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目隠し鬼

作者: 須々木誠人

 冷房の効いた車両には自分含めても四人だけ。しん、と静まり返っていて、耳に届くのはガタンガタンッという車両が揺れる音ばかりだった。

 今日に限って乗車している数が極端に少ないだけで、普段はそこそこの人数を占める。―と言っても、都会でよく遭遇する混雑で暑苦しいなどということはまずないわけだが。極寒、と称するのは大袈裟かもしれないが、屋外とはそれくらい気温差があると言っても過言じゃあない気がした。

 最近、座席のカバーが新調されたのか滑らかな肌触りをしていて座っているのが苦にならない快適さがある。夏は涼しく、冬は暖かく見せる為の工夫か、カバーの色は薄緑だった。

 自分が近郊に住んでいた頃のカバーは古かったせいか弾力も無いし、ごわごわとした感触だった記憶がある。これから先何十年と経てば、それすらもいつか懐かしいと語る日々がやってきてしまうのか。あの頃は良かった、なんて愚痴のようにこぼして。

 嫌だな――そう思う。あの頃の自分は今の自分を想像出来なくて、きっとサラリーマンになって営業回りをするんだろうとか、そういうのを考えていた。

「……ん? 誰からだ…?」

 タイミングを図ったかのように、スラックスのポケットに仕舞っていたタブレット式の携帯電話機が振動を起こして思考は遮断される。早く出ろ、と言わんばかりにバイブレーションが催促を要求してきたので仕方なく取り出した。

 カバーも無ければストラップも特に着けてない、友人曰く「面白味が無さすぎる」のが俺の唯一の連絡手段なわけで。

「……うわ」

 携帯のロック画面には「新着メール10件」の文字が表示されていて、滅多にメールが溜まることがないだけにその数には思わず声を上げてしまった。

 移動中はバイブレーション機能があろうと気付かないことが多い。というより、短時間でこれほどのメール数が届いているというのがまず貴重すぎるのだ。

 とにもかくにも、予め決めていた暗証番号を入力してロックを解除するとふてぶてしい表情をした猫の画像が画面に現れる。実家で長年飼っている雄猫のみたらしである。去年、みたらしが恋しくて仕方ないとと電話で溢したら母親がメールで送ってきてくれたもののはずだが。

 ホーム画面からメールアプリへ移動し、受信ボックスを開くと最近頻繁にやり取りしている相手の名前がずらりと並んでいて思わず溜め息を洩らした。

 一件一件、流れるように開いていけば「今はどこにいるの?」「まだ着かないの?」などそんな内容がほとんどで相変わらず忙しない奴だと認識してしまう。

 俺の記憶違いじゃなければ、早朝に到着する時間帯を送っておいたはず。まさか見ていないんだろうか。

 ――思った途端、不安が過る。そのまさかじゃないだろうな。

「今朝、到着時間送っただろ。見てないの?」

 返信の文に誤りがないのを確認し、送信ボタンを押す。送信完了のメッセージを見届けて、メールボックスを閉じようとしたその直後に返ってきた。

 打つのが早すぎる、と思いつつ見てみれば「見てなかったごめん」の文字がそこにあった。

 端から見れば淡々とした文章だが、そこに何の意味があるのか付き合いの長い俺にはわかっている。だからこそ、呆れは多少あるものの特別怒りにきているわけでもない。

 返信内容に少々頭を悩ませたが、結局のところ思い付いたままの言葉を投げておくことにした。

 飾りのない言葉がシンプルに伝わる。少なくとも幼馴染みや親友に対してはそうしてきた。

 薄暗い話だろうと言いたいことを言える仲だから容赦しなかったし、容赦なかった。

 ―今更そんなことを考えるのは何故か。

 日常の生活に刺激がないわけじゃない。それでも今の俺にとっては、

(心地いいのかも)

 相手からの返信を待たずにポケットに携帯電話機を仕舞い、静かな車内を一通り見渡した。

 反対側の席に座っている壮年らしき男は心地良さそうに寝息を立てていて、見ているこちらまで引き込まれるように体の力が抜けていくのを感じる。「あぁ、今日も平和だな」と、素直にそう思った。

