episode2 小さな王女と小さな騎士[1]
夏が終わると、日差しも緩み風も涼しくなり始める。
秋の昼下がりの風が王子の私室に静かに吹き込んだ。
ロエル王子の私室は王女の部屋と同じくらいの広さをだった。
紅色とこがね色の絨毯に大きな窓。壁に掛けられた豪奢な額縁の中には、力強い筆遣いでいにしえの英雄が描かれている。
部屋の主――ロエル王子は金色の髪をわずかに風になびかせ、苦笑した。
「ジュリアがまた世話になったみたいだね、エミリア」
部屋にいるのはロエル以外にはただ一人。
「いいえ。そんなことはありません」
そう、使用人のエミリアは柔らかく笑う。
その優しい物腰からは、長い説教でジュリア達を怖がらせた人物と同一人物とは思えない。
エミリアが今ここにいるのは、昨日の一件――ジュリアが街に出かけていって巻き込まれた事件の事を伝えるためだった。
「ジュリアには、他には話さないと約束したんじゃないのかい?」
「王妃様にはお話ししないとは言いましたが、ロエル様にお伝えしないとは言いませんでしたから。
事が事なので私一人で判断は出来ないと思いまして」
「ジュリアは君が僕に伝えるのを知っているのかな?」
その時のジュリアの反応を思い出したのだろう。エミリアは少し頬を緩めた。
「今朝お伝えしたら渋い顔をされてましたよ。もう少しすればジュリア様が言い訳……いえ、弁解にいらっしゃると思います」
ジュリアは度々気付かれないように振り向きながら、廊下を進んでいた。
少し離れた後ろにはいつもと変わらない妹の笑顔。
「性別がどうであれ、わたくしの気持ちは変わりませんわ。お姉様……いえ、お兄様!」
――それが本当のことを知ったミルシーが返した答えだった。
ジュリアは、せっかく恥を忍んで事実を伝えたというのにまったく現状が変わらないことに、気分を沈ませる。これでは言い損だ。
おまけにミルシーの隣の従者――クロードは何故かこちらを恨めしそうな目で見ている。
「なぁ、マーヤ……俺は何かしたのか? ミルシーの隣の少年からすごい険悪な視線を感じるんだが……」
後ろの二人に聞こえないくらいの表情で、ジュリアは肩を並べて歩いていたマーヤに訊いた。
「……うん、そうだね」
「お前ならその理由知ってるんじゃあないか?」
マーヤの含みのある表情に、ジュリアはそう言った。マーヤはマイペースに見えて、意外と聡いところがある。
「まぁ、なんとなく分かるけど……こういうことは自分で気付いたほうがいいよ」
「……? どういうことだ?」
「人に気付かされた時にはたいていは手遅れだってこと」
それならなおのことマーヤが教えてくれたらいいのに。そう思いながらマーヤを見るも、彼女はどこか遠くを見るような目をするだけだった。
兄の部屋の前までやって来たジュリアは、ミルシーのほうを見た。
目を合わせた彼女は距離を保ったまま、にっこりと笑った。もちろんわきまえています、部屋に入っていくような不躾なことはしませんわよと言うように。
それに安心しながら、ジュリアは扉を開ける。大きな扉ではあったが、造りが良いためかあまり力を加えずとも開いた。
マーヤを伴って中に入ると見慣れた二つの顔。いつも通り温厚そうなロエルの顔といつも通り冷静なエミリアの顔があった。
兄が困ったように口元をほころばせたので、ジュリアはばつが悪くなって思わずうつむく。既に事情は伝わっているらしい。
「面倒なことに巻き込まれたそうだね、ジュリア」
「……ロエル兄さん」
「おまけにマーヤやミルシーまで危険な目に遭って」
「二人も無事だったんだから、それでいいじゃないか」
「もし二人に何かあったらどう言い訳するつもりだい?」
「うっ……」
ジュリアは言葉に詰まる。
「ジュリア」
兄の言葉は優しく、だがそれがかえってジュリアの逃げ道を奪う。だから思わず口走ってしまった。
「う、うるさい……! こんな時ばっかり兄ずらして……歳も全然変わらないくせに」
一瞬だったが、絶えず温和な表情を浮かべていたロエルの眉が歪んだ。
