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おもい、一振り

作者: 京 司

 その日、その会場は、異様な興奮に包まれていた。

 毎年八月第一週に行われる、中学生の剣道大会。市民体育館の大アリーナを借り切って行われるそれは、近郊で最も大きな中学の剣道大会であると同時に、ほとんどの学校の三年生にとって引退試合でもあった。だからこそ参加している選手の力の入れ具合、気合いの入り具合共に並ではなく、毎年それなりの盛り上がりを見せる。

 しかし剣道は競技者人口が減少傾向にある、どちらかと言えば下火・マイナーよりのスポーツである。普通なら「異様な」というほどの盛り上がりを見せることはまずない。にもかかわらず、その時その場にいた誰もが興奮せずにいられないほど会場が熱気に包まれていたのは、その日会場にいたすべての人が、後に伝説として永く語り継がれることになる試合の目撃者となったからだった。




「……なぁ」

「なんだよ」

「今、延長何回目だ……?」

「知らねえよ、数えてねえよ」

 ひそひそと囁きを交わすチームメイト達。


「十七回目までは覚えてるんだけど……」

「そこまででも一時間近く試合続けてる計算よ――?」

「もうあんなにふらふらだよ……?」

「――あれじゃ有効打突になんないわよね」

 たまたま見ていた他校の生徒達。


「わしゃそれなりに長いこと剣道やってきたが、こんなのは初めて見るわい」

「私もです……。ですが、止めなくていいんでしょうか? これでは他の試合が……」

「そうじゃのう……と言いたいとこじゃが。先生、あんたそんなつまらん真似したいか?」

「……そうですね。正直、私も見てみたいです。どういう結果が待っているのか……」

 審判として参加していた指導者と顧問。


 今日この場に居合わせた誰もが思った。

 ――こんなスゴイモノは見たことがない。だから、もっと見てみたい――




 ――なんなんだ、コイツは!?

 由士は声には出さず、胸の中で吐き捨てた。

 声を出さないのは、今が試合中であるということよりも、息が上がっていて口を開くのすら辛くなっているからだ。

 それでも疲れを気合いで補おうと、腹の底から声を絞り出す。

「ぃぃいいえええええいぃぃぃぃぃ!」

「ぁぁあああああぁぁぁぁぁっ!」

 自己叱咤と牽制を兼ねた雄叫びを上げても、怯むことなく、逆に風に煽られて猛る炎のように、声をぶつけ返してくる対戦相手。

 隙を探ろう、あるいは作ろうと、距離を保ったまま円を描くように左へ移動する。移動しながらも、頭の中では相手に対する疑問が浮かび続けていた。

 ――暑中稽古のときも寒稽古のときも県合宿のときも

 ――顔は合わせたかもしんないがほとんど覚えちゃいねえ

 ――こんだけ強いヤツなら忘れたりしないハズだ

 由士の意識が逸れたのに気付いたのか、仕掛けてくる相手。

「はあぁぁぁぁ!」

 掛け声と共に竹刀を振りかぶる。見方によっては、隙だらけでこちらから攻める機会でもあるのだが、相手から意識を逸らしていた由士は受けに回るしかなかった。

 こちらも竹刀を持ち上げ、おそらく打ち込んでくるであろうと思われる頭を守る。

 が。

 ――何か……違う!?

 一足一刀の間合いよりさらに一歩遠い距離。そこから面を打つのなら、踏み込みの前に一歩刻むか、もっと大きく踏み込まなければならないはず。

 そのことに気付いた由士が慌てて竹刀から右手を離すのと、相手の竹刀が振り下ろされたのは、ほぼ同時だった。

「こてぇぇぇぇぇ!」

 裂帛の気合いと共に振るわれた竹刀は、由士の面金すれすれを掠めていった。気付くのが一瞬遅ければ、ひっかかって小手を取られていたかもしれない。

「時間です」

「そこまで!」

 計時係の声に続く、主審の指示。

 息を吐いて肩の力を抜く。たかだか十数秒かもしれないが、それでも貴重な休憩時間であることに変わりはない。由士は気持ちゆっくりと開始線まで移動した。




 ――しくじったかー

 振り下ろした竹刀が空振りしたのを見て、巽は心の中で舌打ちする。

 たまたま感じることができた相手の気の緩みをついて仕掛けはしたが、練習したわけではない、技と呼べない思い付きのような打ち込みでは一本を奪うことはできなかった。

 ――まーそもそも実力が違うんだからなー

 向こうはまだ体力に余裕があるようだが、巽はもう、かなり、いっぱいいっぱいだった。それでもなんとかやっていけているのは、何度目かの延長に入ったときから向こうにさっきのような気の緩みが現れ始めたからにすぎない。

