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episode3 王女と騎士

 ミルシーはグリーデント王城の一室にいた。

 そこは彼女が寝泊りしている部屋ではあったが、彼女の自室ではない。来客用の部屋の一室だった。王族の血を引きながらもレイリン王妃の親戚として王城に滞在している彼女は、客人として扱われていた。

 当のミルシーはというと、物憂げ、もしくは寂しそうに、あるいはつまらなさそうとも見える顔をしていた。

 大きな椅子に小さな身を投げ出すようにして腰かけるミルシー。窓越しに見上げた空は皮肉のように晴れあがっていた。

「退屈なら、少し外を歩いてみようよ」

 そんな彼女に見かねて、壁際で控えていたクロードは提案した。

「その、僕でよければ、どこでもついていくし……」

 言っている途中で告白のような言葉に思えてきて、恥ずかしくなりながら最後まで言い切った。しかし――

「結構ですわ」

 ミルシーは、相も変わらず、晴れ渡る空とは真逆の表情できっぱり断った。こちらをチラッとも見ない態度に、クロードまで表情を曇らせたことは言うまでもない。

「お兄様にお会いできないのでしたら……部屋を出る意味なんてありませんもの」

「仕方ないよ。今日は大切なお客様が来るらしいから、忙しいんだよ」

「そうでしたわね。そのお客様、女性だったらどういたしましょうか……」

 ……どうするつもりなんだろう。

 真剣に悩む姿に、クロードも心配になる。

「本日のご客人はエヴァリーヌ王女だな」

 そんな声が聞こえたときには、既に窓は開かれており、外から室内に一人の男が顔を出していた。

 人懐っこい顔に色素の薄い金色の髪の青年だった。ミルシーはその男を使用人でジュリアの友人の一人だったと記憶している。

 悪い人間では無いとは思ってはいたが、ミルシーは彼のことがあまり好きではなかった。だれかれ構わず気軽に話しかける彼は、ミルシーだけでなくジュリアにまで馴れ馴れしく話しかけるのだ。使用人でありながらジュリアに敬語も使わず、そればかりか呼び捨てにする彼を妬み半分に厭わしく感じていた。

 その上、度々やけに自分に構ってくるような気がする。どういうつもりかは分からなかったが、ミルシーにとっては煩わしいだけだった。

「よぉ、今日も可愛いな。うん、本当に可愛い」

 片手をひょいと上げ軽い調子でいうビッキー。

 いつものミルシーなら、言葉遣いと行動を注意するか、無視を決め込むのだが――今日ばかりはビッキーの話が気になった。

「エヴァリーヌ王女……どんな方ですの?」

 長らく城外で生活していたため、各国の情勢や王族には疎いらしい。

「グリーデント王国の南西に位置する隣国――グレイ・ケイシュの第一王女様だよ。歳は十八だったかな……。容姿は麗しく、頭脳明晰。グレイ・ケイシュ国内ではなかなか人気があるみたいだな」

「……そんな方がお兄さまに……!」

 ジュリアは客人として迎い入れるだけなのだが、ミルシーの脳裏には様々な不安がよぎる。

「エヴァリーヌ王女は独身……?」

「ああ。グレイ・ケイシュの第一王女だからな。婚姻も簡単には決められないんだろうよ」

「まさかジュリアお兄様と婚約を……」

 ミルシーはこの世の終わりだというような顔だ。そんな表情から、クロードは彼女の思いを読み取った。

「ジュリア王女のことは『王女』っていう認識だと思うけど」

 彼の言う通りで、ジュリアの身の上ことは城内でも一部の者しか知らないことだ。当然、他国のものが知るはずも無ければ、知られる訳にもいかない。

 加えて言えば、ミルシーの本当の身の上についても同様である。今日ミルシーが必要以上に部屋を出ないよう言われていたのは、他国に彼女のことを知られないようにするため。王妃の親戚という偽りの身分を、万が一他国に怪しまれたら厄介だからである。