ジュリアはすぐ自分の言ったことに気付く。しかしすぐに言葉を取り消すことも出来なかった。マーヤのほうを見ると、彼女は何も言わずに非難するような視線を向けていた。
ジュリアは立ち上がり部屋を飛び出した。
「追いましょうか?」
エミリアがロエルのほうを見遣る。
「いや、エミリアは仕事もあるだろう」
ロエルがマーヤのほうに視線を運ぶと彼女もこちらを見ていた。ロエルの意図を汲んで、マーヤは大きく頷く。
「そうですか。では失礼します」
エミリアはいつも通り無駄の無い足運びで退室した。
ロエルは一息つこうとして、まだ部屋に残る者がいることを思いだす。
「ああ、マーヤ。君もまだいたのか」
「さすがに怒っちゃうかと思いました」
「人前だったからね。あの位の言葉を投げつけられただけで感情に任せて怒るほど、器は小さくないつもりだよ」
「エミリアさんもいましたしね」
「ど、どういう意味かな?」
一瞬声が上擦った。
「へへっ。そーゆう意味、です。
じゃあ私、ジュリアのほう見て来ますね。きっと一人になったら淋しくって泣いてます」
冗談っぽくマーヤは笑う。
「あ、ああ。ジュリアをよろしく」
分かりました、と答えるとマーヤも部屋を後にした。
部屋に残ったロエルは、何気なく空を見上げた。先程ジュリアが言った言葉が思い起こされる。
……あんなこと言われると、昔を思い出すなぁ。
「いや、昔のほうがもっと酷かったか……」
マーヤが王城の庭園まで来ると、案の定ジュリアはそこにいた。
鬱屈した表情で庭に備え付けられた椅子に座り込んでいる。庭園では赤やピンク、黄など様々な色の薔薇が咲き、ちょうど見ごろになっていた。
花園の中、物憂げな瞳で思いにふける麗しい王女の姿は、何も事情を知らない者が見たら思わず見惚れてしまったかもしれない。
ただジュリアの考えていることが手にとるように分かるマーヤは、慈しみをもって微笑んだ。彼の隣に腰掛けると、明るく声をかける。
「泣かないで、ジュリア」
「泣いてないし」
「泣いてないの? いじけてるだけ?」
ジュリアは黙って空を見上げ続ける。皮肉なほど晴れた空を一羽の鳥が飛んでいった。
「ロエル兄さんには悪いこと、言ったよな……」
「そうだね」
「でも俺の言い分、そんなに間違ってないよな? 年齢だって一緒で性別だって同じ、それなのに――」
兄は王太子で次期国王として扱われる。自分はしたくもない王女役を演じているのに。
そんな思いは確かにこの胸の内にあるのだが。
「……それでもロエル様のことは、『兄さん』って呼ぶんだね」
「それは――」
慈愛深い笑みを湛えるマーヤのほうを見て、ジュリアは思う。
……お前がいたからじゃないか。
それはジュリアとマーヤが出会ったころに遡る。
五年前――
グリーデント王国の王都の中央にそびえたつ城。そのさらに中央の庭には子供達の笑顔が響き渡っていた。
子供達は身なりが良い。彼らは皆貴族の子供達だった。子供の多くは練習用の刃がついていない剣を握っている。
彼らが城に集まった理由はある剣の師の教えを仰ぐためだ。
性別は男女さまざま。少年はもちろん女児の中にも剣を持つ者が何人もいる。また、体を動かすのには適していないような服の者もいる。剣の修練の様子を見物しに来たようだ。
剣の師匠が来るまでしばしの時間があるので、子供達はそれぞれ談笑したり、剣を振るったりしていた。
子供達の中心にいたのは眼鏡をかけた少年だった。彼は次期国王という身でありながら、それをまったく鼻にかける様子はなく、周りの子供達と一緒になって笑っている。
彼の周りに人が多いのも、単に身分のためではなかった。
離れた場所にそんな様子をじっと見ている者がいる。
眼鏡の少年の歳の離れない妹――いや、妹ということにさせられている少年だ。
青藤色のドレスを身につけ、深い茶色の髪を持っている。
少年はおおよそ少年には見えない、姫君の鏡のような外見をしていた。
