レンズをのぞいて
ふぅ、一つ深呼吸してゆっくりと店の扉を押しあけると、扉にぶら下がっている訪問者を知らせるチャイムが、チャリンチャリンとどこか懐かしい音を鳴らし、私を年月を重ねた木材が放つ独特の――少し埃っぽい――薫りが迎え入れた。
店内に一歩足を踏み入れると、ぎしりと板張りの床がきしむ音がした。
広くはない店内の真ん中にある机――これも年代物らしい重厚感のある木製のものである――の上には、天体望遠鏡やカメラ――どちらも今やデジタルに駆逐されて久しい旧来のそれ――や、置時計などが数えるのが手間なほどに数多くおかれていた。
左手の壁には漆喰が塗りっぱなしの壁に多くの振り子時計が吊り下げられ、カチカチと規則正しい音が幾重にも重なって静かな店内に響いており、右手の壁を覆っている大きな棚には、カメラや望遠レンズなどが所狭しと陳列されている。
それらが天井にぶら提げられた雪洞やランタンの放つやわらかい光に照らされ、非日常的なものばかりでありながら、とても落ち着いた空間を構成していた。
「いらっしゃいませ」
店主らしき女性が手元の本から顔をあげてにこやかに笑いかけてきた。
五〇歳くらいであろうか、うなじほどまでのゆったりとカールした髪型で、目じりと口元にしわをすこし作って笑うその綺麗な顔は、年月を経てもいまだ失われぬ美しさを穏やかに示していた。
「何かお探し物でしょうか?」
見とれてしまっていたことに気付き少し狼狽した。それに気づいたのか、店主は、どこか嬉しそうに眼を細めてしわをいっそう深くした。
「ええ、ちょっと変わったカメラのレンズを探していまして」
机の上のものを引っ掛けて壊してしまわないようにゆっくりとカウンターに近づいて――カウンターの向こうの棚は本棚になっており、端から端まで文庫本や単行本がずらりとならべられていた――肩にかけたトートバッグから注意深くそれを取り出し、布の敷かれたカウンターの上に置いた。
「拝見してもよろしいですか?」
「はい、お願いします」
店主が、注意深くカメラを持ち上げて見分を始める。ところどころ黒い塗装の禿げているそれは、この店の雰囲気によく似合っていた。
「このカメラはいかがなさったんですか?」
「つい先日このあたりに引っ越してきたのですが、荷物の中にこのカメラが混ざりこんでたんです。私の荷物に紛れ込んでいたので、他人のものが紛れ込んだというわけではないようなのですけど。でも、私カメラに詳しくないですし、そもそもレンズがついてなかったんですけどね――」
そう言って苦笑する。
ネットでなんだって調べることのできる今の世の中であっても、調べようと思って観察すれど型式もメーカーも一切見当たらないのでは手も足も出ない。
撮影も加工も簡単なデジタルカメラが一般に普及して長い今や、専門店に持って行ったところで匙を投げられるだろうと思った。
そのうえ、写真というものに多少なり興味があったとしても、それに類する知識を一切持っていない自分には、これが高級品であったとしても宝の持ち腐れであろうと。
そんな矢先、引っ越し先のこの町に少しでも慣れておこうと散歩していたところで、前世紀の街並みをそのままに残す通りを少し外れたところに赤レンガ造りの、ところどころが蔦に覆われた店を見つけた。
『観道具屋 日々草』と入り口の上に控えめな看板を掲げ、いわゆるショウウィンドウのところにフィルム式のカメラを並べていたこの店を見つけ、ピンときたのだ。
……ダメ元であったとも言えるが。
「――もし使えたとしても、私にはきっと宝の持ち腐れになってしまうと思いますけど」
「ああ、これに合うレンズならありますよ。あれどこにしまったかな……」
店主はカメラをカウンターに置くと、予想外にいい返事に驚く私をしり目に、カウンターの中からこちら側に出てきて棚を探し始めた。
「光の三原色って知ってますよね」
棚の下の引き戸を開けて中腰になり、中をまさぐりながら店主が話しだした。
「ええ、青、赤、黄の光が合わさると白い光になるあれですよね」
「そうです」
店主が手元を見つめながら頷いた。
「知ってのとおり、雨上がりの虹で現れるように、光というものは数多の色の光を含んでいます。だから光というものはいろいろな物の姿を私たちの前に見せてくれます。今日のような秋晴れの日や、梅雨の日、満月の夜、部屋の照明の明かり。同じものも、それらのもとでは全く違った姿にみえるでしょう?」
あ、あった、と呟いて店主は立ち上がり私にレンズをはめたカメラを手渡して笑いかけた。
「このレンズを通して見たら、世界はまた違ったものになるんです。面白いでしょう?」
――ゴーン、ゴーン――ゴーン、ゴーン――