「そう、ですわね……」

 胸を撫で下ろしたミルシーは、自分の手を見た。

 話に動揺していたため気付かなかったが――ミルシーの手は、嬉しそうに笑うビッキーにしっかり握られている。

 気付いた瞬間、ミルシーの動きは完全に止まった。そして。

「ありがとうございますわ、ビッキー。ぜひお礼がしたいですわ。目を閉じて下さいませ」

 恐ろしいほど平坦な調子でそう言う。

「そんな、ミルシー……! 大胆な……」

 一方のビッキーはそうはいいながらも、目尻が下がった目を閉じた。

 笑顔――といっても目は笑っていない――を浮かべたミルシーは、なんの躊躇いもなく、両開きの窓を閉める。


 窓に挟まったビッキーがその後どうなったかは語るまでもない。




「む? 今でかい蛙が潰れたような音がしたような……気のせいか?」

 自室で着替えを済ませたジュリアは、首をひねった。

「きっとビッキーさんじゃないかな」

「成程じゃあ、まあいいか」

 マーヤの一言に納得すると、ジュリアは最後にもう一度鏡を覗いた。

 今日は他国からの貴賓を迎えるということもあり、深緑を基調とした正装をしていた。髪はエミリアにいつもより時間をかけて整えてもらい、丹念に化粧が施されている。あまりに似合っているため、笑ってしまいそうになる。

「ところで、お客さんって誰?」

 マーヤの今更な質問に、ジュリアは呆れたように教える。

「グレイ・ケイシュ王国のエヴァリーヌ王女だよ」

「へ?」

 マーヤは虚を突かれたような声をあげた。

「どうかしたか、マーヤ?」

「ううん、ちょっと知ってる人だっただけ」

「そうなのか? 俺は会ったことが無いんだが。なんでも急に来国することになってな。今ロエル兄さんいないから、俺が挨拶しなきゃいけないんだ」

 いつもなら後ろで笑ってりゃいいんだが、とジュリアは付け足す。

「あれ、ロエル様って今グレイ・ケイシュに視察に行ってるんだよね」

「そう。両国の第一王女と第一王子が丁度入れ違いになってるってわけだ。こんなことも珍しいな」


 ロエルは、グレイ・ケイシュ王国の進んだ工業技術を視察に行っている。何年か前から、グレイ・ケイシュに視察団の受け入れを要求し続けてきたが、なかなか叶わなかった。

 だが、やっと視察を受け入れられることとなった。よって簡単に日時はずらせない。

 一方のエヴァリーヌ王女は、自分の母親――つまり王妃の療養地の様子を見るためにグリーデント王国を訪れる。

 グリーデント王国はグレイ・ケイシュに比べ、過ごしやすい気候だ。また大陸の中でも比較的治安がいい。よって他国の貴族がグリーデント国内で療養したりや余暇を楽しむことは珍しくないことだった。

 グレイ・ケイシュ国の王妃が国内に滞在するとなると、それは両国の友好の証となる。おそらくエヴァリーヌ王女の来国にもその意味が含まれているのだろう。


 大陸の一、二番の大国。今までその仲は決して良好とは言えなかった。工業技術の発展で人口が増えたグレイ・ケイシュが、グリーデント王国の豊かな土地を求めるのは当然の成り行きだった。またグリーデントもグレイ・ケイシュの進んだ技術を警戒し、欲していた。

 それぞれの国の国王は賢明だった。戦になれば、大陸全土を巻き込むことは目に見えていたし、その場合得るものより失うものが多いことを十分理解していた。そのため戦争にはならなかったが、両国の警戒が止むことはなかった。

 それが今になり、崩れつつある。ロエルの視察もエヴァリーヌの来国も、将来的に両国が友好関係を持つための一歩となるだろう。

 そう考えれば、ジュリアも自然に背筋が伸びた。顔では余裕を装っても、心まではそうもいかない。グレイ・ケイシュとの関係はグリーデント王国の繁栄にとっては重要なことなのだ。

「仲良くできれば良いけど」

 マーヤが言ったので、ジュリアも頭の髪飾りを弄りながら頷く。

「そうだな」

「うん……シャムリーとも……」

 小声で零された男のものと思われる名前に、ジュリアは聞き返した。

「誰だよそれ。どんな奴だよ」

「誰って、グレイ・ケイシュにいる知り合い……かな? カッコいい人だよ」

 カッコいい。明らかに好意的な言葉にジュリアの髪飾りを触る手を滑らせた。髪飾りが落ちて、コツンという軽い音がした。

「……それって……」

 更に追求しようとしたとき、エミリアが扉を叩く音がした。

「まもなく時間です」

 動揺を隠しながらも、ジュリアは慌てて髪飾りを拾った。




 ところ変わり謁見室。

 最も奥に据えられた玉座には王が腰を下ろす。その左右には王族、さらに大臣や国軍の重役、そして騎士達が控えている。


 部屋の中央に立つのは、グレイ・ケイシュ王国の第一王女であるエヴァリーヌ・ラリー・ケイシュ。背後にはお供の侍女や騎士達がいる。この場にいる一同の視線を一身に浴びている王女であったが、まるで怯むことはない。