 それからシートに凭れ、窓枠に後頭部を密着させると視線を窓の外へ向ける。暇潰しに車窓から景色を覗けば、真夏の強い日射しを存分に浴びて風によって草木が揺れている様子が見てとれた。

 その姿は、喜んで踊っているようにも、苦しみ悶えているようにも見えた気がした。




 幼馴染みから連絡があったのはちょうど一週間前。たまにメールする程度で電話で話すことなんてほとんどなかったものだから、何か急用があるんじゃないかと思ったわけだが。

『小学校の、同窓会?』

 俺の言葉に、電話口から「そうだよ」と嬉しそうな声が帰ってくる。急ぎの用事と言うから何事かと思えば、と悪態を吐くとすぐに不機嫌さを前面に出してきた。

『うわっ、あからさまに嬉しくなさそう!』

『嬉しくないし。なんでこんな暑い時季に同窓会なんてやるのか、よくわからないんだけど』

 目には目を、という言葉を真似するならまさに毒には毒をといったところ。実際、毒と称するほどの効果はないと思うけど。

 虚しくもそんな返しも通用しないようで「だって朝井さんが決めたことだし」の一言を返されてしまった。朝井…さて、誰だったかな。

 暫く考えたふりをして黙りを決め込んでみる。失礼承知の上、そうすればわざわざ印象の薄い人間を思い出す手間が省けるのだから。

 それを相手は察したようでもう…と呆れたように溜め息を吐いた。

『学級委員長の朝井さん。りょーちゃんに鬼神サマってアダ名を付けた人』

『……委員長? …あー…あの真面目な眼鏡の』

『そうそう。その人…って、りょーちゃんだって眼鏡掛けてるじゃない』

 ずばり指摘されてしまい、思わず眼鏡の縁を触れるの二、三度指の腹でつついてしまった。

 確かに俺自身、昔から視力が悪い為に眼鏡は掛け続けている。ただ、朝井の方は俺と違って知的な印象が根強く残っているわけで。

 眼鏡と言えば勉強ができる、なんてのは偏見だろうがそういう印象を与えたりすることも時にはあるアイテムだと思っている。

 そう、朝井はまさにその印象を与えるような風貌だったはず。今どんな姿をしているのかは知る由もない。もしかしたら眼鏡はやめてコンタクトに、なんて選択肢もある。

 ――いけない。眼鏡を馬鹿にされた経験から関与する話に敏感になっているのは変わってないらしい。暫く無かっただけに反動が出たのかもしれない。取り敢えず、話を戻すか。

『眼鏡掛けてるから眼鏡掛けてる相手を眼鏡と呼んじゃならない理由はないだろ』

『あー、はいはい。わかってるよ』

『返答が適当すぎるだろ…』

 つまらないと判断した話は即座にぶった切ってくるのが桜重の悪いところだろう。「だから彼氏ができないんだよ」、とはお節介になるから言わないことにした。

 そもそもりょーちゃん、なんて24歳にもなって呼んでくるのはこの幼馴染みの不死原桜重くらいだろう。他は苗字を略して呼ぶか、「涼夜」と名前でそのまま呼ぶくらいだ。

 「鬼神サマ」。そんな大層なアダ名を貰った理由は忘れているが、苗字から捻ったというのは記憶している。子供ながらセンスないな、と思ってた。

 「鬼形」なんて苗字は珍しい部類に入るし、いたる場所で「すごい苗字だ」と不可解な感想を頂くのともしばしばある。周囲からそういう評価を受けるまではいたって普通なんだと思ってたような気がする。

 得を挙げるなら名に鬼が入ってる効果なのか、小学生によくある変なアダ名を付けられる習慣の輪に入ることはまずなかった。

 唯一、「鬼神サマ」を除いて。

 苗字が変わってると言えば、桜重の不死原もかなり稀だろう。流石に由来だとか聞いたことはないが。というより、安易に聞いていいものなのかとすら臆してしまう自分がいるようだ。