 ――延長に持ち込んだから隙が出てきた、っていうんなら、ちょっとは胸張ってもいいかねー

 もっとも今が何度目の延長なのか巽は覚えていないのだが。

「そこまで!」

 疲れに侵されて働かなくなりつつある頭に飛び込んでくる主審の声。それを聞いて半ば自動的に、開始線まで戻ろうとする。

 と、足元で物音がした。視線を下ろすと、右手で下げていたはずの自分の竹刀が転がっている。

 ――マズいかもなあこりゃー

 腰を下ろしてしまうと立てなくなりそうな予感がしたので、上半身を屈めて手を伸ばす。が、結局防具の重さに引きずられて転んでしまった。わりと派手な物音が立つ。

「お、おい! 大丈夫かねきみ!?」

「え、ええ、まぁ、なんとか……」

 主審の慌てたような声に答え、転がった竹刀を握りなおす。

 足はまるで、生まれたての仔鹿。膝が笑い出しそうだ。

 手は、限界まで懸垂を繰り返した後のよう。肩を上げるのすら重労働に感じる。

 ――もたついてる振りして休んじまうかー

 四つんばいの格好になり、いかにも息が切れてますといった感じに肩で息をする。……ふりをする。

 ほんの数秒、目を閉じ、口から吸い込んだ酸素が全身に行き渡るイメージを頭に浮かべる。それだけで、足の震えがとりあえず止まってくれた。

「……立てるかね?」

「立てます。やれます。……やります」

 最後の言葉は力強く。まだやれる、終わりじゃないという意思を込めて。

 ――こんなに楽しいのは初めてなんだ。途中で投げ出したりなんてできるかー……!




 その試合は、午後の個人戦、一回戦の第四試合。

 選手は共に中学三年。午前の団体戦が終わった今となっては、負けた試合がそのまま引退試合となってしまう、そんな状況だった。

 赤・安東由士。小学校から剣道に励み、現在では部長を任されている、市内どころか県でも有数の実力者。

 白・天村巽。剣道経験は中学から。午前の団体戦では大将を務めたが、実力者と言われるほどではない。

 そんな組み合わせだったから、二人、あるいは安東のことを知っている者には「安東の完勝」という結果しか浮かばなかった。安東のチームメイトに至っては、何分で決まるか、はたまた何秒か、なんて賭けをしていた者もいる。

 よくある、強いヤツがたいしたことないヤツをあっさり片付ける試合……になるはずだった。


「めえぇぇぇぇぇんん!」

 実際、主審の「始め!」の声が響いているうちに安東が放った面打ちは、主審と二人の副審に迷うことなく赤旗を挙げさせた。

「面あり一本!」

 一本、の宣言に動きを止め、開始位置に戻る安東と天村。この時点で二人の試合を見ていたのはそれぞれのチームメイト数人だけだったが、その誰もが同じ結末を思い描いていた。

 またすぐに安東が一本決めて終わりだな――と。


 その予想、あるいは期待は、すぐに裏切られることになる。


 二本目の最初の一撃にも、安東は面を選んだ。

 天村の竹刀の切っ先が少し下がっていたのもあるが、一番の理由は自分が最も得意な――何度も何度も、意識しなくても身体が動くようになるまで練習を繰り返した――技を選んだ、それだけのことだった。

 この瞬間、安東と天村の試合を見ている誰もが、当事者の安東すらもが、「これで終わったな」と思った。

 だから、安東の竹刀が空を切り、その右手を天村の竹刀が叩いて音を響かせても、三人の審判以外の観客は状況を理解できなかった。




「こぉてえぇぇぇぇっ!」

 打ち込みと同時に声を上げ、安東の左側を抜ける巽。すれ違ってから六歩進み、振り返って竹刀を構え直す。……さっきとは違う、切っ先を相手の喉に向けた、正しい形の正眼の構えで。

「小手あり一本!」

 確認するまでもなく、主審の声が手ごたえ通りの現実を教えてくれた。

 ――強引に打ち込んだけど、なんとかなったなー

 一本目と違い、二本目の安東の面は巽の誘いだった。

 わざと切っ先を下げ、面があいているように見せかけて、小手又は胴を狙う。一度面を取られているから上手くいくとだろうと踏んでいたが、こうして結果が出るとやはり嬉しい。

 しかも今の奇襲・引っかけを警戒してか、安東の動きが消極的になる。巽にとっては願ってもない流れだ。

 最初の一本は取られたが、巽も取り返して再び並ぶことはできた。

 まだ負けてない。まだ、この試合を楽しむことができる。そう自分に言い聞かせる。

 ――んじゃ次は前に出ようかねーっ!