 王女はグレイ・ケイシュの王族、貴族に多い黒髪は艶やかで、瞳には身分相応の強い光を灯している。身に纏うのはグリーデント王国のものとは対照に露出が多いドレスだった。真紅のドレスは凹凸のはっきりとした体の線をなぞり、裾は薔薇のように広がっている。グレイ・ケイシュ王国では普通なのだろうが、この国ではやや刺激的な装いだった。


 エヴァリーヌ王女は、凛とした声を響かせた。

「本日は突然の訪問をお許しいただき、まことにありがとうございます。そしてこのような盛大な歓迎、心より感謝申し上げます」

 そして優美な動作で一礼する。

 

「遠路はるばる、お疲れでしょう、エヴァリーヌ王女様。ようこそグリーデント王国へ。歓迎いたします」

 国王は堂々とした中にも優しさのある声でそう言い、立ち上がった。そうして段を下り王女と同じ目線に立って頭を下げる。

 隣国からの来賓に対する敬意と親しみのこもったその動作に、場に張り詰めた緊張感がやや打ち解けた。エヴァリーヌ王女の表情も少し緩んでいる。

 自然と拍手が沸き上がった。王と王女は手を取り合い、堅く握手をする。

 それは、その場にいる誰もが両国の明るい未来を思い描くような光景だった。

「家族を紹介しましょう」

 王族同士の親睦を深める。それもまた、今回王女が来国した理由の一つだった。

 王妃達、そしてジュリアが紹介される。

「ジュリア王女……お噂は耳にしております」

 エヴァリーヌは愛想の良い笑みを浮かべて、そう言った。

「……噂、と申しますと?」

 エヴァリーヌに負けず劣らない愛想の良い笑顔をジュリアも浮かべる。

「とても聡明で花のように麗しい方だと聞き及んでいます。その上武術の心得もあると。まさに噂通りのすばらしいお方です」

 美辞麗句の羅列に、ジュリアは失笑を抑えるのに苦心した。

 王族の紹介もひとしきり終わり、次に控えていた大臣達の紹介に移る。


 エヴァリーヌ王女のグリーデント王国訪問は滞りなく進行していた。




 謁見室で両国の王族が顔を合わせている間、エミリアは準備に追われていた。

 グレイ・ケイシュ一行は予定より早く到着したため、顔合わせの後の晩餐会も予定より早まったためだ。

 慌しく廊下を行き来するエミリアの所にグレイ・ケイシュの侍女達が現れた。

「エヴァリーヌ王女からの申しつけで参りました。ぜひともお仕事のお手伝いをさせて下さい」

 揃いの白藍色の服に身を包んだ五人の侍女。その中の一番前にいた侍女は、そう言った。

「お気持ちは嬉しいのですが、ご客人の手を煩わせるわけにはいきません」

 エミリアはやんわりと断る。しかし侍女達は頑固だった。

「いいえ。我ら一行を迎え入れて下さった感謝を、お仕事をして示したいのです。何もせず、好意に甘えているだけなど……王女様にお叱りを受けてしまいます」

 一番前の侍女が言うと、後ろの侍女も真剣な眼差しで頷いた。

 真摯な彼女達の態度に、エミリアも断れない。

「では――」

 少し迷った末、彼女達に厨房を手伝ってもらうことにした。エミリアが先ほど覗いた時、厨房は随分忙しいそうだったからだ。

 厨房の場所を教えると、彼女達は礼を言ってそこに向かった。

 エミリアも自分の持ち場に戻ろうとしたとき。

 ――くすくす。

 品があるような、だがしかし耳触りの悪い笑い声が聞こえた。

 思わず振り返る。厨房に向かう廊下、少し離れた場所に黒い服に白い髪の女の姿が見えた。

 エミリアは城内で、こんな目立つ格好をした者を見た覚えはない。身元を確認しようとしたのだが――

「エミリアさん! 食堂の準備ですが……!」

 慌てた使用人の一人がやって来て、そう言った。

 エミリアがそちらの対応に追われているうちに、女は廊下の向こうに姿を消していた。




 挨拶もほどほどに、彼らは謁見室を後にした。

 この後は晩餐会が予定されている。晩餐会と言っても多くの王侯貴族が出席する豪華絢爛なものではない。両国の王族のみが出席するさやかなものだ。

 彼らが食堂へと歩みを進めている途中のことだった。

 曲がり角の陰から赤い影が踊り出た。マーヤだ。

 彼女は邪魔にならないように通路の端に立って、エヴァリーヌ王女に一礼した。

「……お久しぶりぶりでございます、エヴァリーヌ王女」

 普段の態度からは想像できない、礼儀正しい言葉遣いと動作だった。声色からマーヤも少し緊張しているのが分かる。

 ――そんなに親しいのか?