『ちょっと。なーに黙ってんの』

 絶賛暇をもて余してるます、とでも言いたそうに退屈を前面に出した声で我に返る。唐突に流れた変な沈黙に何かを気取ったのだろうか。そうじゃないと胸の内で祈りつつ、慌てて返答した。

『別に。……で、つまり同窓会に参加するために帰ってこいと。その同窓会はいつやるわけ?』

『ん? あれ、言わなかったっけ? 来週だよ』

 この時ばかりは言葉を失い、「もしもし?」という確認の言葉に対して返すこともできなかった。

 今改めて考えても伝えるタイミング遅すぎると思う。最低でも一ヶ月前とかには知らせてくれてもいいんじゃないか。今更それを責め立てるようなことはしないが、何かしらの労りは欲しいところだ。

 本音を言えば仕事に支障は出ないが急すぎる話だし、ゆっくり休みたいのも心の隅にはあって断ろうとした。が、

『来なかったら呪い殺すよ。お・に・が・み・サ・マ』

 などという脅しを最後に電話を切られた為、拒否する暇なんてなかった。

 いや、わざわざ電話をしてきたくらいだ。拒否させる気は最初からなかったのかもしれない。

 電話に出なければよかったなどと後悔の念を胸に秘めながら、その後暫くの間、持参する土産はどうしようかと悩んだ。




 あぁ、お天道様。貴方の恵みによって作物が育ち、洗濯物があっという間に乾いていつも感謝してます。ありがとうございます。

 ――なんて言わない。言ってやらない。

 ここ数日、猛暑続きでジリジリとした太陽の光が恨めしい。湿度も高くてジメジメしているし、こうなってくると非常に不快極まりない。おまけにリュックサックを背負ってるもんだから、ベルトがギリギリと肩に食い込む。それくらいの重量があるわけだ。

「えー、バスが来るまであと15分…か」

 電車から降り、無人駅から出ると目と鼻の先にに停留所が備えられている。これは昔と代わり映えしておらず、少々懐かしい思いに耽りかけた。

 設置されてから長い年月、雨風に晒されて所々腐食して錆びが目立っているが辛うじて文字は確認することができるようだった。

 今の時間は11時から少し過ぎたところ。時刻表の11時の欄と携帯電話機の時計を交互に見つめてから、「はぁ」と本日二度目の溜め息を吐いた。

 11時はバス一本しかない。否、午後は一本すらない時間帯が存在するようであるだけマシと言ったところか。

 これも田舎あるある、と呼ばれる類いに属してしまうんだろうな。利用者が少ないのだから仕方ないのかもしれないが、なんだか煮え切らない。

 時刻表の隣に申し分程度の雨避けスペースがあり、その屋根をバスが来るまでの間は日射し避けとして使わせてもらうことにした。

 生温い風が通る度に汗が心地悪くも乾いていってしまう。日射しが遮られた分、この温風ですら自然の恵みだと感謝したい。そして実家に帰ったら即刻、シャワーで汗を流してやる。その後でみたらしのもふもふを堪能すればいいのだ。

「しかし、本当に何もないな…」

 そういえば、さっきから人の姿すら見掛けない。これだけの酷暑、外出する気力は失せるというものだが、ここまで無人という言葉が相応しいと感じるほどの場面に今まで遭遇したことがない。

「…気味が悪い」

 感じたままの言葉が口から出たものの、辺りはしん…と静まり返っていた。

 どうしてこんなに静かなのか。電車は疾うに走り去ったし、道を通り抜ける車も見掛けない、自転車で駈ける子供の姿すらもそこにはなかった。

 ―音。そういえば、決定的に何かが足りないような気がする。それが違和感なのかもしれない。でも、何だったかな。思い出そうとしても頭の中が靄がかかっていて邪魔をしてくるし、非常にもやもやしてくる。