 観客の予想を裏切り波乱の幕開けとなった安東と天村の試合。

 その序盤は安東の独壇場となった。

 一本先取したのにすぐ取り返されたことで火が点いたのか、最初に一本取ったときの正確さ、丁寧さは欠片も感じられない猛打を重ねる。ここで勝負が決まってもおかしくないほど一方的な流れだったが、荒くなった安東の打ち込みは丁寧さ・精確性を欠いてしまい、審判の旗を挙げさせることが出来ない。

 ぱっと見にはいつ安東が二本目を取ってもおかしくないような光景だったが、観客の内の何人か――特に実力の高い者、あるいは高位の指導者たち――は胸に疑問を抱き始めていた。


『こんなに打ち込んでも一本にならないのはおかしいんじゃないか?』……と。


 そして、状況が変わり始める。

 打たれるのを防ぐだけだった天村が、やがて攻めの間を衝いて打ち返し始めた。それに応じるように、安東も竹刀の速度を上げる。すると今度は天村が手数を増やす。次はまた安東が……と、一方的だった流れが押し戻され、真っ向から互角にぶつかり合い、相手を飲み込もうと、勢いと激しさを増してゆく。

「いやあぁぁぁぁぁ!」

「おおおおぉぉぉぉ!」

 踏み込みながら打ち、鍔迫りでぶつかり、引き際でも狙う。

 あるいは回り込み、打ち抜き、振り返る。

 そうした動きこそあるものの、二人の戦いはほとんど試合場の中心から動いていなかった。ボクシングでいうところの、足を止めての打撃戦に近いものがあるかもしれない。

 隙を探して、もしくは作るために、竹刀が揺れる。奔る。

 床板に叩きつけられる踏み込みの音よりも、互いの防具を打つ竹刀の音の方が大きく響く。その物音につられてか、最初は二人のチームメイトしかいなかった観客が、だんだんと増え始めた。

 そうして集まった人々は、二人の気迫と試合の迫力に飲み込まれ、足を止めて見入る。

 主審の「止め」の声に一旦は中断するが、「始め!」と試合が再開されれば安東も天村も再びがむしゃらに突進して竹刀を振るう。

 そんな風に延長を何度も繰り返していると、やがて打ち込みの音が少なくなっていった。

 代わりに、一回一回の打ち込みが洗練されてゆく。

 手数で押すのではなく、慎重に狙いを定め、隙あらば研ぎ澄ました剣戟を正確に打ち放つ。そういう内容へ変わっていった。

 ……延長の連続による体力の消耗で激しい動きを続けられなくなった、という一面も、理由ではあるだろうが。

 もともと実力のある安東はもちろん、明らかに劣ると見られていた天村も、いつの間にか安東に負けてはいない――どころか、脅かすほどの竹刀捌き、足運びを見せるようになっていた。

 実戦での数分は、練習による経験の何十倍にも匹敵するという。

 今日この会場で二人の試合を見ている人々は、そのことを自身の目でもって知った。

 最初は打ち込みの激しさに誘われて寄ってきた人々が、今はかけひきと技術と工夫にため息をもらす。

 既に他の試合はすべて終わり、この試合が終わらなければ大会が進行しないという状況にまでなっていた。

 それでも、誰も止めようとしない。

 止められない。

 止めることは――できない。




 ――あー楽しー!

 巽は今、剣道を始めてから一番楽しい時間を過ごしている。

 重い防具をつけて走ったのも、手にマメができるほど素振りを繰り返したのも、すべては今日この日、この瞬間のためだったのだと、理由も無く確信できた。

 もう体力は尽きた。何度もそう思ったが、

『もっと楽しみたい』

 そう考えるだけで不思議と力が湧いてくる感じがした。

 ――まだできる、もっとできる、いくらでもー!




 ――いい加減にしろよ!