彼は壁に半分身を隠し、兄やその友人を見ていた。その表情は、寂しそうというより、恨めしそうであり――だが、少なからず寂しげな色もある。一見しただけではその心中は分からない。
彼は兄に声をかけることもせず、ただただ見ていた。やがて兄はその視線に気付く。
兄が手を振ろうとするその前に、妹は踵を返し、その場を立ち去った。
「ロエル様? さっきの方は妹君の……ジュリア様ですよね」
眼鏡の少年――ロエルと同じく、視線に気付いたのであろう少年が言った。貴族の子であるだけあって言葉遣いはきっちりしているが、必要以上に畏まったところは無い。ロエルとは友人のような関係なのだろう。
「うん。ジュリアもこっちに来ればいいのにと思ったんだけど……」
ジュリアがいたほうを見るも、もう背中も見えなくなっていた。
「やっぱり、武術が嫌いなんじゃない? あんな綺麗なお姫様には剣なんて似合わないもん」
「ばーか、ジュリア様は凄い強いんだぞっ。王家の女のナラワシだって父様が言ってた」
「でも実際に剣を持ってるところ見たことないよー?」
「……王家は特別。……修行も特別。……だから私達とは別」
「案外そんなに強くないのかもよ」
「でもジュリア様のお母様の王妃様は昔最強の剣士って言われてたらしいですっ! だからきっとジュリア様もお強いんです。……はぅ、素敵……」
「ディアナったら、心ここにあらずですね」
「マジで!? 戦って勝ったら結婚してくれるかな?」
「暴力なんて野蛮です、低俗です、最低です! いいですか、結婚というのは……」
「アハハ! あなたがジュリア様に勝てる訳ないでしょ?」
個性豊かな仲間達がざわめきはしゃぎあうのを聞き流しながら、ロエルはその場に剣を置いた。
「あれー? どこ行くんですかー?」
仲間の一人の言葉に、ロエルは、
「ちょっとジュリアのとこに」
そうとだけ答えた。
ジュリアは中庭から離れた庭園にいた。おもむろに、近くにあった薔薇の花を摘む。
その光景は絵画的で美しい。不完全な点があるなら幼い王女が世界を恨むような顔をしていることだろう。
ジュリアは美しい花を楽しむ気になどなれず、それ以上なにもせずにつっ立っていた。薔薇の花を見つめるその目は先程より強く負の色を示している。
そこへ――
「ジュリア!」
兄、ロエルが駆け寄った。
ロエルはジュリアの表情とは間逆な笑顔を浮かべた。
「そのさ、ジュリアもみんなのところに来ないかい?」
「……」
沈黙するジュリアにさらにロエルは続ける。
「みんなジュリアと仲良くなりたいって思ってる。ジュリアが強いのを知っていてそれを見たいと思ってる。だから――」
「……いや」
それは虫の羽音ほどかすかな声だった。
「え?」
戸惑いから、ロエルの口から短い言葉が漏れた。
「絶対嫌」
今度は、はっきりとした言葉だった。ロエルが困惑の表情を浮かべる。
「……どうして」
「ロエルに何が分かる」
淡々としたその言葉からは、ジュリアの真意は読み取れない。果たして、彼は何を思っているのか――
ジュリアの手に力が込められ、薔薇の花が散った。あっけにとられるロエルを残し、ジュリアはその場を去った。
花びらはあっけなく風に飛ばされ散っていった。
歩みを続けながら、いつぶりだろう、とジュリアは考える。
……最後にロエルと話したのは。
一方的に話かけられた、となると三日前ぐらいだろうか。内容はとるに足らない日常会話だったが、ジュリアはそれを無視した。
会話が成り立った、となると記憶は半年程前に遡る。母の前だったから、仕方なくだった。
それほどまでに、ジュリアはロエルが嫌いだった。
彼は自負していた。自分はロエルより勉強が出来るということを。武才があるということを。
社交性が無い、という訳でも決して無かった。先ほどだって、ジュリアはあの子供達の輪に入れなかった訳ではない。どのように声をかければいいかも分かっていたし、彼らに受け入れられ、好かれるための立ち振る舞いも心得ていた。ましてや勇気がなかったのではない。ただ入りたくなかっただけだ。
……それなのに。どうして、ロエルばかり……!