 暇潰しにと思い、手に持ったままだった携帯電話機に視線を向け、ホームボタンを押す。まるで止まっていた時が動き始めたようにパッ、と画面が光って手元が僅かに明るくなる。当たり前のはずなのに、そのちょっとしたことが今の俺に安堵を与えてくれた。

「…あと5分もあるのか」

 考え事に浸っていたのが幸いだったようだが、時計に注視すべきじゃなかったと後悔する。こういう時の5分は無駄に意識してしまう為、実際短くても体感的にはやたら長く感じてしまうから。

 と、不意に携帯電話機が軽快な音楽を奏で始める。咄嗟のことで思わず手元が狂い、落としそうになったが滑り落ちる直前でもう片手で支えきったことで功を奏した。

 改めて画面を見てみれば、「岩谷匠海」と表示が出ている。彼からの着信のようだが、出ないわけにはいかないんだろうな。

 先程の一人騒ぎで若干眼鏡が外れ掛け、位置を調整しながら応答ボタンを押した瞬間に電車口からけたたましい騒音が周辺に轟いた。

「おーーーっす!! 涼夜、元気にしてるかー?!」

「うるさい、暑苦しい、むさい」

「ちょっとまてコラァッ! 最後のむさいはいらないから!」

 自分から振っておいて失礼かもしれないがさっさと本題に入ろう。長くなるのは目に見えるし。多少、無礼振る舞っても匠海なら問題はない。

「騒音機になりましたって報告の為に電話してきたんじゃないだろ。何?」

 「ツッコミには全力無視かよ」とふてくれた様子で言ってきた気がしなくもないが、敢えてその全力無視とやらを貫き通す方向で行こう。親友だし。

「もうこっちに着いてるんだろ? だったら今から会わねぇ?」

「やだよ」

「えっ、即答?! やだよって、なんで?!」

「暑いし、ベタベタするし、シャワー浴びたいし、みたらしをもふもふしたいから」

 相手が相手だけに別に隠す必要もないだろうと本音をぶちまけてみる。まぁ、当然だが匠海の口からすぐに非難の声が挙がった。

 かれこれ6年は会って話していない。会いたいと思ってくれるのは嬉しいし、俺も会いたいとは思う。だからこそ許さないものがある、自分に。見知った人と会うのにこんな汗臭い姿を晒せるわけがなかった。

 電話口から聞こえるブーイングに吹き出しそうになる中、徐々に何かが近付いてくるのが耳に届く。自動車が走行する音よりも、遥かに重く鈍たらしい音がアスファルトに振動与え木霊した。

「あ、ごめん。バスに乗るからちょっと待ってて」

 そう言うなり携帯電話機を耳元から遠ざけ、エンジン音の聞こえる方向へ視線を向けると橙色がえらく特徴的なバスが此方へ向かってくるのが見えた。

 携帯電話機を入れていたポケットとは反対側に突っ込んでおいた二つ折り財布を片手で取り出し、財布の縁を咥えて開く。硬貨入れから100円硬貨を三枚ほど引き抜くと再び閉じてポケットへ仕舞う。

 料金が変わっていないならこれくらいの金額だった記憶がある。これで間違っていたら匠海が同窓会で笑いのネタとして提供しそうな気がしなくもない。

 大きな車体は緩やかなブレーキ音を響かせて停留所に停車する。前方の乗車口が開くと同時に早く乗り込もうと自然に足が動いた。

 バスへ一歩、足を進めたその時だった。

「おかえりなさい」

 耳元で、はっきり囁く声が聞こえてきた。

 それが何なのかと戦く前に慌てて振り返ってみる。が、そこには何者の姿もなく、視界の隅に寂れた時刻表がぽつんと置かれているだけだった。

 「お客さん」と背後から呼ばれて慌てて視線をバスの車内へ戻す。バスの運転手が怪訝そうに此方を見つめているもんだから、その場の空気に居たたまれなくなって空笑いを浮かべ、運賃箱に硬貨を入れてそそくさと最後尾の席に座り込んだ。

