【五段話】『思い出の求心力』
眼下の海面には刺々しい岩に打ち付けられた海水がぶくぶくと白い泡を立て、上空には雲ひとつ無い空に浮かぶ光球が暴力的な光を照射していた。海と空の青は相容れること無く水平線で区切られ、濃い青と薄い青の間に広がる、ぼんやりとした境界から生暖かい風が吹きつける。
目の前には潮風にあてられて朽ち果てた墓と、そこに添えられた瑞々しい菊の花、燻っている線香。それ以外は青々とした雑草が生い茂っているだけで、菊の花と線香がなければ無縁墓のように見える。朽ちかけた墓石には『吉田家之墓』と掘ってある。私の母の旧姓である。
私は毎年、夏も中頃の盆の季節になると母の墓のある熱海の片田舎に訪れるようにしている。この時ばかりは仕事も入れず、なんとか休みを作り二、三日熱海に滞在し掃苔がてらの休暇に当てている。実際、仕事を休んでいる暇など無いはずなのだが、これは私なりのけじめであり、私自身生きていく上で必要なことなのである。
朽ちた墓の手入れもそこそこに、いつかは墓石も新調しなくてはならないなという考えを巡らせながら急斜面のあぜ道を下ってゆく。来た時には傾いでた太陽は中空に達していて、思ったよりも長い時間滞在していたことがわかった。
空き地に停めた車に掃除用具を突っ込み、少し歩くことにした。剥がれかけたアスファルトから立ち上る陽炎に目が眩んだが、浜風の応援を背にすると懐かしい気分が足を速くした。
しばらく行くと、またしても郷愁を誘う光景が目に入った。古ぼけた木造の建物に安物臭い色とりどりの玩具や小分けにされた駄菓子がぶら下がっている。庇の上には日に焼けて薄くなった『古川商店』という看板。十数年前の夏と同じように私は店内に吸い寄せられていった。内部は記憶と相違ない様相であった。プラスチックの入れ物の中には極彩色の飴玉が三分の一ほど詰められていて、その他にもかりんとう、グミ、魚介類のすり身を加工したような駄菓子が所狭しと陳列されている。奥の部屋から店主が出てきたが、その姿もまた記憶通り、目が開いているのだかわからない深い皺の刻まれた古川の婆さんだった。想えばこの婆さんは私が子供の頃から婆さんだった。腰が曲がりきった身体でこの店を変わらずに守っているのだろう。会計の際「はい。七十円のお釣りだよ、くりすちゃん」と言われたが、私は「ありがとう」と一言返すに留まった。
店で買った芋けんぴと中途半端に冷えたサイダーを手に軒先のベンチに腰を下ろし、ぼぅっとタバコを燻らせていると「あれ? もしかしてクリス?」と艶のある声が聞こえた。
「やっぱりクリスだ。こんな田舎の店で芋けんぴ食べてるガイジンなんてクリスしかいないもんね。てか、帰ってきてるなら連絡ぐらいしてよぅ」
声の主は私の同級生の芹沢夕だった。足元にはリールでつながれた大きなセントバーナードが舌を出しながら喘いでいた。大雑把にまとめた長髪を肩に垂らし、白いシャツの下に着たタンクトップからは豊かな胸の膨らみが見え隠れしていて、成熟した女性の美しさを湛えていた。夕の姿は幼い頃とはかけ離れていたが、大きな口と爛々と光る瞳や艶やかな声の中に潜む快活さはその面影を残していた。
懐かしい旧友に出会えたことからか口元がほころぶ。
「いや、すぐ帰るつもりだったから」
「ふ~ん、でも連絡ぐらいしてくれたっていいじゃん。そしたらみんなも集められたかもしれないのに」
「いいよそんなの。小っ恥ずかしいし」
「で、そんな恥ずかしがり屋のクリスはこんな田舎まで何しに来たの?」
「墓参り」
不意に会話が止まった。夕は足元に座らせた犬を撫で「ちょっと持ってて」とリールを私に預け店内に駆け込むと、サイダーを手に私の隣にどかっと座った。
「おい、古川の婆さんはあんなに速く会計できないだろ」