次期国王として扱われるロエル。自分は着たくもないドレスを着て作り笑いばかりが上手くなっていく。
ジュリアには納得出来なかった。ありのままを受け入れられる兄と偽りばかり膨れ上がる自分。――ジュリアが本当に恨んでいたのはそんな自分自身だった。
そんなジュリアも同じ年齢の子供達との戯れをつまらないと感じるほど歪んではいない。
だがジュリアが進んで友人を作ることは無かった。王女として自分を扱う者が増えれば増えるほど、自分の中の矛盾が大きくなる錯覚に囚われるのだ。
女として育てられながらも、心までそうはなりきれない。
面と向かって反抗をすることは出来なかった。
それは、母の想いを知ってしまったからだ。母がジュリアに自分を偽っていく生き方を歩ませてしまったことを、本当に申し訳なく思っていることを。その事で今なお自分を責め続けていることを。
きっかけは偶然。たまたま聞いてしまった、父と母の会話だった。
――自分のせいでジュリアの人生は狂ってしまった。
――あの子ばっかり不幸な目に。
その母の弱気な顔に驚きのあまり言葉もでなかった。
ジュリアはこんな顔の母を知らなかった。
竹を割ったような性格で、肝が座っている。女ながらに剣術に長け、ジュリアにも自ら剣を教えるような人――それがジュリアの知る母だった。
彼女こそ自分を今の立場にした原因だったが、それ以上にジュリアにとって最大の理解者だった。
だから、反抗することは出来ない。反抗は同時に、一番の拠り所を失うことを意味しているのだ。
……もし仮に自分がロエルの立場ならば。
そんなことを、何度も夢想した。
自分ならロエルより上手くやれる。武術も勉学も社交も。それはジュリアの自惚れではなく、事実だった。
そんな思いもあり、ジュリアはロエルのことを『兄』とは呼ばなかった。
……ああ、みんないなくなればいいのに。
物騒な、ある意味とても子供らしいことを考えながら、ジュリアは庭園の端、人気の無いところに来た。
普段からあまり人目につかないこの場所は、手入れこそされているものの、花は植えられていない。庭園の隅のほうにあるからというのもあるが、大きな木があり、それが日光を遮るため花が育ちにくいのだ。
ただ木があるだけの、見事な庭園の中では味気ない場所ではあったが、ジュリアは一人になれるこの場所が好きだった。静かで人が来ることもない。
周りを見渡し、念のためロエルや他の誰かがいないことを確認すると、ジュリアは木の幹にもたれかかり呟いた。
「もし、外に出られたら……」
不可能だと分かりながら。仮に可能だとしても、自分一人で生きていける筈がないと理解しながら、それでも自分が外に出ることを夢見る。
それが出来たならば、ありのままの自分で生きていけるように思えた。
今の自分から解放され――自由に。
その時、葉が擦れあう音と木の枝が軋む音が頭上から降り注いだ。
「……?」
不審に思い見上げると、影が光を遮る。
……何だ?
……人が空を飛んでる?
……自由に……?