 気のせいだろう。きっと。少女のような高い声だった気がするが、何も無かったのだからきっと空耳に違いない。そもそも、おかえりの意味がわからないし。確かに此処は故郷かもしれないけれど。

 電話口から匠海の声が発するまでの数分間、自分の心音とキリキリとした鳩尾の痛みに支配されていた。

 途端、静寂だったはずのバスの外からは蝉時雨が確かに聴こえた。




「こら、みたらし。手出したら危ないから大人しくしてなよ」

 自室で作業していると、膝の上で寛いでいたみたらしが前足を伸ばしてくる。どうやら手に持っている彫刻刀が気になるらしい。そっと床に刀を置いてから、視界を覆うように頭を掌で掴めばすぐに大人しくなった。

 実家に帰って一段落し、外は暗く既に陽は沈んで辺りは真っ暗。近所の家々は既に寝静まっていて、それは俺の両親も例外ではない。先程、就寝の挨拶も交わして寝入っていく姿を見掛けた。

 起きているのは俺とみたらしくらいで、構ってくれる対象が眠ってしまったから暇そうな俺の膝に乗ってきた―というところじゃないかと思う。

 彫刻師の見習い。それが今の俺の職業。まだ6年目だが、最近になって仏壇の一部の彫刻を任されるようになった。

 僅かな期間とは言え、彫刻をしていないのは不安だし腕が鈍ったら困る。練習用としてわざわざ持参できる彫刻刀一式と、ベニヤ板を持ってくるくらいには俺自身彫刻ってものが好きなんだということかもしれない。

「適当なところで終わらせるから大人しくしてててな」

 いい加減、可哀想だと思えてきて頭を掴んでいる手を退けると、ナァーと鳴いて応えてきた。

 これはどういう意味なんだろう、なんて思っていればみたらしは膝の上から離れてベッドの上で丸まる。それから「ぷすーぷすー」と寝息を立てるのに時間は掛からなかった。

 気紛れで時に甘えたな我が家の姫様の寝息を作業の音楽にしながら再び作業を始める。特にテーマは決めていなかったが、この家の置き物にするなら…と考えた末にみたらしを彫ることに決めた。

 本来ならトレーシングペーパーに描いてから作業に入るものだが、実物がすぐ目の前にいるから問題はないだろう。想像力や応用力を鍛えるのにもいいかもしれない。

「起きないでくれよ、みたらし」

 ひたすらガリガリ、ガリガリと音を立てながら板を削っていく。不安をよそに、音にすら反応を見せず、みたらしは眠ったままで起き上がる気配はなかった。

 以前よりも太ったような気がする。一体何を食わせているのか。ちょっと明日、起きた時にでも問い掛けてみようかな。なんて思いながら削っていたのが悪かったんだろう。

「またあそぼうね。おにがたくん」

「…?!」

 真夏だというのに一気に酷寒が押し寄せてくるような感覚に襲われた。

 心臓が凍るような寒さにヒュッ…と息が止まる。次第に息は乱れ、視線を泳がせながらあ…と声を洩らした頃には既に手遅れだった。

 ザシュッ――見事に刃が指に食い込んでいる。痛みはないが指が酷く熱く、血液が集結しているのか他のどの指よりも赤かった。

 彫刻刀をグッと引き抜く。ドクドクと血が流れ、手から腕へ伝っていき、床へぽとりぽとりと落ちて染みを作っていくのをスローモーションで見えた気がする。板が汚れなかったのが奇跡的だな、と思った。

 何にしても出血が酷い。絆創膏では間に合わないだろう。取り敢えずは腕を頭部より高く上げ、タオルを求めて浴室へ向かおうと自室から飛び出て階段を駈け下りた。

 ばくばく、という音が体内に轟いていると錯覚しそうになる。さっきよりも心拍が上昇していてうるさい。

 まるで家そのものが死んだかのように静かで空気も幾分か冷えきっており、その中で聞こえるのは自分の吐息と荒々しい足音だけ。自分の家に帰ってきたというのにひどく気味が悪く、胃の中のものをすべて吐き出しそうになった。

