【フィーネの独白】
――それはエヴァリーヌ王女一行がグリーデント王国を訪問する少し前のこと。
王女付きの侍女、フィーネは語る。口元に微笑を張り付けたまま。
***
ようこそ、グレイ・ケイシュ王国王城へ。
国王陛下にご用ですか? 生憎ですが陛下との面会は難しいと思われます。
代わりと言ってはなんですが、少し私の身の上話でも聞いて頂けませんか?
ああ、申し遅れました。私の名はフィーネ・リミネンス。これでも、伯爵家の生まれなんですよ。
あら、白髪に眼帯の気狂い女がそんなこと言っても信じられないって顔ですね。くすくす。
確かに今ではこんな身なりですが……昔は違ったんですよ。
髪の色だって多くの貴族がそうであるように黒でした。王女様ほどは美しくありませんでしたがね。
……そう、どこにでもいる普通の貴族の娘でした。伯爵家の四姉妹の末娘。優秀な姉達の陰に隠れて生きてきた、内気な少女。
今の様子からは想像出来ない? その言葉、褒め言葉として受け取りましょう。くすくす。
そんな私は、僅かばかりの短剣の腕を買われて、エヴァリーヌ王女の元で侍女として働くこととなったのです。
***
「わぁ……! ここがお城……!」
大きな荷物を携えた黒髪の少女――フィーネは、そう感嘆の声を上げずにはいられなかった。
……いけない! 城に仕える侍女としてみっともない言動は慎まなきゃ。
そう思って慌てて口を押さえるも、期待に膨らむ胸は抑えられない。
伯爵家の令嬢である彼女は、一般庶民からすればよっぽど立派な屋敷で生活してきた。そんな彼女ですら感動を隠せないほど、王城は威風堂々と佇んでいた。
威厳のある灰色の城壁。広い城内を行きかう貴族やその従者達。そのすべてが目新しく、フィーネは瞳を輝かせた。
自分は今日からここで働く。そう思えば自然に背筋が伸び、身が引き締まった。
新しい生活に対する不安。だが、ここで新しい何かに出会えるのではないかという期待もあった。
優秀な三人の姉に比べ、特に賢い訳でもなければ、何かに才能が有るわけでも、人に慕われる性格でもない自分。秀でているのは幼い頃より訓練した短剣の腕のみ。そんな自分自身にずっと劣等感を持ち続けていた。
……ここでなら私は変われるのかもしれない。
新しい景色に、匂いにそう思いながら、フィーネの新しい生活は始まったのだ。
王城での生活は驚きと苦労の連続だった。
最初に与えられる仕事は、地味で肉体的に辛いものばかりだった。冷たい水で洗濯をしたり、長く使われていない部屋を掃除したりといった慣れない仕事ばかりで、仕事が終わるのも夜が更けてからで、毎日疲労困憊だった。また、もともとの内気な性格のせいで周りと打ち解けるのも時間がかかった。
それでも何とか仕事を覚え、他の侍女達とも話が出来るようになっていった。
最も印象深かったことは、初めてエヴァリーヌ王女を見たときのことだ。
同性であることも忘れて、見とれてしまった。噂で才色兼備の美姫であることは聞いていたが、彼女はフィーネの想像以上に美しかった。
「ああ、私もあれくらいなら殿方に……」
隣にいた仲の良い侍女が、そう言いながら自分の胸を見下ろした。フィーネはやや赤面しながら、それを窘めたのだった。
やがてフィーネはエヴァリーヌ王女付きの侍女となる。
特に仕事を優秀にこなす訳でもなければ大きな後ろ立てのない彼女にとって、これは破格の出世といえた。しかもこれは国王陛下直々の命によるものなのだ。
当然フィーネは諸手を上げて喜んだのだが、友人の侍女は不安そうな顔を陰らせた。
「私は不安だな。国王陛下はきっとあなたの短剣の腕を見込まれて、今回のことを決めたに違いないわ。有事の際に貴女を使えるように……。もし貴女が戦場で戦うようなことがあったらと思うと、心配で心配で……」
――フィーネもこの出世が、自分の短剣の腕前を評価されてのことだということは自分で気づいていた。
だがフィーネは、それは『国王陛下が王女様の身を案じてのことに違いない』と肯定的に考えていた。
フィーネが生まれてから今日まで、グレイ・ケイシュに戦争と呼べるような争いがなかったため、友人の言うようなことまでは思い及ばなかったのだ。またその言葉を聞いても、なかなか実感出来なかった。
家族からの愛情を一身に受けてきた少女は、世界を疑うということを知らない。だから。
……せっかくいただいた仕事ですもの。
何の迷いもなく、彼女は侍女としての勤めを果たすことを改めて誓ったのだった。
また新たに始まった生活は、とりたてて大きな障害もなく順調に進んだ。
