13
「これを飲んでからの記憶がない」
男を泊めた翌朝、朝食前に出した果実水の瓶をじっと眺め。
眉を寄せた男が、そう呟いた。
それはまた、何とも。
では、昨日は殆どずっと寝ぼけ続けていたのかと。
そう思うと笑いが止まらず。
別に意識を失わせるような成分は入れてないですよ、と。
笑う合い間に告げれば、男は此方を不機嫌そうに睨んでから、一気にそれを飲み干した。
男の着ていた服は疲労が限界に達しているようだったので、捨ててしまうことにして。
代わりにこれを、と着流しを押し付けた。
慣れないでしょうが、見た目の印象を変えるなら和服はちょうど良いですよと、言いながら手早く着付けを済ませてしまう。
濃紺の着流しに、くすんだ海老茶の羽織りを合わせ、髪は緩く三つ編みに。
男の顔立ちも、案外和服と相性が良いようで、なかなか上手く馴染んでいるように見えた。
これは上出来だろう、と満足げに男を仰ぎみれば。
暫しの沈黙の後に、ぴん、と額を指で弾かれた。
確かに印象は変わるな、と呟いて。
ふっと顔を上げた男に、下駄を差し出す。
「まあ、その内慣れるか」
玄関先で、数本歩いて履き心地を確かめた男はそう言うと。
カラリ、カラリ、と足音を響かせながら去って行ったのだった。
・・・・
数日後、市場で敷物を広げていた私の前に、ひょこりと顔を出した男は。
並べてあった瓶を一本、自然な仕草で手にとって、その場で開けて飲み干した。
ことん、と空き瓶を置いた男に、売り物なんですけどね、と笑う。
ひょいっと肩を竦めた男は、徐に袖口へ手を入れて。
そこから取り出した簪を、さくりと私の髪に挿した。
目を瞬かせた私の手の中に小銭を落とすと、すっと立ち上がり、そのまま背を向ける。
カラリカラリと、慣れた様子で下駄を転がし去っていく男を見送って。
お礼ってことなのかな、と、簪を撫でた。
それから暫く経ってから。
髪の色が落ちてきた気がする、と。
毛先を指で摘みつつ訪ねてきた男の髪を、また染め直し。
去り際に、何気ない仕草で放って寄越されたのは、髪油。
その後も男の髪を染める度。
櫛であったり、髪紐であったり。
染髪のお礼だから、髪に関するもので返す、という事なのか。
男の妙な律儀さが、ちょっと面白い。
手の中で髪飾りを転がす私に何かを感じたのか。
不意に吹きかけられた紫煙を、笑いながら払った。