 はっきりと聞こえてしまった。

 昼間の、おかえりと耳元で囁いた少女の声が。




「はい、お土産。匠海は甘いもの平気だったよな」

「お、マジで!? サンキュー涼夜!」

 翌日。始まる時間帯に同窓会の会場である母校の、6年1組の教室へ向かうと真っ先に声を掛けてきたのは親友の匠海だった。

 彼が好む和菓子の詰め合わせが入った紙袋を渡すと、子供の頃によく見せてくれた無邪気な笑顔を浮かべてくる。本当に好きなんだな、と同時に久々に親友の笑顔を見ることができて嬉しく思った。

 正直、同窓会のクオリティにはそんなに期待していなかったが匠海の実家が中華料理店であることもあって実に旨そうな品々が机の上に並んでいる。特にエビチリは大好物で、放課後に寄ってはよく食べていた。

 酒にジュース類、お茶はもちろん置かれていてすぐ傍には紙コップが積んである。圧倒的に酒類が無くなっているのは、当然と言えば当然か。出来上がって床で眠りこけそうになる奴、談話を楽しみながらひたすら食事に手を伸ばす奴などの光景が広がっていた。

「みんな楽しそうだな」

「こんだけバカ騒ぎできる機会も少ないからね」

 言いながら、日頃の癖で眼鏡を位置を直す為に手を添えたのが運の尽き。指先の包帯が注視されるのを感じて慌てて手を引っ込める。が、遅かったようで心配そうに眉を寄せて「どうしたんだそれ」と尋ねてきた。

「昨日、彫刻の練習をしていたらざっくりいっちゃって。昼間、病院で縫ってもらった」

「そんなに深く?! 大丈夫なのかよ…」

 無理だったらここに来てないな、と余裕ぶって答えると匠海の表情から安堵が窺えた。実際、痛みはそんなに無い。3日ほどこのままでいろと医者に告げられるとは思ってもなかったが。

 あの後、出血は止まったものの傷が深くさすがに感染症になりかねないと判断した俺は消毒やら絆創膏で簡単に処置を済ませてから眠りに就いた。吐き気も気付けばどこか消え失せていたのが救いだったと言える。

 寝入る前、俺の足音で起きたみたらしが傍らに寄り添ってきて少しばかり心強かった。

 まぁ、みたらしからしたらちょうどいい寄り掛かれる場所くらいにしか思ってないのかもしれないけど。もふもふできたから満足。

「そういえば桜重は? まだ来ていないのか?」

「一応、メールも電話もしたんたけど繋がらないんだよ。ったく、どこで何やってんだか」

 彼が苛ついた様子で床を蹴ると、他の同級生が一瞬視線を向けるもののすぐに自分たちの話に戻っていった。

 匠海に問い掛けてからふと思い出して自らの携帯電話機を確認してみるが、桜重からの連絡は昨日の件以降無かった。

 昨日のことを気にしているのだろうか。電話した時に同窓会を楽しみにしている印象だったし、顔を出すくらいのことはするはずだ。

 何かあったのだろうか――そう考えに耽っていると、眼鏡を掛けた一人の女子が紙コップを手にしたまま話し掛けてきた。

 酒気は漂ってこない。こんな場であるというのに、どうやら中身はお茶らしい。

「あなた達、不死原さんと一緒じゃないの?」

「あいつ来てるのか? さっきから連絡してるんだけど繋がらねぇんだよ」

「おかしいな…一番最初に来てたはずなんだけど。どこに行ったんだろう…」

 不安そうで今にも泣き出しそうな彼女に、不意に記憶が蘇る。この泣き顔はそうか、この人があの朝井だ。

 俺のことを「鬼神サマ」とかネーミングセンスら欠片もないあだ名をつけた張本人。あぁ、でもどういう経緯でそんな風に呼ばれたのかは一向に思い出せない。

 違った。今は桜重のことだ。話はそれからだ。

 匠海が朝井を慰めている間に廊下に出て、携帯電話機でアドレス帳から桜重の電話番号を引き出して通話ボタンを押す。トゥルルル、トゥルルルと規則的な応答の機械音が流れるが本人が出るような気配は全く無かった。

