7、人面犬・再
変な夢のせいで寝不足気味だったが、日曜日は朝の九時から昼過ぎまで塾がある。
暖かな日差しの誘惑に負けず、ハルはどうにか授業を乗り切った。
(疲れた……早く帰ってお昼食べよう)
彼女の通う私塾は自宅から徒歩圏内の場所にある。
通い慣れた道を歩いていると曲がり角の向こう──あるアパートの裏手から若い男の悲鳴が聞こえてきた。
「うわあぁぁっ!? たっ助けて、誰かぁー!」
(やだ何!? 近い! まさか通り魔!?)
ズダダダダッと激しい足音と共に角から人が飛び出して来た。
「ひゃっ!?」
「わわ、スンマセンっ!」
飛び出して来たのは高校生位の男子だった。
幸いにもぶつかる事はなく、彼は飛び出した勢いのままハルの横を駆け抜けていく。
その顔色は酷く青い。
「ほんとサーセン!」
ハッハッ、ハッハッ……
(う、嘘っ!)
彼の後を追うのは先日付きまとってきた女の顔をした小型犬だった。
人面犬はハルを見て僅かに迷う素振りを見せたものの、男子の方に狙いを定めたらしい。
ハッハッ……ハッ……
「く、来んな! 来んなぁっ!」
……ハッハッ、ヒャヒャ、ヒャヒャヒャッ……ハッハッ……
人面犬の口から漏れるのは引き笑いのような声だが、その顔は歯を剥いた恐ろしい形相をしていた。
人面犬が彼の左足のズボンに食らい付く。
「う、うわぁっ!?」
バランスを崩した彼はドシャアッと激しく転倒した。
このままでは次に何処を噛まれるか分かったものではない。
(危ない!)
ハルは無我夢中で鞄を振りかぶり人面犬の横っ腹を叩いた。
しかし激しい動きのせいで狙いが定まらず、鞄は僅かに人面犬の背中を掠めただけで空を切る。
バキン!
「え!?」
とても掠めただけとは思えない音が響く。
驚かせるには十分効果があったようだ。
人面犬は「キャイン」と子犬のような甲高い悲鳴を上げると身を翻して逃げて行った。
「今の音って……?」
これは何かやらかしてしまったのかもしれない──
心臓がバクバクと音を立てる。
人面犬が去っていった方を呆然と眺めていると、いつの間にか立ち上がっていた男子がハルに向かって勢いよく頭を下げた。
「あの! 助けてくれてありがとうございました!」
「い、いえ。私も無我夢中だったので……」
「それでもマジで助かりました! ほんとあざっす!」
彼は何度も腰を九十度に折って礼を繰り返している。
少し癖のある色素の薄い髪がサラリと下に落ち、旋毛がよく見えた。
この勢いの強さは少し苦手なタイプである。
ようやく顔を上げたかと思えば、今度はキラキラした目でハルの顔を凝視しだす忙しなさだ。
「あの、もしかしてお姉さんって宮原ハル先輩じゃないですか!?」
「え? そ、そうですけど」
驚きのあまり「どこかで会いました?」という言葉が出てこない。
ハルの戸惑いなどお構いなしで彼はピシッと背筋を伸ばした。
「俺、世与高一年の大成博道っす! 宮原先輩の話は妹の千景から聞いてたんです!」
(千景ちゃんのお兄さん!?)