「いいんだよ。ツケだよ、ツケ」
夕はごくごくと炭酸を感じないかのようにサイダーを飲み干す。まるで気付け薬を飲んでいるかのように苦しそうな表情をしている。健康的な首筋には汗の玉が光っていて、その表情と相まってやけに扇情的に映った。瓶が空になると、ぐっと腹に溜まったガスを嚥下して涙目を擦った。
「クリス、これから予定ある?」
「いや? 無いけどどうした?」
「さっきすぐ帰るって言ったじゃん」
「あれは言葉の綾だよ」
「アヤって、まだフラれたこと気にしてんの?」
「何年前の話だよ。おちょくってるなら帰るぞ」
「冗談だよ、ジョーダン。暇ならさ、アタシと一緒にデートしない?」
「こんなクソ田舎でか?」
「もちろん、ここ以外ないでしょ。エスコートはアタシに任せてよ」
はっきりと頷きはしなかったが、勢いに飲まれ承諾する形になってしまった。夕は支度をしてくるのでここで待っていて欲しいと言葉を残し、彼女の腰ほどにもあるセントバーナードを引っ張りながら、ショートパンツから伸びた長い足を踊らせ帰って行ってしまった。カスカスと革製のサンダルを弾ませる夕の後ろ姿は古き時代の面影と重なっていた。
茹だるような灼熱の風景を日陰から見つめながら、タバコを何本か吸い、芋けんぴを頬張って夕を待っていると、古川商店の軒下に出来たツバメの巣を見つけた。親鳥も小鳥も居ない、打ち捨てられて空っぽになった巣に帰るものは居るのだろうか。私のように過去の軌跡を追い、それを慰めにしている鳥など居るものかと理性ではわかっているつもりでも、そう思わずには居られないのは、私が故郷に囚われているだけなのであろうか。
一時間もしないうちに夕が戻ってきた。巨体のセントバーナードは家に置いてきたらしい。格好は先ほどまでと変わらなかったが、頬に朱がさしていることからうっすらと化粧をしてきていることがわかった。
「ふぅ、ちょっと走ってきたから息あがっちゃった。嫌だねーもう若くないねー」
「そんな急がなくっても逃げやしないのに」
「だってクリス掴み所ないんだもん。ここで逃がして今生の別れなんて嫌だもん」
夕はどこか無理をして活発に振舞っているように見えたが、私はそんな夕の姿が微笑ましく苦笑いをしてその思いは口に出さなかった。そこから私たちの思い出巡りは始まった。
上空から照りつける太陽と、足裏から立ち上ってくる熱気を感じながら、スタート地点の古川商店からたまり場になっていた公園、秘密基地があった雑木林、夏休みのほとんどを過ごした海岸などを回った。その間、夕は軽い口調で話を振りながらも、ずんずん先を進んでゆく。なるほど、私一人では回らないであろう所まで網羅し、感傷的な気分にさせるギリギリのタイミングでその場を離れてエスコートを続けていくのを見ると、彼女と来て正解だったという気になる。
陽が西に傾き、光の波長の変化によって世界が単色に染まっていくと、夕がふと足を止めた。夕暮れ、黄昏、逢魔ヶ時。彼女の名前には別れの色彩が混ざっている。夕の視線の先には打ちひしがれ、蔦の絡まった廃屋があった。普通の一軒家にしては少し大きなその家は、幾重にも雑草が絡み付いていて窒息しているように見えた。錆びを浮かせた雨樋は崩れ、屋根の瓦が剥げた間から腐食した木材が覗いていて、まともに管理されていないのが歴然だった。
あぁ、結局ここに戻ってきてしまうのか。毎年、熱海への小旅行が快いものにならない理由であり、私をこの土地に縛る理由。母が一人ぼっちで死んでしまった、私の生家。
私の表情が曇っているのを察知したのか、夕が「うわー、こりゃ酷いね。甲子園球場みたいだ」と明るい声を無理矢理ひねり出した。
「ほったらかしすぎだよー、ここ一応クリスん家だったでしょー」
言葉通りの重さを感じさせない軽口を叩きながら敷地の中へと入ってゆく。
