1、小型犬①
「じゃあ行ってきます、お母さん」
「あら、もう行くの? 気を付けて行ってらっしゃい」
宮原ハルは普段より少し早めに家を出た。
今日から新学期。
彼女が高校三年生となる記念すべき第一日目だった。
同時に「受験生」という肩書きも背負う事になるのだが、今の彼女にとって重要なのはそこではない。
(早く、クラス替えの結果見なきゃ……!)
どうか仲の良い友人と同じクラスになっていますように……などと子供じみた願いを胸に学校へと向かう。
麗らかな日差しの下、穏やかな風が彼女の黒髪を優しく揺らした。
ハルは昨年の梅雨時に世与高校へ転入してきた為知り合いが少ない。
これは本人の控え目な性格のせいもあるのだが、彼女にとって友人が同じクラスにいるかいないかは今後の生活においてかなり重要な問題だった。
(あ、犬……)
学校まであと三分といった所のごみ捨て場で、鳥避けネットに頭を突っ込みゴミを漁る小型犬の姿を捉える。
少し距離はあるものの微かにビニールのガサゴソ音が聞こえた。
(毛の長いチワワ? でも、ちょっと違うような……ミックス犬かな?)
何れにせよ野良犬とは思い難い綺麗な毛並みである。
もしかしたらどこかから逃げてしまった迷い犬かもしれない。
彼女は迷いながらごみ捨て場の手前で足を止めた。
(どうしよう。今捕まえても学校に連れていく訳にはいかないし。でも、放っといて車に轢かれたら大変……)
早く学校に行きたいという気持ちと見捨てられない気持ちが天秤のように揺れる。
(とりあえず近くに飼い主っぽい人は……あれ?)
そこまで考え、辺りを見回した所で疑問が浮かぶ。
(誰も犬を見てない……?)
時間的に道行く人の大半は世与高校の生徒である。
その誰もがごみ捨て場の方など見向きもしないで学校へと向かっていくのだ。
立ち止まったままのハルを訝しむように見る者もいたが、まるで犬などいないかのような態度である。
(もしかしてあの犬……)
ハッハッ、ハッハッ……
急に聞こえだした息遣いに驚き、反射的に一歩後退る。
足元を見たハルは今度こそ息を飲んだ。
そこにいたのは人間の女性の顔をした小型犬だった。
互いの視線がパチリと合う。
(ヤバッ!)
すぐに目を逸らしたが女性の目はまだハルを注視している。
かろうじて悲鳴を上げずに済んだのは日頃から怪異を視ていて耐性が付いていたからに他ならない。
ハッハッ、ハッハッ……
化粧っ気の無いその顔は三十代後半位に見えた。
一重瞼に薄い眉。
頬骨が少し出ていて鼻筋はスッとしている。
薄くて長い犬の舌が顎まで垂れ下がっているが、歯は人間のものだ。
割りと歯並びは良い。
笑顔にも見える表情を浮かべ、ソレは犬独特の息遣いでジッとハルを見上げていた。
彼女はドキドキと激しくなる胸の鼓動を聞きながら、素知らぬ顔で学校へと歩き出す。
チャッチャッチャッ。
ハッハッ、ハッハッ……
(やだ! ついてきてる!?)