ジュリアがそう思った殺那。
影は落下した。
「いでッ」
空を自由に飛ぶ者は落下し地にひれ伏す者となった。
ジュリアのすぐ前に頭から落ちた――その割には気の抜けた声をあげたのはジュリアと同じ位の歳の少女だった。
少女はしばらく痛みのためかプルプル震えたその後、やっと顔を上げる。
その少女はくるみ色の髪をひとつにまとめみつあみにしていた。かなり変わった服装をしており、赤を基調とした奇妙な服を身につけて大きな剣を携えている。
頬は林檎のようにつやつやで、可愛らしいが田舎っぽい。髪が乱れるのも気にせず頭を掻くその仕草も、この少女が、ジュリアが普段目にする貴族の少女とは全く違う境遇で生まれ育ったことを表しているようだった。
……彼女は――
「一体、何?」
声を強張らせながらジュリアは声を掛ける。誰?とは言えなかった。表情に現れる警戒心も隠すことが出来ない。
少女もこちらに気付いた。
「えと……はじめまして!」
ニッコリと浮かべた笑顔はジュリアとは対照的だ。愛嬌があり疑いも警戒も何も無い。
だが、ジュリアは突然の彼女の出現に動揺していた。
この少女、もちろん見覚えの無い顔だ。それにこんな風変わりの少女、噂にも聞いたことが無い。おそらく城の人間でない。
……怪しい……何者だ?
……まさか、侵入者……!
戸惑いから思考を停止していた頭を回転させ、導かれた答えだった。
冷静に考えれば、こんなに幼い者が城に悪意を持って侵入することは考えにくいのだが、いかんせんその時の彼は心を乱していた。
ジュリアは木にもたれかかるのを止め、少女に意識を集中させる。
「……あの、その」
少女はジュリアの警戒に気付いたのか、困ったように頬をかく。
「あなたは何者ですか? ここが王城であると知っての狼藉ですか」
突然のことで驚きはしたがジュリアの声はしっかりとしていた。それは、自信があったからだろう。相手が同じ年齢なら絶対負けない、と。
……狙いはなんだ?
王族の命か。それとも国家機密か。そんな予想が頭の中を回る。
ジュリアの疑念に意を関せず少女は呑気に自己紹介を始めた。
「何者か、ときかれると答えにくいけど……しいて言うなら今は何者でもないよ。なんの肩書きも持たないただの通りすがりの普通の子供ってとこかな。
名前はマーヤ。マーヤ・ガーディールだよ」
ジュリアは、ただの通りすがりの普通の子供がいきなり木から落ちてくるもんかと思いながら、訊く。
「では、マーヤ・ガーディール。あなたは何故、……その、木の上から落ちて来たんですか?」
「えっと、それは……私、木登り得意だし」
マーヤの答えは全く的を射ていない。そもそも本当に得意なら、降りるときの事まで考えるだろう。
「まさかあなた、何か城に悪いことをするために……」
「違います!」
マーヤは慌てて否定する。
「私は王立騎士団に入団するためにやって来ました!」
マーヤは携えていた剣を見せた。その剣は長さは普通だが、その割には太い。彼女には大きい剣だ。
「……あなたが、騎士?」
……確かに王立騎士団には変わり者が多いし、女騎士も何人かいる。
しかしながら王女に対する敬意の言葉一つ使えない少女が騎士になるとは信じられなかった。
「そう言えば私の名を教えていませんでしたね。私の名はジュリア・グリーデント。この国の王女です」
マーヤの態度は自分の身分を知らないせいかと思い、改めて名乗った。
だがマーヤは驚いた様子も見せない。
「わぁ、王女様だったんだ。それならわたしが仕える相手だったんだね」
そう言って場違いな笑顔をまた浮かべ、続ける。
「実はね、私、先生っていうか師匠の紹介で騎士団に入団することになったの。その人と一緒にお城にやって来たんだけど師匠が、他に用があるから騎士団本部には一人で行けって言って。でもお城に来たのは初めてだし道に迷っちゃって……誰に道を聞いたら良いのかも分からないし。だから……」