壁の振り子時計が一斉に一六時半の刻を知らせて、幾重にも重なった鐘の音を鳴らした。
それから簡単なカメラの使い方についての説明を受け、フィルムをセットしてもらい、代金を払って――相場はわからないが、ほぼ骨董品のレンズとフィルムで一万に届かないのは明らかに安いだろう――散歩ついでに試し撮りをしようと店を出た。
店を出てすぐの通りは、前世紀の面影が残る佇まいの建物が並んでおり、今となっては見ることが少なくなった電柱が通りのあちこちに立っていた。
電線の上にはたくさんのスズメが目白押しに止まっていて、ぴーちくぱーちく、せわしなく動き回っていた。
そんな通りを抜けようかというあたりで、売出し中と書かれた色あせた看板の立つ狭い空き地の中に、白いワンピースを着た少女がいるのを見つけた。
何をしているのだろうかとみていた私と少女の目が合うと、少女は挑戦的な目線で私を一瞥し、両手でひっくり返したポリバケツを叩き始めた。
ドコドコとリズミカルとは言い難い不規則な調子でバケツを叩き、口にくわえたホイッスルをちからいっぱい吹き鳴らそうとして掠れ、そばのドラム缶の上に置かれた色褪せた洗濯板を角材の切れ端の撥で叩き、しごく。
音楽とは胸を張って言えない、でも確かに音楽なのであろうその音を聞きながら、私は首から下げていたカメラを少女に向けた。
慣れない操作でゆっくりとピントを合わせると、演奏中の彼女は心底楽しそうに私に向けて笑った。
蒼い綺麗な目を挑戦的に輝かせていた。
私はその瞬間を逃すまいとシャッターを切った。
シャッターを切った音と、フィナーレの音が重なった。
少女は私ににっこりと笑いかけて手を振った。私が手を振りかえすと、すぐに身を翻してバケツやら角材やらはそのままに、通りの先に駆けて行った。
通りを抜けると、それなりに大きな公園に出た。
真ん中に小さな砂場と鉄棒、ブランコがあり、その周囲を紅葉したクヌギの木が取り囲んでいた。
赤や黄に染まった木々の葉は、夕日の光を受けて燃えるように美しく、地面は落ちた葉で赤と黄に塗られていた。
休日の夕方だからであろうか、子供の姿は見えなかった。
公園に来たのはいつ以来だろう?
そう独り言を言い、ブランコの前の手すりに腰かけた。
「キュ!…キュ!……キュキュ!」
聞きなれない鳴き声に音のした方を見ると、背中にこげ茶の縞のある茶色い毛玉がちょろちょろと私の方に近づいてきていた。
毛玉はふと立ち止まると、ふわふわなしっぽをまっすぐ立て、鼻先をひくひくさせて、つぶらな黒い瞳で私をじーっと見つめた。
私は自然と顔がほころんでいるのを感じつつ、驚かせないようにゆっくりと足元のドングリを二つ拾い上げ、リスの鼻先に持っていった。
するとリスはドングリを受け取り、口に頬張ってくれた。
かわいい!
そう叫びたくなるのを鉄の意志でぐっとこらえ、そのままの姿勢を必死に保つ。
リスは私をじーっと見つめて鼻をひくひくさせると、もう一つのドングリも頬張った。
私は用心に用心を重ね、慎重に、リスを驚かせないようにゆっくりとカメラを構え、頬袋いっぱいにドングリを頬張るリスを己の目と写真に焼き付けるべく、シャッターを切った。
残念なことにシャッター音に驚いたリスは脱兎のごとく――驚くほど速かった、が、かわいかった――逃げ出してしまったが、私は顔をほころばせ、温かい気持ちで公園を後にした。
公園を抜け、住宅地をしばらく歩くと、商店街のアーケードに出た。
かつて空洞化が進んでシャッター街などと問題になったそれは、以来客足が戻っていないようで、いくつかの専門店を除いては店も開いておらず、人通りはあまりなかった。
人通りのない通りを歩いていくと、重低音のベースと、ハーモニカのメロディが聞こえだした。
その音につられるように商店街の反対側へと行くと、高校生らしい制服を着た少女がエレクトーンを弾き、ハーモニカを吹き鳴らしていた。
エレクトーンがリズムとベースを刻み、ハーモニカが荒々しいメロディを形作っていた。
それでも、時折通る通行人は、彼女のことを全く気にする様子もなく通り過ぎていく。
髪は後ろの方で乱雑にまとめられ、端正な顔は不満げに仏頂面のままで、口元のハーモニカを吹き鳴らして力む。
私はそんな彼女にカメラを向けた。先ほどと同じようにゆっくりとピントを合わせる。
カメラのレンズ越しに彼女と目があった。蒼い目が不安げに揺れ、すぐに目線を逸らされた。
私がシャッターを切ったのと、彼女が演奏をやめたのは同じ時だった。
彼女は演奏を終えるとすぐに片づけをはじめ、ものの一分ほどでその場を立ち去った。
その表情はさいごまで硬いままで、私は彼女が角を曲がったところで見失ってしまった。
