【従者の溜息】
――それは少年の記憶。
クロード・カルリスは絶望していた。
己を拒絶し続ける世界に。救いどころのない己の運命に。
クロードの瞳は左右で色が違っている。そのお陰で彼は酷い目にばかりあってきた。
ある時は見せ物として売られそうになった。またある時は怪物と呼ばれ狩られそうになった。
ある時は野蛮な盗賊に襲われ、またある時は神の名を叫ぶものに追われた。
そのため、彼に安住できる地は無かった。常に迫害されたため、グリーデント王国を中心に大陸中を転々としていたのだ。
幼い頃は彼の手を引いた両親も、気付いたらいなくなっていた。
親達が行きていく上で、自分が邪魔でしかなかったこと。それをクロードが理解するのはそう難しいことではなかった。
自分を捨てた二親にもほとんど憎悪の情を抱いていなかった。彼らを愛していたからではない。逃走と迫害の日々は、彼から親を恨む間すら奪ったのだ。
今となってはほとんど両親の記憶は残っていない。
希望もなく、だだ繰り返される孤独な殺伐とした日々。彼は生きたいと強く願うでもなく、ただ死が怖くて生にしがみついていた。
しかしその日――クロードはついに己の生を諦めた。
彼は鉄棒をもった三人くらいの男達に囲まれていた。体は傷だらけで動かない。それもそのはず、彼は一昨日から別の者達に追われ続けていた。疲労しきったところにこの男達が現れたのだ。
手には小刀一本のみ。あちらは多勢でこちらは一人。
クロードは死を覚悟した。
そして、男のひとりの鉄棒が振り下ろされたその時――
絶望の世界に一筋の光が差し込んだ。
男を止めたのは、少女だった。
クロードと同じくらいの歳の金髪を二つにまとめた少女。服装は通りすがりの庶民とは思えないようなものだが、身に纏うスカートは短い上に少し汚れているため貴族のようにも見えない。しかも手には槍。
だが、その何事にも臆すことのない瞳からは高貴な雰囲気を感じさせる。
「彼が何をしたかは分かりませんが――たった子供一人相手に大人三人。少々卑怯ではありませんか?」
彼女がそう言って――それからは早かった。
クロードがあっけに取られている間に、彼女は槍を振るい、気付いたら男達は一人残らず倒れ伏していた。まわりにも鮮やか過ぎる手つきだ。男達も何が何やら分からない様子で蜘蛛の子を散らすように逃げてしまった。
……綺麗だ。
乱闘が終わり、一人立つ少女を見て思った。彼女は落ち着いた様子で乱れた髪を整えている。
その様を月並に喩えるなら、百合の花。彼女は力強く、気高く咲き誇っていた。
「お怪我はありませんかしら?」
言葉だけなら上から見下したものだが、その声には優しさが込められている。
クロードは恐怖と驚きで渇いた喉を癒すため唾を飲み、ゆっくりうなずく。それは良かった、と表情を緩めた彼女はクロードに手を差しのべた。それを取り立ち上がる。軽くめまいがしたが耐えられないほどではない。
「……まだ名を名乗ってませんでしたわね」
そして彼女は胸を張って堂々と言い放つ。
「わたくしはミルシー。ミルシー・グリーデント。
王都に向かう道中ですわ」
……グリーデント?