エヴァリーヌ王女は侍女達に愛想を振り撒くことはなかったが、必要以上に厳しく当たることも無かった。フィーネも、何度か彼女の前で失敗をしてしまったのだが、きつく叱られずに済んだ。彼女は感情に任せて物は言わない、度量が大きい人なのだ。
だが、例外はある。それは王女の護衛の騎士――シャムリーだ。王女は彼に対してのみ、酷い態度をとった。
罵るだけではない。無茶な命令をしたり、叱ったり、普段の彼女からは想像出来ない態度をとるのだ。
シャムリーはというと、何を言われても眉をひそめることすらしない。慣れてしまったのか、それとも彼の元来の性格からなのかすら、フィーネには分からなかった。
しかし、立場上どうすることも出来ないフィーネは、胸の痛みを感じながらも、ただ見ていることしか許されなかった。
その日も同じだった。
「近付かないで。外でいなさい」
あまりに唐突で、理不尽なエヴァリーヌの言葉。
シャムリーは反論することも無く、ただ頭を下げて部屋を出た。そして、中庭で一人で佇み続けた。
フィーネは、ただそれを見ていた。だが彼にはどうすることも出来ない。
やがて高かった日は沈み、夜が訪れた。さらに翌日が訪れようと、シャムリーが室内に足を踏み入れることは無かった。
翌日は朝から雨だった。
物言わず雨に打ち付けられるシャムリーを見て、フィーネはついにエヴァリーヌに進言しようとした。
エヴァリーヌの部屋からは中庭の様子が見える。おそらく彼女も内心では心を痛めているはずだ。しかし。
「恐れ入りますがエヴァリーヌ王女。シャムリー様は……」
シャムリーの名を聞いた瞬間、王女の形相が変わった。普段の落ち着いた物腰はどこへやら、冷たくフィーネを睨みつける。
思わずフィーネは怯む。蛇に睨まれた蛙のように、言葉を続けることが出来なくなった。
一度はエヴァリーヌによって抑えつけられたものの、シャムリーを案じる気持ちが消えることはなかった。お昼頃、まだ雨が降り止まないにも関わらず、シャムリーはその場を動こうとしなかった。
そして、遂にフィーネは意を決する。
彼女は傘を抱えて、シャムリーの元へ駆け寄った。
それは内気なフィーネにとっては最大級の勇気だった。このことがエヴァリーヌに知れたらどうなるか、考えなかった訳では無い。
だが、彼女は動いた。
それは小さな正義心からか。それとも、罵倒されながらも忠義を尽くすシャムリーに心のどこかで惹かれていたからか。
彼女の中には答えはなかったが、それでも彼女は動いた。
「……シャムリー様。中にお入り下さい。お体を壊してしまいます」
雨のせいで視界が悪い。シャムリーの体が冷たくなっていることは分かった。
フィーネはシャムリーの顔から目を離さない。だが、シャムリーはフィーネのほうを見ずに、掠れた声で答えた。
「エヴァリーヌ王女がそうおっしゃったのですか」
「いえ……ですが……!」
「では、そうする訳にはいきません」
「そんな、あまりにも理不尽です……! シャムリー様は立派な騎士様です!」
「……エヴァリーヌ王女に相応しい騎士ではありません」
そういう彼の横顔には卑屈さより哀愁を感じる。フィーネは思わず声を張った。
「そんなことないです!」
確かにエヴァリーヌ王女は言った。
シャムリーを無能だと。何度も、繰り返し。
だが、フィーネはそれが嘘であることを知っている。
シャムリーの実力は確かだ。他の騎士達は、彼の剣に及ぶ者はいない。噂でそう聞いていたし、フィーネはエヴァリーヌ王女付きの侍女になる前から、一人剣を振るうシャムリーの姿をたびたび目撃していた。
フィーネはシャムリーが最高の騎士であり、剣士であることを疑わない。彼は実力があり、努力を怠らず、騎士の精神を持ち合わせた素晴らしい騎士だ。
「……せめて雨の当たらないところへ。それならエヴァリーヌ王女のお言葉にも反しません」
その後も石のように動かないシャムリーを何とか説得し、屋根のあるところまで連れてきた。
長い間冷たい雨に打ち付けられ続けた彼の体は、既に芯まで冷えきっていた。
それでも、雨の中にいることを思えばいくらかましだろうとフィーネは胸を撫で下ろした。
二人が屋根の下に入るのを見計らったかのように、一人の侍女がやって来た。彼女もまた、エヴァリーヌ王女付きの侍女である。
彼女は機械的に、エヴァリーヌからの伝言を伝える。
入室が許可されました、と――
エヴァリーヌ王女は遅めの昼食をとっていた。
テーブルには彩り豊かな料理が並べられている。王女は少食であるため一品一品の量は少なかったが、種類は多かった。
室内に入ってきたフィーネとシャムリーを見て、一瞬手を止める。そして、睨みつけるように二人を見て言った。
「シャムリー、あなたはどうしてここにいるの?」
……エヴァリーヌ王女が言ったからじゃないですか!