「だから?」
「高いところから見渡せば、見つかるかなぁと思って」
「それで木登りですか」
呆れぎみにそう言いながら、ジュリアは自分の中の警戒心が次第に小さくなっていることに気付いた。
彼女の言葉をすべて信じることは出来なかったが、なんにせよ事実は騎士団長に会わせればはっきりする。
「ならばあそこを真っ直ぐ行って左に曲がればばいいです。そこにある建物に騎士団の本部が置かれていますから」
「ほんと? ご親切にどうもありがとう!」
ペコリと頭を下げるとマーヤはジュリアの指差したほうを向いて、歩き始めた。
彼女の背中を見て、ジュリアは思った。
……彼女は自分とは違い自由だ。
なんの肩書きも持たない、城の外で生きる自由な少女。天真爛漫に話し、無邪気に笑っていた。
――だがそれも騎士になるまでの話。
「待って下さい」
気が付いたら彼女を呼び止めていた。マーヤは不思議そうに振り返る。
「あなたは騎士にならないほうがいい。騎士になったらきっと後悔してしまいます」
騎士という肩書きを得た瞬間、きっと彼女から自由は失われる。
……自分が王女という肩書きに縛られるように。
ジュリアは無意識のうちに自分とマーヤを比較していた。
城の外で自由に生きてきた彼女と、自分を。自らを偽ることなどせず光のように微笑む彼女と、自分を。
自分が欲しかったものを彼女は持っている気がした。そして、今それを失おうとしている。そんな予感がジュリアを険しい表情にする。
「大丈夫だよ」
マーヤは深刻そうなジュリアとは真逆の笑顔を浮かべていた。
「この国の騎士になるのに、後悔なんてないんだよ? 今も、これから先も。とっても面白くていい国だし」
マーヤにとっては何気ない言葉が、ジュリアの中の奥深くにある何かをえぐった。
……面白い、だと?
……自分をずっと閉じ込めてきたこの国が!
何も知らないであろう少女はただ無垢な表情を浮かべている。自分はこんなにも苦しくて苦しくて仕方ないのに。まるで今まで感じてきた苦痛のすべてを否定された気がした。
「ふざけるな!」
ジュリアの口から、思いが溢れだした。
「面白くなんか、あるものか……! 嫌いだ……!」
自分も兄も、拠り所である母も、尊敬する父も。
みんなみんな、世界の全てが。
「大っ嫌いだ!」
ジュリアは叫んでいた。あまりにも強く拳を握り締めたため手のひらに爪が食い込んだが、それすら気にならなかった。
マーヤも驚いたのか、一瞬虚をつかれたような顔をした。すこし間を置いてから、自分を睨みつけるジュリアに改めて笑いかける。
「そんなことないよ。この国の人達はみんな楽しい人ばかりだしお城の人達も……」
「では聞きますが、私以外に城の者に会ったのですか?」
「あ、会ってないけど! きっと面白い人ばかりだよ!
男の子が王女様だったりするしね」
「へ……?」
予想だにしなかった言葉にジュリアの口から腑抜けた声が漏れた。
……この場合、王女って自分のことだから――
普段頭の回転が速いジュリアもこの時ばかりは状況認識に時間を要した。
そして、結論。
……自分の性別が、バレた……?
「ど、どうして……?」
声が震えるのも仕方がない。ジュリアは生まれて今日まで、自分の本当の性別を見破られたことがなかったのだ。それが初めてあった少女に、なんの前触れもなく、いとも容易く真実を露呈されてしまった。
ずっと自分が男であることを認められたかったジュリアだったが――それにも関わらず、自分を男だと見抜く者が現れた今、ジュリアは恐怖に近い感情を抱いていた。
偽りしかない自分からその偽りさえ奪われたら? 王女として生きてきた自分を失えば、その時自分には何が残るのか?
