9、ボール
今日からようやく通常の授業が始まる。
ハルは登校中、学校が見えてきた辺りで桜木の後ろ姿を見つけた。
彼を見るのはクラスが変わって以来だ。
なんだか随分と久しぶりに思えた彼女は小走りで彼の元に駆け寄った。
「おはよう、桜木君」
「おぉ、おはよう宮原! 今日はあったけぇな」
いつもと変わらぬ爽やかな笑顔を返されたは良いが、晴天なのも相まってやたらと眩しく感じる。
ハルはそっと目を細めて彼の隣に並んだ。
「新しいクラスはどうだよ?」
「結構楽しいかな。最初は皆と離れちゃって不安だったけど、思ったより大丈夫だったよ」
そう正直に話せば、桜木はホッと肩の力を抜いた。
人見知りのハルが余程気掛かりだったのだろう。
「そっか、良かったな。あ~……俺んトコも楽しいよ。宮原がいねぇのはつまんねぇけどさ」
「え、あ、ありがとう……?」
少しおかしな返事だったかもしれないと言ってしまってから気付き、彼女はむぐっと口をつぐむ。
発言より表情が面白かったらしい。
彼は豪快に笑い出したかと思えば「どういたしまして?」と首を傾げて悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「笑いすぎだよ」と少しむくれて言い返したものの、結局ハルもつられて笑ってしまう。
──テーン、テーン……
「ん?」
「何だぁ?」
音に気付いたのはほぼ同時だった。
何かが弾む音だ。
車の走行音と近くを歩く通行人や生徒達の会話に紛れ、確かに聞こえる。
二人は互いに顔を見合せ、それとなく周囲を探った。
片側一車線のさして広くない道路に場違いな音が響き渡る。
──テーン、テーン、テーン……
(? この音、一体どこから聞こえて……)
「(宮原。右、右。校門過ぎたトコ)」
桜木の小声を聞き取った彼女は言われた方向にチラリと視線を向ける。
校門を三メートル程通り過ぎた先──
ハル達がいる歩道の右端に泥で汚れた茶色いボールが跳ねていた。
音の感じからするとゴム製のようだ。
(何あれ?)
「(なんか汚ぇな……ドッジボールみてぇだけど)」
「(そうなの?)」
スポーツに疎いハルにはそれがバスケットボールなのかドッジボールなのか判別出来なかったが、言われてみれば確かに小学校で使っていたドッジボールに似ていた。
ボールは誰も居ないのに勝手に跳ね続けている。
道行く者にはボールが視えていないらしい。
──テーン、テーン……
(変なの)
ただ跳ねるだけのボールにはさほど恐怖は感じない。
油断するとまではいかないまでも、ハルは平然と校門を通過した。
最もボールに近付く瞬間、桜木の表情が強張っていたのを見てしまい何となく気まずさを覚える。
(桜木君、あれでも怖いのか……大変だなぁ)
そう思った彼女はすぐに考え直す。
(私だって、少し前なら凄く怖がった筈……だって普通、誰も居ないのにボールがひとりでに跳ねるなんてあり得ない訳だし……)
そう考えると怖さを感じなくなってきているという事自体が恐ろしいのではないだろうか──
恐怖心の麻痺は生物の本能的にまずいのではと、常人から離れつつある自身の感性に危機感を抱く。
(……大丈夫。少し、怖い事に慣れただけ。私は普通。だって、怖い目に遭うのは絶対嫌だもの)
胸の奥が冷え込むような不安を抑え込み、ハルは心の中で何度となく「大丈夫」と繰り返す。
下駄箱に着いてもなお沈黙を続ける彼女に、桜木は「朝から怖ぇモン視ちまったよなぁ」と心配そうな顔を向けた。
(ごめん桜木君、違うんだよ……)
「別に平気」などと無神経な事も言えない。
ハルは「そうだね」とだけ応えると複雑な胸中を隠すように微笑んだ。