 ジュリアは予期せぬ友人の行動を横目で窺う。

 その場にいた他の者も、不意の彼女の登場と挨拶に足を止めようとした。

 だが、当のエヴァリーヌ王女はマーヤの言葉など、聞こえないかのように前を見たまま。もちろん距離から考えれば、気付いていない筈などない。

 不審に思いエヴァリーヌの表情を見てみると、作ったかのような完全な無表情だった。だが、ただその黒い瞳だけが一瞬マーヤのほうを向いた気がした。

 ジュリアは訳が解らない。マーヤとエヴァリーヌの間に何かあったのだろうか。内心首をかしげながら、マーヤを見守る。

 少し落ち込んだような表情のマーヤは、次にエヴァリーヌに付いて来ていた騎士のほうに身を向けた。

 ジュリアやマーヤとそう歳がかわらないであろう、金髪の騎士だった。

「シャムリーさんも、お久しぶりです」

 また頭を下げるマーヤにシャムリーと呼ばれた騎士は軽く会釈する。

 ジュリアのほうから彼の表情は見えなかったが、マーヤの表情はしっかり見えた。


 安心したような笑顔だった。

 ジュリアは彼とマーヤに何があったかも知らない。それにもかかわらず――あるいはそれ故に、胸の奥がムカムカするような、そんな気持ちに捕われた。

 その感情が何か、彼は自覚していなかったが。


「退きなさい、シャムリー」

 マーヤが出てきてから、何も言わなかったエヴァリーヌが唐突にそう言った。彼には背を向けたまま、エヴァリーヌは続ける。

「晩餐会の席に貴方がいては失礼だわ」

「そんなことは気になさらなくて結構ですよ。異郷の地で、信頼する騎士が側を離れれば不安でしょう」

 ジュリアの母、レイリンは気遣ったが、エヴァリーヌは、

「いいえ。これが居ようが居まいが、なにも支障ありません」

 冷たく言う。

 シャムリーは屈辱の表情どころか気落ちした様子もなく、頭を下げた。そして踵を返す。

「わ、わたしも失礼します!」

 マーヤも慌てて頭を下げる。そして、そのままシャムリーの背を追いかけた。

 なぜだかジュリアはそんな様子から目が離せない。母に腕を突かれて、急いでまた歩き始めたのだった。


 マーヤとシャムリーが退いた後は特に何事もなく、一同は晩餐会の席に着いた。

 国王は何度もエヴァリーヌと言葉を交わし、場を和やかにする。朗らかな表情で談笑するエヴァリーヌからは先程のシャムリーやマーヤに対する態度は想像できない。

 だがジュリアはそれを大して不思議に思わなかった。

 ……つまり自分と同じ、猫被りが上手いということか。

 腹の内が黒いとか、裏表があると言えば聞こえが悪いが、つまりはそういうことなのだろう。かといってジュリアが彼女を嫌っているかといえばそうではない。同属嫌悪のような感情なら少しはあったが。