「やーねーもう、ちゃんと手入れしなー。せっかく土地持ってるのに、これじゃ持ち腐れだよ。今時居ないよ、その年で土地持ってる奴なんて」
彼女の心遣いに多少気持ちが和らいで、この辺りの土地など持っていてもさして良いことなど無いと反駁しようとした。しかし夕は私の気持ちはなんのその、腰を屈めて何やらゴソゴソと縁側の下を漁っていた。
「何してんだ?」
「ん~。もしかしたらまだあるかな~って、あった! 甲子園と言ったらこれでしょ!」
ホコリや煤で汚れた手には、小さなC型軟球と野球グローブが二つ。油分が抜けきって妙な型が付いたまま固まっているグローブ、凹みが取れツルツルになっているボール、それは確かに私が使っていたものだった。そんなボロボロのグローブを手に年甲斐も無く、にっこりと得意満面に笑う夕につられて私も表情がほころんでしまった。
「ところで夕。甲子園に行ったことあるのか?」
「ないよ」
西の空に夕日が完全に沈み、暗闇の予感が辺りに漂い始めた。セピア色に夕が染まってゆき、思い出と同期した。別れの時間はまだのようだ。
思い出巡りの最後を飾る場所として夕が選んだのは、私達が通った小学校だった。夕刻をとうに過ぎ、鳥の鳴き声も遠くなった時間帯に小学校が開いているはずもない。私達はカチカチのグローブと剥げたボールを、普段職員すら使わない裏門の向こう側に放り投げ、危なっかしく不恰好な動きでもってよじ登った。
「今更だけど、入っていいもんなのかな?」
「大丈夫だよ。ここの警備がザルだってことはちっちゃい頃から知ってたでしょ。もし見つかったとしても、ここの警備員は古川商店の旦那さんだからどうにかなるよ」
そんなもんかなと妙に納得してしまった。いつも行動を伴う説得力というものが夕には付随していることを昔から知ってはいたが、数年ぶりの邂逅を果たした時から、何やらその特性が強引に走らせているきらいがあった。私が訝しんでいると、夕は「おーい、こっちこっちー!」と大手を振って呼びかけると、校庭の方に走って行ってしまった。
小学校は海から少し離れた高台にあり、右手に緑生い茂る山腹が顔を覗かせ、左手には光を吸収する暗黒の海が大きく口を開けている。遠くの方で明滅する灯台の光が私達の在処を示してくれているようであった。周囲に民家や街灯は無く、学校の小さな非常灯のみが明かりの頼りだったが、目が慣れてきたのか夕の顔が薄らぼんやりと見えてきた。
校庭の真ん中に立つ夕の表情は、どこか悲しそうに見えた。しかし、そんな私の考えを読んでか、彼女は大きな下手投げでグローブを投げて寄越し「キャッチボールしよー!」と必要以上に大きな声で叫んだ。
やはりグローブは凝り固まっていて、上手いこと開くことが出来なかったが、不器用なキャッチボールをしている間、私と夕はぽつぽつと語り始めた。
「クリスって今、仕事何やってるの?」
「面白くも真っ当でもないような仕事だよ。強いて挙げるなら人材派遣っぽい商売かな。お前はどうなんだよ、夕」
「アタシはね~、ニート。エヌイーイーティー。またの名を家事手伝い、犬の散歩係、近所のセクシーなお姉さん担当。あーでも最近バイトはじめたんだった。郵便局のお姉さんだ」
「お前、東京の大学出てただろ」
「あっ、知ってるんだ、意外~。てっきり興味ないもんかと思ってた」
「毎年ここには来てるからな、噂くらいは聞く。どっかの商社に勤めたんじゃなかったっけ」
「辞めちゃった。なんか仕事もキツくってしんどいし、彼氏にもフラレちゃったしでもう散々だったから、実家で充電しよーって思ってさ」
「そっか」
夕の放った強めの球を弾いてしまった。転々と転がったくすんだ色をしたボールを掴む。
