ってすぐに引っ込んでしまった店員かもしれないが、あのキレた若者のような口調ではそれも少し不自然である。
何より怒声はハル達のテーブルのすぐ横から聞こえていた。
(なにこれ、地味に怖い……)
一人で怪異に遭遇するのは慣れているが、視えない人間と怖い思いを共有する事には慣れていない。
ハルが思わず俯くと、思った以上に北本と大和田の恐怖心を煽ってしまったらしい。
二人はバタバタと身支度を済ませる。
「かっ帰ろ! もう解散!」
「そうだね! また明日話そっ」
志木だけが少し遅れる形で恐怖に気付く。
四人は慌てて会計を済ませると逃げるように店を飛び出した。
「やっば! 初めてのホラー体験なんだけど!」と鼻息を荒くする志木の頭を大和田が軽く小突く。
この日は結局、そのまま解散となってしまった。
帰り際、早くも気持ちを切り替えたハルは怒声の事など忘れて友人達の会話を思い返す。
(皆はあぁやってからかうけど……桜木君、本当に私なんかに気があるのかな……)
今までもズレているだの鈍いだのと笑われる事はあったが、流石のハルも思う所はあった。
桜木からの好意ともとれる態度では疑いを抱いてもおかしくはない。
それでも確信を持てずにいるのは彼女の自信のなさのせいに他ならない。
(だって私だよ? 皆に慕われてる桜木君が、よりによって地味で暗い私をすっ好き、なんて……そんなの考えにくいし)
そう自分で考えて自分で落ち込む。
こんな時でも頭に浮かぶのは竜太だった。
彼は何も言わないが、地味で暗い自分に好かれて本当は迷惑ではないのか──
考えれば考える程、彼女の心は暗く沈んでいく。
(こんな事で悩んで、もし自意識過剰の勘違いだったら桜木君に申し訳ないや……)
散々悩んだあげく、出した結論は「現状維持」と「これ以上深く考えない」という消極的なものであった。
(それより、問題は進路なんだよなぁ)
彼女の悩みは尽きない。