 無機質な音を30秒ほど聞いてから廊下を駆け抜けていく。朝井の言うことに間違えがないなら、仮に此処を離れてもまだ学校内にいる可能性が高い。後ろから、扉を開く音と匠海の叫ぶ声が聞こえた気がしたが電話口のブツッという音によってすべてが掻き消された。

「おっにさんこっちら、てのなるほうへ」

 リズミカルで嬉々そうな少女の声色とパンパンと手を叩く聞こえ、その数秒後にはドサッと何か重量のあるものが倒れ込んだ音が聞こえた。

 少女は復唱する。手を叩きながら「おにさんこちら、てのなるほうへ」と。

 同じ声。昨日の、バス停と自室で聞こえた声と同一人物に違いないだろう。確信はないが、他に思い当たるものがなかった。

 ピン、と緊張の糸が脳内に張り巡らされる感覚。倒れた衝撃の音が響き渡るのを僅かに聞いて取れた。となると、やはり屋内で学校内にいる。嫌な予感に胸がざわつき、恐怖心を押し殺して相手に問い掛ける。

「さ、え…?」

 俺の言葉と同時に声と叩く音が止んだ。

「つぎはおにがたくんがおにだよ。わすれちゃったの?」

 ブツッ。ツー、ツー、ツー。

 やはり嬉しそうな声で語り掛けてくる。この少女は何が楽しいのか。わかるはずもないが。

 問答無用で通話を遮断し、再度掛け直すも通じることはなく。俺は匠海に連絡を取りながら校内をひたすら走った。

 見つけたのはそれから数十分後。目隠しをして倒れている桜重が体育館で発見された。




「鬼さんこちら、手の鳴る方へ」

 闇夜に包まれた公園のブランコに腰掛け、パンパンと手を叩くも、返事は無論かえってこない。此処にいるのは自分一人だけなのだからそれもそうだ、と胸の内で思わずつっこんでしまった。

 ブランコを揺する度にギィ、ギィと痛々しく鳴いてみせる。板はボロボロだし、鎖は錆びだらけで悲鳴を上げているように聞こえた。

 発見された桜重は生きている。市内の病院で暫く入院するそうだが、軽度の脱水症状を引き起こした程度で命に別状はないと医師自ら告げた。

「忘れてたから怒ってる?」

 問いから数秒を要して、答えるようにコツンと闇から小石が投げられた。

 はい。という意味なんだと直感的に思った。

 姿を現さないのは俺が怒りを見せているから、といったところか。対話が成立するならちゃんと話が通じる相手だと認識するわけで。それでも、ああいった類いの脅かしは些か不愉快ゆえ怒気を含んだ口調を変えることはしない。

「君はどうしたいの?」

 不意にすぐ隣から小石を投げられる。小石の傍には水色のワンピースを身に纏った少女が立ち尽くしていたが、洒落っ気のあるその姿には不似合いな、古めかしい布地の目隠しをしていた。

 小学生の頃、死者だと判別のつかなかった俺は彼女とよくこの公園で遊んでいた。人が寄り付けない此処ではうってつけだったんだと今更ながら気づく。

 決まって彼女は目隠し鬼で遊びたがる。理由はよく知らないし、今もこうして目隠しをしているのだからそれなりに重要な意味があるのかもしれない。

「遊んだら、もうあんなことしない?」

 問いには応答せずにふい、と彼女は背を向けてしまう。ふわっと風に乗ってワンピースが揺れるのを見るとまるで生きているようにも見えるが、やはり彼女は死者なのだ。

 現に手を伸ばして触れようとしても透けるし、俺が毎度美里ちゃんと目隠し鬼をやって負けていたのはこういった理由がある。勿論、当時の俺は触れようと必死だったわけだが。

 うっ、うっ、と僅かに啜り泣く声が聞こえる。こういう時、背中を向けられたままというのは非常に恐怖感がある。今は害が無いとは言え、安心できるわけでないのだから。それは小学生の頃、存分に味わったわけだし。