商店街を抜け、数分歩くと河川敷の遊歩道に出た。
赤みがかった夕暮れの光に照らされた葦原が、吹き抜ける風にざわざわわと囁き、波打っていた。
私は遊歩道に沿ってゆっくりと歩きながら、きらきらと反射する川面と、夕日を背にした富士山のシルエットを眺めた。
はるばる北の大地から渡ってきたのだろうか、横一列で飛んできたカモの群れがスーッと川に降りて行った。
向かいから歩いてきた母娘連れを見て道の端の方に寄り、通りすがりに挨拶する。
「こんにちは」
母親の女性は少し驚いた様子だったが、少し会釈して挨拶し返してくれた。
「こんにちは。こらっ、あなたもご挨拶なさい」
「こんにちはー!とりっくおあとりーと!!」
娘さんが促されるままに挨拶し、おかしをくれなきゃイタズラするよと目を爛々と輝かせながら手を差し出してきた。
その頭の上についた耳がぴくぴくと動いているのを見て、そういえば今日はハロウィンだったなと思い出し、最近のはずいぶんとリアルになっているんだなと感心した。
「じゃあお菓子あげるからイタズラしないでね。――はい」
そう言ってバッグからアメ玉を取り出して手渡すと、娘さんはイタズラの方がよかったなと口をとがらせながら受け取った。
「こらっ、ちゃんとありがとうって言いなさい。――ほんとに突然すいません、ありがとうございます」
「うん!ありがとう!」
母親の頭の上にもある耳が申し訳なさそうに垂れているのを見つつ、お互いに遠慮しあう日本人らしい会話を交わし、別れた。
別れざまに振り向くと、母娘ともに尻尾を振りながらニコニコ話しているのを見て、なんか気合入ってるんだなと、どうでもいいような感想を持った。
少しだけ歩くと、上下ともにデニム地の服を着、アコースティックギターを抱えた女性が河川敷の土手の草原に座っていた。
一〇何メートルかまで近づくと、彼女はそれまでのぽろぽろと弾いていた調律を終え、ギターを弾きながら歌い始めた。
どこかで聞いたアイルランドの民謡のような旋律と、私の知らない言語の歌詞を、澄んだ力強い声が高らかに歌い上げる。
誇り高く、でもどこか寂しげな音色が茜色の空に吸い込まれていくような、遥か遠い誰かに歌い上げたような、そんな歌だった。
ギターの伴奏がゆっくりと終わると、彼女はこちらを向き、微笑んで会釈した。ゆるやかにウェーブした髪が風にふわりとなびいた。
私も会釈をすると、遠慮がちにカメラを取り出し、撮ってもいいかというような手振りをした。
彼女は少し困ったように笑って頷き、私はカメラを覗き込んだ。
少しぼやけているピントをゆっくりと合わせる。
川面の光を反射している蒼い目が、イタズラが成功したような笑みを浮かべていた。
私はシャッターを切った。
ファインダーから目を離し、カメラを下げると、誰もそこにはおらず、ただ短い草が風にそよいでいた。
あれ?と思い、辺りを見回して、西の空を見上げて私は言葉を失った。
夜と夕方の合間の群青の空を、大きな大きな白いクジラが悠然と泳ぎ、その周りを淡い、様々な色のイルカが泳ぎ、じゃれあい、飛び跳ねている。
飛び跳ねるたびに白い花びらのような飛沫を散らし、じゃれあってぐるぐるとまわりながら色を変えて、楽しげな鳴き声が響き渡る。
一頭のイルカが甲高い鳴き声を上げ、悠然と泳ぐクジラの前の方にイルカがたくさん集まって群れをなすと、気付いた時にはそれは優雅な白いクジラの姿となっていた。
二頭のクジラは低くてとても美しい大きな鳴き声を発し、背中から白いきらきらと色を変える潮を噴き上げた。
私の視界がその花びらのようなそれに埋め尽くされ、真っ白に染まった。
ゴトッ、という音とともに何かが割れた音がして意識を引き戻すと、私の手の中からカメラが床に落ちてしまったことに気がついた。
「あっ、ごめんなさい」
「いえ、それよりお客様お怪我はなさいませんでしたか?」
店主が私に心配の声をかけ、私は大丈夫だと返答する。
店主が注意深く拾い上げたカメラのレンズは、半分以上が砕け散ってしまっていた。
ガラスの破片が光を反射して七色に輝いていて綺麗だと思った。
「それより本当に申し訳ないです、売り物のレンズを壊してしまって……」
――ゴーン、ゴーン――ゴーン、ゴーン――
壁の振り子時計が一斉に一六時半の刻を知らせて、幾重にも重なった鐘の音を鳴らした。
私はそちらを見て、それらの時計の各所に凝らされた意匠が、リスやネコ、イルカにクジラといった様々な動物をモチーフにしたものであることに気が付いた。
「――見方ひとつで、あなたの世界はまったく違ったものになるんですよ」
店主の言葉に私は視線を戻した。
「本当に面白いでしょう?」
彼女の蒼い目が、いたずらっぽく輝いた。