確かに少し垂れ気味の目元が似ている。
何より話す時の勢いが兄妹でそっくりだった。
狭い世間だと諦めにも似た思いを抱きつつ、ハルは「よろしく」とだけ答える。
すっかり気が緩んだのか、大成は意気揚々と語り始めた。
「俺、世与市に来てから千景と一緒に頭おかしくなったんじゃないかって超不安だったんですよ! でも、宮原先輩が色々教えてくれたって千景に聞いて、マジで安心したんす! 大成博道、会えて光栄っす!」
「はぁ……」
(よく喋るなぁ……)
彼は千景ほど怪異に対して強気では無いらしい。
道を歩いていた所、急に飛び出してきた人面犬に追いかけられたのだと聞いてもないのに力説が続く。
「俺何にもしてないのに、出会い頭にめちゃくちゃ怖い顔で吠えられたんですよ! 酷くないっすか!?」
「う、うん……」
一方的な話にたじろいでいると、ハルの耳に聞き捨てならない言葉が告げられた。
「いやぁ、まさか妖怪が見えるだけじゃなくて退治できるなんて、宮原先輩って凄い強いんすね! 尊敬するっす!」
何やら大きな誤解をされている──
大いに慌てた彼女は「違うよ!」と珍しく大声をあげた。
「私は何も……本当に視えるだけだし、全然知識もないの。さっきのだってよく分かんないけど、たまたまで……」
「それでも十分凄いっす!」
以前聞いた千景と同じ事を言っている。
面倒くさい知り合いが増えた予感しかせず、ハルは頭を抱えた。
「恥ずかしい話、俺怖いの超苦手なんですよ。でも宮原先輩は見捨てないで助けてくれました! 千景の言ってた通り、優しいっす!」
「大袈裟だよ……」
どこまでが彼の本心なのかは分からないが一々持ち上げられるのは居たたまれない。
慣れない事の連続にハルの口からは否定の言葉ばかりが並ぶ。
「あの、私、そろそろこの辺で……」
「はい! あざっした!」
本日何度目かの深いお辞儀をされてしまい、とうとうハルの表情から愛想笑いが消えた。
「えっと、それじゃ」
やっと解放される──そう思って歩き出すと「先輩危ない!」と大きな声をかけられた。
完全に不意をつかれた彼女はビクリと静止する。
特に嫌な気配は感じられない。
「え? な、何?」
辺りはいつもと何ら変わらぬ住宅地が広がっている。
平和を主張するようにチチチ、と小鳥がどこかで鳴いた。
「ほら、先輩の前。妖怪がいっぱいいます!」
「妖怪って……」
彼が指し示したのはハルの向かう先だった。
道路を横切る形で三十センチ程の茶色いイモ虫のようなモノが行進している。
忍によるとあのイモ虫モドキ達は昔から世与の町を巡回している神の遣いの一種だという。
緑色のつぶらな瞳は愛嬌があるが、何も知らない者が視れば確かに妖怪に見えるかもしれない。
ハルは警戒しまくりの大成を手で制止して言葉を選ぶ。
あのイモ虫モドキには以前助けて貰った恩があった。
「大丈夫だよ。あのイモムシ様は昔からいるらしいし、無害だから放っておいてあげて?」
もし無駄に怖がって危害を加えようものならどうなってしまうのか──彼女には見当もつかない。
ハルが「絶対に苛めないでね」と念を押せば、大成はやたらと感心したように頷いた。
「リョーカイです! やっぱ宮原先輩詳しいっす! また分かんない事があったら教えて下さいね!」
(うぅ……何でそうなるの?)
縋れる者が現れたら頼りたくなる気持ちはよく分かる。
しかしハルは頼られてもそれに見合った働きが出来る気がしなかった。
(竜太君も、私に助けを求められた時はこんな気分だったのかな?)
大成には悪いが正直面倒くさい。
そんな面倒くさい彼の姿が過去の自分と重なってしまい、ハルの心をチクリと刺す。
「私に出来る事ってほとんど無いと思うよ? ……でも、怖いモノには極力関わらないでいれば大抵何とかなる……と思う」
「はい、宮原先輩! お疲れっした!」
「うん……じゃあね……」
今度こそ大成と別れる事が出来た。
彼の熱い視線は角を曲がるまで送られていた為、必要以上に肩が凝ってしまった。
(疲れた……そういや大成君、同じ学校なのか……まぁ一年と三年じゃあ会うことは少ないかな)
新学期が始まってからというもの、どうにも毎日が落ち着かない。
ハルは苦々しい思いで青空を仰いだ。
「やだ、何で!?」
帰宅した彼女はペンダントの先に付いていたパワーストーンの一つが割れている事に気が付いた。
ペンダントは二種類の黒い石が四つ交互に付いているデザインとなっており、その内の一つがパッカリと割れていたのだ。
(どうしよう……)
あくまでもこのパワーストーンは忍からの借り物である。
壊れてしまうとは夢にも思わず、ハルは全部で七つの石になってしまったペンダントを握りしめた。
(まさか、人面犬を叩いた時のでかい音って、これが割れる音だったの?)
忍は八木崎の兄だけあって目付きが鋭く、見た目のガラがとても悪い。
もしかしたら怒られるかもしれないとビクビクしながら忍に連絡を入れるハルだったが、彼は「お役に立てたなら何よりっス」とあっけらかんとしていた。
パワーストーンは引き続き持っているようにとだけ言われ、彼女は七つになってしまったそれを再び大事にポケットにしまうのだった。