「どうしてって言われても……うーん、何となくかな」
腕組みして考え、答えたマーヤ。曖昧な回答は、本気で考えた末の答えたらしい。
「なんとなくって……なんだよ」
「なんだよって言われてもなぁ。あ、大丈夫。秘密にしてるんなら、誰にも言わないから」
「…………」
うつ向いてしまったジュリア。マーヤが心配そうに様子をうかがうと、ジュリアの振り絞るような声がした。
「……面白くなんかあるか」
「ふへ?」
「王位も継げない。本当の女じゃないから政略結婚の道具にもならない」
どうして今日会ったばかりの少女にこんなにも感情をぶちまけてしまっているのか。そんな風に考える暇もなく、言葉はせき止められていた川が決壊したかのように押し寄せてきた。
「自分に、ジュリア・グリーデントという存在になんの意味があるんだ?」
今まで本当の自分が認められることは無かった。そして今、偽りまで否定された。
絶望的な心境の中にいるジュリアに投げ掛けられたのは――意外な言葉だった。
「じゃあ……貴方は政略結婚の道具になりたかったの?」
「何を……そんな訳じゃないだろ!」
……何を言い出すんだよ、こいつ。
怪訝そうな眼差しを向けると、さらにマーヤは言ってのけた。
「だって、政略結婚させられなくて済むんだよ? 普通喜ぶよ」
「だからといって自由に相手を選べる訳じゃないんだから……」
「じゃあいるの?」
いきなりマーヤは吐息がかかる距離まで、ずいっと顔を近付けた。彼女の薄い紅色の唇がジュリアにあたりそうになる。
翡翠色の大きな瞳と目があって、思わず耳が熱くなる。
……可愛い?
……いや、単に第一印象が悪いからそう思ってしまうだけ、だよな?
……そもそも自分はマーヤの発言に怒りを持っているのであって……。
何故か心臓の鼓動がやけに大きく感じられた。
「いるの? ……結婚したい相手」
再び言われて、ジュリアは慌てて否定した。
「いない! いる訳ないだろ」
突然現れた未知の感情を振り払うように、ジュリアは顔を勢いよく横に振った。
「じゃあ今は心配しなくていいじゃない。結婚したい人が出来たら考えればいいよ」
「でも……それでも……自由になれる訳じゃない」
「ううん、自由なれるよ」
「え……」
思わず言葉を失ったジュリアにマーヤは語りかける。
「お城に住んでる王様でも、田畑を耕すお百姓さんでも、私でも貴方でも。たとえ暗い牢獄の中でいようと――心の在り方は自由なんだよ?
心の中は自分にしか決められない。
何を思うかも。
何を美しいと感じるかも。
何を信じるかも全部自由なんだよ」
マーヤはジュリアの手をとった。
その手は貴族のお姫様達の手とは違う。日に焼けていて、傷が見える。しかしそんなこととは無関係に、ジュリアはその手を優しく温かい手だと感じた。
「――だからジュリアの心はジュリアの自由」
マーヤが自分の名を呼んだその時、ジュリアは気付いた。
この少女はただ、ありのままの自分を受け入れてくれているんだ、と。
彼女にとって自分は王女ではなく、ジュリアなのだ。そして彼女はジュリアに言った。『自由だ』と――
他の何者でもない、『ジュリア』に向けられたその言葉は心の奥深くに染み込んでいった。
「それだけは覚えておいてね?」
夢から醒めたような顔のジュリアにマーヤはそう付け加えた。
そしてマーヤは手を離すと、騎士団の本部に向かって歩き出した。
「またね」
そんな言葉と笑顔を残して。
一人残されたジュリアは、木の幹にもたれかかった。
……ずっと自分は囚われの身だと思ってきた。
今なら言える。
「自分を閉じ込め続けてきたのは城でもない。身分でもない。自分だ」
自分で自分の周りに壁を作って勝手に苦しんでいたんだ。それを誰かのせいにして。そうすることで心を慰めて。
「だが、それも今日で終わりだ。俺は自分で自分の意思で決める」
……いくらまわりから生き方を決められようが……心までは決められない!
「ジュリア・グリーデント。お前は今日から、今この瞬間から――自由だ!!」
その瞬間、ジュリアは壁を飛び超えた。彼自身が作った心の中の壁を。
天を仰げば枝葉の隙間からどこまでも澄んだ青い空が見えた。
「綺麗だな……」
いつもはもっとくすんで見えたのに――
口元が緩み、作り笑いなどではない自然な笑みが溢れる。
青空の下微笑む姫君はまるで一枚の完成された絵画のようであった。