フィーネはそう言いたかったが、口から出る前に言葉を飲みこんだ。表立って王女に反抗する勇気を彼女は持ち合わせていなかった。
シャムリーもまたなにも言わなかった。
エヴァリーヌは漆黒の瞳で、シャムリーを射抜くように睨みながら、さらに続けた。
「確かに入室は許可した。でもそれは入室しろと言ったのではないわ。自分がそうするに値する人間だと思ったならそうしろという意味よ。その程度も理解出来なかったのかしら」
「申し訳ございません……」
王女の棘のある言葉の羅列に、シャムリーは頭を下げた。やはり表情には変化は無かったが、その胸の内を思うとフィーネは居てもたっても居られなくない。
シャムリーだって人間らしい感情がないのではない。彼のことを機械のようだという輩もいたが、フィーネはそんなことはないと思っていた。
彼は何か強い意思の元で、剣を握っている。フィーネにはその『何か』が何かまでは分からなかったが、確かにそれを感じとっていたのだ。
だから、
「……お止めください!」
言葉は口から自然に溢れていた。
王女の鋭い眼差しがフィーネを刺した。
だが、今度は怯まい。言葉を殺してしまいそうになるのを、必死で奮いたたせる。そして言葉を続ける。
「シャムリー様は素晴らしい騎士です! それなのにどうしてエヴァリーヌ様はそんなに酷いことばかりおっしゃるのですか……!」
自然と語尾が震えた。鼓動は爆発しそうなぐらい大きく高鳴り、額には汗が浮かんでいた。だが、フィーネの心中には達成感すらあった。
自分は正しいことを貫いたのだ。
そしてシャムリーの味方として、勇気を持ってエヴァリーヌ王女に立ち向かった。思うと、自然に気持ちは高揚した。弱い自分が強くなれた気がしたのだ。
エヴァリーヌはすぐには何も言わなかった。ただいっそう顔をしかめ、怒りを持ってフィーネを睨み続ける。
だがその瞳の色には、怒り以外の感情――苦しみとも悲しみとも言えないものがある気がした。
やがてエヴァリーヌは静かな声でいった。
「……それは自分の身をわきまえた上での発言かしら。覚悟の上で、そう言ったの?」
それくらいのことでは、フィーネの意思は揺らがない。
「もちろんでございます」
「……その言葉、二言はないわね」
「はい」
エヴァリーヌは立ち上がり、フィーネと対峙した。
「……そう」
軽い言葉とは裏腹、氷のように冷たい表情だ。そして、
「シャムリー」
そう呼ぶと、小さく彼を手招くような動作をした。
「はい」
それに応え、シャムリーは数歩前に出る。
……え?
突然で何がなにか分からないフィーネは、混乱しながら、ただ事の成り行きを見ている。
エヴァリーヌはシャムリーの耳元で口を動かす。それはフィーネの耳には届かなかった。
シャムリーの耳には届いたらしく、首肯すると、何故かテーブルのほうを向いた。
なんのためなのか、フィーネにも分からなかったが、自然に不安で体が強張る。
そして、シャムリーが身を翻し、フィーネと面と向かった瞬間、その不安は明確な恐怖へと形を変えた。
彼の手に握られていたのは、銀製のナイフ。
「シャムリーさ、ま……?」
フィーネのすがるように弱々しい声に、彼は何の反応も示さ無かった。
そして、ゆらりと一歩前へ進む。
その様子に、フィーネは思わず後ずさったが、すぐ後ろにあった壁にぶつかった。
「あ……」
逃げ場は残されていない。
壁に背中をつけたフィーネの震える肩をガシリとシャムリーが掴んだ。
その力の強さに、フィーネは身動きをとれない。仮にフィーネの腕力がもっと強かったとしても、恐怖で逃げることが出来なかっただろう。
ガクガクと身を震わせる彼女を哀れむこともなく、シャムリーは――
「ひっ、いやあぁぁあぁあ!!」
その銀のナイフを、彼女の左目に突き立てた。
***
そうして私は、左目の光を失いました。それからです。私が今の私になったのは。
……この話を聞いてどう思いましたか。
エヴァリーヌ王女とシャムリー様のことですよ。
暴君とそれに付き従う冷酷な騎士だと思いましたか? 狂っていると思いましたか?
……え? そんなことをきくってことは、お前は何か別の考えがあるのかって?
あるから、まだ侍女をやってるんです。くすくす。
もちろん、片目を失ったことが苦痛でない訳ではありません。
貴方なら分かって下さるでしょう? でも、慣れれば大したことありませんよ。
……だから、そんなに泣き叫ばないで下さい。
この程度、まだまだ拷問とも言わないぐらいですよ。グリーデント王国には『魔女』と呼ばれる残忍な拷問師がいるらしいです。それに比べたら、ね。
片目くらい、さして生活に不便はありませんから。くすくす。
いえ。貴方の場合、普通の生活に戻ることなんてないですから。
王族の命を狙い、城に侵入した者が無事に帰れるわけないじゃないですか。
残りの片方の目も潰します。でも心配なんかいらないんですよ? すぐに聞くことも感じることも出来なくなりますから……!
……さっきから叫んでいるのは家族の名前ですか。
残念ですねぇ。昔の私なら、もしかしたら見逃していたかもしれないのに。
くすくす。
くすくす。