5、痩せた女
翌日の土曜日。
世与高校は第一、第三土曜に半日授業があるのだが、この日は入学式の翌日だった為に授業は無かった。
代わりに新入生は健康診断とレクリエーションが行われるらしい。
ハル達上級生は健康診断だけ受けて帰宅するという、面倒ではあるが非常に楽な日である。
「ヤバい……太った……マジでヤバい……」
「大丈夫だよ、ユーコちゃん。全然分かんないって」
診断が終わり、多目的ホールを後にしたハル達は廊下で立ち話をしていた。
先程から診断書を握りしめては震える志木をなだめているのだが、あまり効果はないようだ。
「夏までに痩せないと水着着れないじゃん。浴衣だって……ヤバい。高校最後の夏が始まる前に終わるかも。マジでヤバい」
「え、夏って……まさかガッツリ遊ぶ気なの?」
「当然っしょ!」
複数の赤点常習者の志木にはどうやら受験生という自覚が無いらしい。
他人事ながら心配になるハルの思いなど露知らず、志木は来るべき夏に備えてダイエットを決意している。
「何、ダイエット? 間食好きのユーコが?」
二人は投げかけられた声の方へ同時に振り向く。
そこにはクラスが離れてしまった親しい友人、大和田佳澄が笑いを堪えて立っていた。
「いやいやカスミさんよぉ。私は今回本気だよ。マジで痩せっから。ガリッガリになってみせっから」
「バーカ。無理すんなっつーの」
大和田はツンとしたまま茶色い髪をかき上げる。
フワリと爽やかな制汗剤の香りがハルの鼻を擽った。
(これが女子力……流石カスミちゃん)
彼氏がいる子はやはり違うのだと少なからず動揺する。
大和田はハルを見るなり眉を顰めた。
「……何? ハル。なんか元気ないじゃん。まさかあんたもダイエット?」
「え! ハルってば元気無かったの? ダイエット同盟組む!?」
大和田なりの冗談が志木によってあらぬ方向へと向かい始めてしまい、ハルは慌てて首を振った。
「大丈夫だよ。ちょっと疲れただけだから……ダイエットは遠慮しとくよ」
志木は「なーんだ」と残念そうに頭の後ろで手を組む。
大和田は何か言いたげだったが「何かあったら言いなよ」と言うだけに留まった。
志木はともかく、自分の周りは何故こうも察しの良い人間が多いのか──
誤魔化し下手なハルは苦笑した。
その後大和田と別れたハル達は制服に着替えるとクラスメイトと共に教室へと戻る。
皆の会話は口を揃えたように「痩せなきゃ」だの「体重が……」だのといった内容だった。
(私も少しは気にした方が良いのかな? 女子として、現状で満足してちゃ、ダメなのかも……)
昨日見た竜太と女子生徒の光景が頭をよぎる。
彼女のような美人でも……いや、美人だからこそ努力は怠っていないのかもしれない。
色々な意味で危機感を抱いていると、急にキーンとした耳鳴りが聞こえ始める。
咄嗟に右耳を押さえるが耳鳴りは両耳から聞こえていた。
(やだ、急に何……?)
こういった変化が起きた場合、録な目に遭った例がない。
友人達の会話に適当な相槌を打ちつつ意識を集中させれば、教室の隅で異常なまでに痩せ細った人物が佇んでいる事に気が付いた。
例によってその存在に気付く者はいない。
ハルは慣れた動作で素早く目を逸らした。
(うわぁ……これまた強烈な……)
壁に額を付けているので顔は見えない。
ハルはその存在を視界の端で捉えたまま様子を探った。
服は着ているのか分からない位ボロボロに朽ちており、髪は殆ど抜け落ちている。
痩せ過ぎの為外見で性別は分からないが、纏う雰囲気から女性であると推察した。
背骨は凸凹と浮き彫りになっていて手足は骨とスジと皮しかない。
不健康な土気色の肌はカサカサに乾いていた。
とにかく強い違和感を覚える存在である。
教室のざわめきと鳴り止まぬ耳鳴りが不快に重なり合い、ハルは無意識の内に唇を噛んだ。
(何だろう。よく視る普通のオバケとは違う気がする……)
その奇妙さに気を取られていると、ドロリ、とハルのものではない別の感情が流れ込んできた。
──痩せなきゃ、痩せなきゃ……
──ズルいズルいズルい。
──もっと綺麗にならなきゃ。
──痩せて、もっと、もっと細く……
──人より素敵に、誰より可愛く……
どれだけ求めても満たされない。
まだまだ全然駄目なのだ。
飽くなき渇望が心を支配していく。
「………………ぁ」
まだ足りない──
まだ、まだ──
もっと痩せて、細くなって、人より綺麗に、誰より素敵にならなければ──
「──さん、宮原さん!」
「……っ!? えっと……ごめん。なに?」
ハッと我に返ったハルはクラスメイトの呼びかけに遅れて反応する。
「もう、宮原さんは身長何センチだった? って聞いたの!」
「ごめん。私は丁度一六〇センチだったよ」
「へぇ~。キリ良いじゃん」
どうでも良い話でも皆で話せば楽しいネタとなる。
愛想笑いで何とか誤魔化し、今度はアレに意識を向け過ぎないよう細心の注意を払う。
痩せ細った人物はまだそこに佇んでいた。
(危ない……もう少しで完全に引っ張られる所だった。さっきのって……)
寒くない教室内で震えが走る。
流れ込んできた感情からは人間らしさが一切感じられなかった。
(あれは人の霊とかじゃない……たぶん、『人の思い』そのものだ……)
どれだけ枝のように痩せ細り、紙のように軽くなっても「痩せたい」と思う者が居続ける限り、あの思念体のようなモノは満足しないのだろう。
ただひたすらに細くなる事を、痩せる事を、綺麗になる事を──
求めて求めて、求め続けるだけの存在なのだ。
(それって、辛いなぁ)
痩せ細ったそれは微動だにしない。
壁にもたげた頭が重そうだ。
もしかしたら自立する筋力すら無いのかもしれない。
(……やっぱり、周りに合わせて体重を気にするのは止めよう)
ハルとて当然太るのは嫌だが、必要以上に気にするのは不毛だと思い直す。
単に日頃から太り過ぎないよう健康に気を付けていれば良いだけの話なのだ。
いつの間にか話題は最近流行りの可愛い健康グッズの話に切り替わっていた。
「可愛い」という単語につられ、ハルの意識も体重から離れていく。
しばらく会話に耳を傾けていると耳鳴りは徐々に小さくなっていった。
(良かった。気配が薄くなってる)
皆の「痩せたい」という思いのピークが過ぎたからだろうか。
(やっぱり、いつも通りの普通が一番だよなぁ)
冗談を言う友人達のせいですっかり気が抜ける。
笑いながら「もー」と小さく突っ込むハルの耳に生暖かい息がかかった。
『──、──────……』
「──っ!?」
石のように固まる彼女だったが、既に気配は完全に消えていた。
ブワリと背筋が粟立つ。
悔し紛れのように囁かれた一言はいつまでも耳に残った。
『でも、痩せたら も っ と 綺麗になれるでしょ?』
アレは、自分が綺麗に向かっていると信じて疑っていないのだろう。