「クリスって昔っからデカイ体してる割には繊細だよね。さっきもオロオロ心配ばっかりしてたし。ガイジンってもっとこうバーッっとしてるもんじゃないの?」
「夕のガイジンの概念は昔会った俺の親父が元だろう。俺は母さんの子供だし、だいたい親父とは五歳の時から会ってないよっ!」
勢いをつけて夕に投げ返す。だが手元が狂い、球は夕の頭上遥か上を通過してしまう。大暴投だ。「あー! バカー!」と言いながら夕は球を追う。多少悪い気がしたが不思議と頬が緩んでしまった。なんて心地の良い時間なのだろう。普通に話し、普通に笑う。本当の故郷はここにあったのだ。夕が助走をつけて思い切り投げ返すと、またしても球は明後日の方向に飛んでいってしまった。
「クリス性格悪すぎぃ、ちょっと突っ込んだだけでこれじゃアヤにフラれるのも分かるよ」と文句を言いながら近づいてくる。どうやらキャッチボールはお開きのようだ。
「俺がアヤちゃんにフラれたのは性格のせいじゃないぞ」
「じゃあなに? 野球が下手だったから?」
「『もみあげが濃い人は嫌い』だそうだ」
二人して噴き出してしまった。和やかな潮風が海から運ばれてくる。凪いだ大海は母を思わせるほど優しく柔らかで、耳を澄ませば心音のようなさざ波が聞こえてくるような気がした。
穏やかな笑いが一区切りついた頃、夕が「ところで、今日どこ泊まるの?」と聞いてきた。気づいた時にはもう午後九時を回っていたが、私は熱海に着いて早々、宿へのチャックインを済ませていたので特に慌てる必要もなかった。
「宿の心配がないんだったらさ、飲みに行こうよ! いい店があるんだよ!」
「あぁ、そうだな。案内頼むよ夕」
二人で薄暗い街灯の下を来た時よりも柔らかくなったグローブをぶら下げながら歩く。過去の軌跡を辿ることがこんなにも心を落ち着かせるものだとは知らなかった。あの頃と歩く道も人も同じ、ただひとつ違うのはお互いがもう大人であるということだけだった。
「アタシはクリスのもみあげ好きだよ」
夕の声は艷めいた女のものであった。
昼頃、熱海を発った私は夕方から泥のように眠り、目を覚ましたのは朝の陽光がカーテンから漏れだしてくる頃合いであった。これからまた日に目を背ける日常に帰る。しかし、私はもう帰る場所があるのだ。自身を罰するためではなく、自身を癒し、慰めてくれた、私を迎えてくれる人が居る、あの土地が。
鏡に写った顔に疲れは出ているものの、やたらと充実した心境のためか頬を濡らす水に煩わしさを感じない。だが、このまま感慨に耽っている場合ではない、身だしなみを整え日々の生活のために働かなくてはいけないのだ。伸びた髭にクリームを付け、もみあげに気をつけながら剃刀を走らせてゆく。髭を剃った後に響くヒリヒリとした日焼けの痛みも、今は私の活力となりうる。来年もこの痛みを味わうことができたらいい。
しかし、事務所でのリエの一言には肝を冷やされた。妙な勘ぐりをしてないといいのだが。
「あ、クリスさん。首筋になんかできてますよ?」
「蚊に刺されたんだよ」
【後書き】
またまた投稿、江出田 貝菜斎です。
今回もまた文章練習で書いた物語であります。前回の『顔のない太陽』を書き終えた数週間後、友人A君とファミレスで「また三段話でも書くかー」という話になり、「じゃあ今回は前回書いた話の続編にしようぜ!」とか「どうせならキャラ掘り下げてよ」という、凄まじく青春を浪費する会話を楽しみ、お題を与えられて二日ほどでちょろちょろ書いてしまった、青春の垢とも言えるお話です。
ちなみに今回はテーマを『深く』そしてお題は『鏡、海、剃刀、警備員、巣』と定めました。やったーお題が八つから五つに減ってるー!
加えて、前回ではあえて書かなかった会話文というものも入れてみました。
もし読んでいただけたなら、幸いです。どうぞ、よろしくお願い致します。
ではまた~