「…あれ?」

 僅かに目を離した隙に彼女の姿はそこには無く、きょろきょろと周辺を見回すが見当たらない。立ち上がろうとした瞬間、背筋にぞくりと寒気が襲った。

 どうやら彼女は背後にいるらしい。そして、恐らくは俺を見下ろしている。どういったかたちでなのかは想像したくもないし、催促されても振り向くことはまずしないだろう。

 そんなことを考えてる隙に視界が闇に覆われ、思わず肩をびくりと跳ねてしまう。その様子を見てか、後ろからクスクスと笑い声が聞こえた気がした。

 あぁ、目隠しをされたんだとわかる。きっちり目隠しの布を縛らないあたり、意地が悪い。ひらりと布を落として、彼女は目隠しの下を見せて驚かせる気なのだから。




「心配させんじゃねぇよばーか!」

 あまりの大音量に電話を落としそうになる。談話室は普段、平穏な分周囲にいた入院患者の方達が目を丸くしてこちらを見ていた。

 すみません、すみませんと周囲に向けて頭を下げてから再び電話口でごめん、と謝罪の言葉を述べる。が、怒り心頭のようで散々思いの丈を喚き散らされる。今回ばかりは俺が悪いのだから仕方ないが、せめて静かに説教やら叱責を受けたい。

 目が覚めた俺の視界に飛び込んできたのは、幼い頃によく見た見覚えのある天井。と言っても自室ではなく、そこが病院であるというのは理解できた。

 俺を発見してくれたのは早朝、散歩しに来た老夫婦らしい。起きて早々、それを聞かされ退院したらその老夫婦に礼がしたいと言ったら医師が快く名前と連絡先を教えてくれた。

 なんでも救急車に同伴して、両親が駆けつけるまで付き添ってくれたそうで。今頃、母さんが礼の品を買いに出掛けているはずだ。

 ついでに匠海を宥める品も頼んでおいてもよかったのかもしれない。

「桜重に続いてお前にまで何かあったら気が気じゃねぇよ…」

「…ごめん、匠海。この通り、ピンピンしてるからすぐに退院できるよ」

「……」

 気弱な匠海を励まそうと出来る限り明るく振る舞うが、それから妙に重い沈黙が流れてしまって俺は何も言えなくなってしまう。もしかして何かマズイことでも言ってしまっただろうか。

 気まずさを解消するべき俺は何か別の話題を持ちかけようと必死に頭を働かせる。あぁ、そういえば桜重はどうしているのかふと疑問を抱く。病院が違うし。

「あ…桜重、あれから調子どう? 脱水症状って言ってたし、もう退院した?」

「……桜重……は、」

 ごく、と唾を飲む音がこちらにも届いた。

 ちょっと待ってくれ。どうして桜重の話なのにそんなに重苦しそうな声を出してるんだよ。そういうの、いつまでも引きずるようなタイプじゃないはずなのに今日は様子が変じゃないか。

 なぁ、匠海――

「……桜重、突然わけわからないこと叫び始めて病室から飛び降りて死んだんだよ。遺書はなかったんだってさ…」

 匠海が唇を噛み締め、必死に涙を堪えているのが電話越しから伝わってきた。

 ――死んだって? 誰が? どうして?

 暫く硬直したまま、返す言葉が見つからず俺は目を見開いて談話室の気味悪いくらい真っ白な壁を睨み付けた。

 会って話もしていないのに、最後のやりとりがあんなものだなんて考えたくないのに。




「おにがたくんはなんかいもあそんでるのに、どうしてしんでくれないの?」

 背後から少女の声が聞こえる。

 楽しそうに見下ろしてる姿がそこにあった。

やばいこれは間に合わないぞ!ということで所々、省いているのでかなり展開が早いです。

ホラーは難しいですね。良い経験になりました。

桜重ちゃん、出番少なかったからもっと出してあげたかった。

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