 他国の前で『理想の王女』を演じるのは王女として正しいこと思っていたし、ジュリアもそのように行動している。

 それに隣国の王女の私情をどうこう思うほど、ジュリアもお節介ではなかった。

 ただ気掛かりなのは、どうして彼女が本性をマーヤの前でみせたか。――それと何より、マーヤとエヴァリーヌ王女、そしてあの騎士の関係だ。

 ジュリアが思考を巡らせていると、エミリアが料理を運んできた。

 ……後できけばいいか。


 各々、自分の皿にスープが注がれるのを待つ。

 そして晩餐会が始まる――



 ――始まる筈だった。


「エミリア……どうかしました?」

 エミリアが配膳しようとしないのだ。おたまにすくったスープを凝視している。有能な彼女に限って『ついぼんやり』など絶対有り得ないので、ジュリアは不安に思った。

「その、ですね……」

 口ごもる彼女に、王妃・レイリンは言った。

「エミリア、思うところがあるならきちんと言いなさい」

「はい。気のせいかもしれませんが……スープに違和感が」

「違和感……?」

 一同は首を捻る。

「それはいつもと違う材料を使っているからでしょうか?」

 エミリアはエヴァリーヌの言葉に首を横に振る。

「いいえ、そのような意味では……」

「では問題ないのでは?」

「ですが、国王陛下やお客様に出来損ないかもしれないスープをだす訳にはいきません」

「それなら」

 そう言ったのは、ラランドットの後ろに控えていた金髪の騎士――ルーカスだ。

「私が毒味をしましょう。エヴァリーヌ王女や国王陛下に、少しでも危険があるものをお出しする訳にはいきません。ならば作り直すよりそのほうが手っ取り早いでしょう」

 勇気ある彼の言葉だが、エミリアがそれを阻止した。

「いえ、これは私が言い出したことですから、私が。国王陛下、お許し頂けますでしょうか?」

「君が言うなら、そうすればいい」

 国王は快諾し、黙って事の行方を見守ることにする。他の者も、口出しはしなかった。

「では、失礼して――」

 エミリアは小皿にスープを注ぐと、それを口に流しこんだ。

 二回ほど喉を鳴らせ、そして――


「……気のせいだったんですね」

 ジュリアが安堵した時。


 おたまが落ちる、軽い音がした。

 続いて、エミリアが口を押さえ、床に膝をついた。

「エミリア!」

 ジュリアは叫んだ。一同の間に驚きが走りぬける。

 エミリアは玉のような汗を額に浮かばせる。肩は小刻みに揺れ動き、視線は焦点が合っていない。彼女の容態に何かが起こったのは誰から見ても明白だった。

 ジュリアが腰を浮かせて彼女に駆け寄ろうとする前に、エミリアはふらつく足で立ち上がり、その場を後にした。

「失礼しま、す……」

 消え入りそうな声でそう言い残して。




 城のバルコニーに一組の男女が姿があった。

 見下ろすと渡り廊下があるが、今は人通りはなく、辺りは静かである。

 近くに花畑でもあるのか、白い蝶が飛んでいく。空は気持ちいいくらい青く、綿のような白い雲が浮いている――まさに平和そのものといった陽気だ。

 だが二人はそれを楽しむどころか、会話交わすことすらなかった。気まずい沈黙が流れている。

 意を決したように、女の方――マーヤはその沈黙を破った。

「あのね、えー……と」

 実は彼女の中では言いたいことは決まっていたが、いきなりは切り出せない。困ったマーヤはとりあえずどうでもいい話から始めることにした。

「……そっちはどう? 変わったこととかない?」

「特には」

 男――シャムリーの言葉はとても無愛想なものだった。

「エヴァリーヌ王女は……」

「特に変わりありません」

 ちらりとマーヤはシャムリーの顔を窺ったがその表情に変化は見えない。全くといっていいほど表情がなく、何を考えているのか分からない表情だ。

 だが、以前からシャムリーと王女を知るマーヤは、そのやり取りから何かを読み取ったらしい。納得するように頷いた。

「そっか。変わりないんだね。私がいたときと同じで……」

 シャムリーは顔をやや前に傾けて肯定する。

 また二人の間には沈黙が流れそうになり、マーヤは慌ててまた話を始めた。

「天気いいね」

「そうですね」

「あのね、グリーデントではグレイ・ケイシュより晴れの日が多いんだよ」

「知ってます」

「……」

「……」

 どうやら彼のほうにマーヤと会話する気は皆無らしい。その理由をマーヤは知っていたし、自分のせいでもあることを承知していた。

 ……でも、今言わなきゃ。

 彼女は再び意志を固める。

「私ね、シャムリーさんとエヴァリーヌ王女に謝らなきゃいけないことが……」

 言いかけた時、今まで人通りのなかった渡り廊下を一つの影が通った。

 ただ人が通っただけならマーヤも気にしなかっただろう。問題なのはその人物と様子。

「……エミリアさん?」

 それも普通の様子ではない。

 覚束ない足どりで、口元を手で押さえていた。さして暑くもないのに、額には汗が浮かんでいる。

 マーヤは思わずバルコニーの手すりに身を乗り出した。

 ……あのエミリアさんに何が?

 不安で胸がさざめいた――その時。


 背後から、凍りつくような殺気。

 振り返る前に、シャムリーの手袋に包まれた右手がマーヤの肩を握った。込められた力の強さに、マーヤは明確な殺意を感じた。

「やめ、」

 動揺しながらも、抵抗を試みる。しかし、力の差は歴然だった。彼の左手がすばやく太ももが回され、体が浮く。膝が手すりの上に乗った。

「待って、シャムリー、わたし……」

 マーヤは必死で訴える。しかしシャムリーはその言葉には耳を貸さない。

 そのまま、突き落とす。

 地上に叩きつけられるまでの浮遊感の中でマーヤは思う。

 ……シャムリーに、謝らなくちゃいけないことが……

 そんなマーヤの心の内は、まるで気にせずシャムリーはその場を立ち去った。

 マーヤの言葉など、耳を貸さずに。


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