 由士はこれまでにないほど苛立っていた。

 狭い街で、おそらくは幾度と無くやりあってきた相手。

 練習でも、試合でも、まるで苦戦することなく叩きのめしてきた弱いヤツ。

 そう思っていた。

 ところが。

 一本取ったのに取り返され。

 連続で打ち込んでも捌かれ。

 一撃のかけひきすらも追い付かれ。

 ――なんでこんな雑魚にてこずらなきゃなんないんだ!




 誰も予想しなかった、互角の勝負――あるいは、誰も見たことの無い戦い――を繰り広げる二人の少年。

 いや、二人の剣士。

『このまま勝負はつかないのではないか?』

『できるなら続く限りこの試合を見ていたい!』

 見る者にそう思わせるほどの、おそらくは名勝負であったが、幕切れは唐突に訪れた。

 勝利の女神を振り向かせたのは、たぶん、実力でも、運でもなく。

 ――この試合に注いだ、ただただ純粋で、ひたむきな、熱い<想い>の差。


 強敵と戦い競う喜びに心を躍らせた天村巽と


 格下と見下して苛立ちに焦った安東由士の


 意思の差が、勝負の明暗を分けたのだろう。




 竹刀を、振りかぶる。

 振りかぶるということはつまり、今から打ち込むと相手に教えるということ。

 その不利を承知の上で、竹刀を頭上でぴたりと止める。

 全身の力を、抜く。必要最低限……身体を支える足裏と竹刀を握る両掌にだけ、感覚を残す。

 あとは、想い描くだけ。

 自分の限界を超えた一撃を。最高の、一振りを――!




 竹刀の先と相手の頭とを繋ぐ、自分にだけ見える線を描く。

 その線に沿って、面に打ち込む竹刀の動きを想像する。

 相手の身体の動きに目を凝らして、次の動作を予測する。

 どんな動きにも対応できるよう、緊張を保ちながらも余裕のある心境目指して、苛立ちを沈めようとする。

 あとは、頭の中の絵の通りに竹刀を動かすだけ――!




 全身全霊を込めて、賭けて、ただ振り下ろした。




 苛立ちを殺すように、無我夢中で突き抜いた。




 竹刀と竹刀が交差した、その瞬間。

 この会場にいて、二人の試合をすぐ傍で見ていた何人かの高段者……剣道の高い実力を持った人々は、見届けることができた。


 上から振り下ろされる竹刀が、下から伸び上がる竹刀の軌道を逸らし、狙った位置から外した瞬間を。


「切り落とし」と呼ばれる技術が、受けと攻めの手順が完全に決まっている型の中ではなく、実際の真剣勝負の場で使われた光景を。




『めぇぇえええええんっっっっっっっっっっっ!!!!!』

 天村と安東の声が会場に響き渡る。

 僅かに遅れて、竹刀が防具を叩く音一つ。

 互いに相手の左側を抜け、振り返って正眼に竹刀を構えた。

 振り下ろされた竹刀と、突き上げられた竹刀。同じ面に対する打ち込みではあったが、その動きはまったく異なるものだった。


 安東が使ったのは、相手の頭の上を突くように竹刀を持ち上げ、最小限の動きで防具を叩く「小さく面」と呼ばれる面打ち。その動きは獲物を狙う猛禽のように鋭かった。観客に、打たれた側に、いつ竹刀が防具に触れたのか理解させないほど必要最低限の動きで打ち込まれた一撃。

 対して巽が放ったのは一般に「大きく面」と呼ばれる、振り上げるという予備動作の分実戦には向かない、剣道経験者なら誰もがそう認識している打ち込み。けれど今、巽は、そんな常識論を吹き飛ばす、この試合を見ている全ての人の心に残るような、理想の一撃だとさえ思わせるほどに、身体と竹刀を、動かし操って魅せた。


 どちらの動きも、誰が見ても綺麗だと思わせる、手本として示せそうな、美しい面への打ち込みだった。

 二人の副審が、それぞれ赤と白の旗をかざす。

 そして、主審がゆっくりと旗を挙げた――……。




「ほんとによかったのかよ?」

「ん? なにがー?」

「ばっかオマエ、試合だよ試合。せっかく」

「いーんだよ」

 ぶっきらぼうに返し、続きを胸の内で呟く。

 もう二度と、あんな心躍る、楽しい時間は無いだろうから――、と。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 若い剣士の輝きを、息遣いを、熱を、心を、丁寧に、見事に文章にし、魅せてくれた。 見事です。 [一言] 中学生の剣道大会。その個人戦の一回戦。 決勝戦でも、準決勝でも、準々決勝ですらない。…
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