アスファルトと爪がぶつかる軽い足音がすぐ後ろから聞こえてくる。
振り返る気になれず、どうしたものかと冷や汗ばかりが額に浮かぶ。
ポケットに隠し持った御守り代わりのパワーストーンを握りしめたは良いものの、足音は校門の前まで来てもしつこく続いた。
犬が飛び付いて来ないのはパワーストーンのお陰か、その気が無いからなのかは分からない。
「おっす! おはよう宮原!」
駆け寄ってきた人物にトンッと肩を叩かれ、ハルは少しだけ表情を和らげる。
肩を叩いたのは二年の時のクラスメイト、桜木陸斗だった。
彼もハルと同じく視える側の人間である。
「……早く行こうぜ。去年と同じなら靴履き替えた先でクラス替えの紙が貼ってあっからよ」
桜木はさりげなく後ろから回り込み、わざと犬を遠ざけるように立ち回った。
犬の息遣いが少しだけ遠ざかる。
「……そっか。同じクラスだと良いねぇ」
「だな! ま、クラス別れてもたまには遊びに行くからよ。そん時ゃ宜しくな!」
相変わらず声がでかい彼はカラッとした笑顔を浮かべる。
朝日が彼の茶髪をキラキラと照らし、何となく気恥ずかしくなったハルはそっと目を逸らした。
「っつーかもう三年かぁ。早ぇよなぁ。まだ宮原がこっち来てから一年経ってないってのも変な感じだしよ」
桜木は下駄箱に着くまでの間クルクルと動き回って犬を牽制し続ける。
周りから見て多少不自然な行動であっても気にしない所が彼らしい。
犬の足音はほとんど聞こえなくなっていた。
「(あ、ありがとう、桜木君)」
意外と怖がりの彼に助けて貰ったのが忍びなく、小さな声で礼を言う。
「いーって、いーって。気にすんな!」
(小声で言った意味……)
下手な事も言えず閉口していると前方から元気なソプラノの声が投げかけられた。
「あ! 来た来た。ハルー! 桜木君もおはよー!」
仲の良い友人の一人、北本明里が靴を履き替えた先で手を振っている。
二人は顔を見合せてから北本の元へと駆け出した。
「おはよう、アカリちゃん」
「ね、ね、ハルも桜木君も早くクラス分け見てきなよ!」
「あ、うん。そうだね」
興奮気味の北本に急かされ、二人は慌ただしく上履きを履き替える。
大きく貼り出されたクラス分け表の前は多くの生徒でごった返していた。
「うわわ、見えるかな……」
「あ、俺四組だ。宮原の名前は……げ! ねぇや」
背の高い桜木は簡単に自分のクラスを把握したらしい。
ハルはオロオロと要領悪く人だかりの後ろを右往左往する。
「あ、あの、ちょっと通して……すみません。あの……」
「宮原は二組だぁな」
すぐ背後から低い声がかかり、彼女はヒャッと肩を竦めた。
振り向くと「ビビりすぎ」と口元を歪ませた八木崎浩二が立っていた。
彼の鋭い目付きと食えない態度はまだまだ慣れそうにない。
しかも思っていた以上に近い。
ハルは飛び退くように八木崎から距離を取った。
「え、と。ありがとう……?」
「何で聞くんだよ」
八木崎は大して興味無さそうにくぁ、と欠伸をしている。
一覧表を見ていた桜木が大きな声を上げた。
「あぁー!? 八木崎も二組かよ! 良いなぁー!」
「おめ、声でけぇよ」
細眉を顰め、八木崎はフラリとその場を離れてしまった。
やり取りを聞いていた周囲の生徒がクスクスと笑うのが聞こえる。
居たたまれず小さくなるハルの背中を北本が叩いた。
「って訳で私もざ~んねん! 私は五組でしたよっと」
「え……そうなの?」
「クラスは違っちゃったけどさぁ、休みの日にでもまた遊ぼうね! うちら今年受験生だけど! アハハッ」
すっかり意気消沈するハルに対し、北本はあまり気にしていないように見受けられた。
互いの温度差に落胆していると北本の口調が真面目な物に変わる。
「……でもさぁ、バラけちゃったのはホントに残念だよ。カスミもユーコもクラス違うし、ハルが羨ましいや」
「へ? 何で?」
「良く見なって! ハル、ユーコと同じクラスじゃん!」
慌てて一覧表を見上げれば、二組の欄には親しい友人の一人、志木由羽子の名前が記載されていた。
「ほ、本当だ……」
「ね! だから元気出しなさーい! 笑顔でないと、上手く行くもんも行かなくなっちゃうよ!」
明るい励ましの言葉はハルの緊張を見抜いた物だった。
(やっぱりアカリちゃんは凄いなぁ……)
思えば北本はクラスで浮いていたハルに何度も声をかけてくれた優しい人物である。
世話焼きな友人をこれ以上心配させる訳にはいかなかった。
「ありがとう、アカリちゃん。私、頑張るから、頑張ろうね」
「ハハ、何それー!」
キャッキャとはしゃぐ女子の会話に入れず、桜木だけが気まずげに頬を掻いた。