国名、そして王族の姓に引っ掛かりを感じながら、自らも名乗る。
「クロード・カルリス。
行き先は……特にありません」
「ならば、わたくしについて来なさい。王都に行けば、あなたの進むべき道も開けるかもしれませんわ」
ああそうだ、僕はこの人について行こう。凛と美しいこの少女に、一生付いて行きたい。
それは少年にとって生まれて初めて感じる気持ちだった。
希望の光を彼女はくれた。
だから、クロードは彼女のために生涯かけて尽くすことを決心する。
ミルシーの前でクロードは自分の左頬に小刀を突き立て、横一文字に引っ掻いた。さらに縦に二本、その傷と交差するように傷をつける。昔聞いた『忠義の誓い』だった。一生彼女につき従い、守り抜くという誓いである。
その日から、クロードはミルシーの従者となった。
美しい少女だった。気高く、高潔な。逞しさの中に儚さを持ち、穢れなき純粋さの中にいたずらっ子のような表情を見せる。
……それがどうしてこんなこうなってしまったんだろう。
王城にある、客人のための一室。
十分な広さの中に寝台や机など必要最低限の家具が置かれていた。家具はどれもしっかりした造りをしているが、飾り気がなく部屋を殺風景な印象にしている。窓際の花瓶に飾られた百合の花だけが部屋に彩りを添える唯一のものだが、殺風景な部屋の中ではむしろ浮いていた。
そんなことなど気にせずに凛と咲き誇る白百合に、開け放たれた大きな窓から差し込む朝日がさんさんと降り注いでいる。
一日の始まりを告げる光が部屋を満たしていた。
しかしクロードは朝の爽やかな空気に似合わない溜息を腹の底から吐き出した。
ただ、楽しそうに昨日の出来事を語る彼の主には、そんなクロードの様子はそれほど気にならないらしい。寝巻を着替えることもせず、熱弁をふるう。
「それでお姉様、おっしゃって……わたくしのことを…………!」
デレデレ、という言葉がこれ程相応しい表情もない。そんな顔でミルシーは語る。
……訊かなければ良かった。
昨日ミルシーがジュリアを探しまわっている間、クロードもミルシーを探していた。しかし結局彼女に会えたのは、エミリアの長い長い説教が終わった後。疲れきった彼女に事情を聞くことは出来ず、今朝ミルシーを起こしに来たついでに昨日の事について尋ねてみたのだが――
そしてミルシーは今、昨日自分が姉とどのような体験をしたのか、声を弾ませていた。
嬉しそうに語られる、彼女が昨日経験したことの数々。体験そのものより、『姉と共に体験した』ということに喜びを感じているように見えた。
クロードからすれば何をそんなに楽しいのかまったく理解出来ない。ジュリアのせいで危険な事に巻き込まれたのだ。今回は無事、怪我も無かったから良かったものの、またそんなことがあったらと思うと不安で胸がいっぱいだ。
しかし従者の心は主に伝わらない。
「昨日最後に言ってくださったんです! ありがとう、って。きっと今日からはわたくしのことをもっと目を向けてくださいますわ! ……そう考えると、こんなところでうだうだしてられません。一刻も早く身支度しなければ……!」
そう言って、ミルシーは寝巻に手をかける。
彼女の白い肌が見えて、クロードは慌てて背を向けた。
「ち、ちょっと待ってよ! ミルシーちゃん! 少しは気を遣って……」
「あら、クロードはわたくしの従者。何を気を遣う必要がありまして?」
その言葉にクロードの心中は穏やかでない。
……それは、見ても良いって事? むしろ単に男として見られてない?
……まさか……試されてる?
……いや、自分の彼女への想いは断じてそんな不埒なものじゃなく……
そんなことを考えながらも、微かに聞こえる衣擦れの音に耳をそばだてる自分が情けない。
クロードが悶々としている内に、あっという間に彼女は着替え終わってしまった。クロードの横を通りすぎると、部屋を飛び出す。
「ちょ、どこへ!?」
「もちろんお姉様のところへ!」
こちらを振り返りもせず、うきうきと応える彼女にクロードは思わず追いかけようとした足を止める。
窓際の白百合は、心なしか萎びている気がした。
「ミルシーちゃんに全部話したらいいと思うの」
いつもより早くジュリアの元へやって来たマーヤは開口一番にそう言った。
「……なんだ、挨拶も無しに」
ジュリアは思わず眉をひそめる。
まだ、着替え終わって髪を梳かしたばかりの寝起きだ。そこでいきなりそんなことを言われたら眉の一つもひそめたくなる。
「ジュリアだってさ、このまま嘘を突き通すのは心苦しいと思ってるでしょ」
「もっともらしいこと言って、本音は昨日借りた恩を返したいだけだろう」
「そうだよ」
「そうなのかよ!」
あっけらかんとした口調のマーヤに、ジュリアは思わず脱力する。
「そうは言うが、ミルシーにはなんて言うんだ? 実は男でしたー、って言っても絶対信じられない自信が俺にはある」
そう断言するのは男として悲しいものがあるのだが、ジュリアの今日までの経験からはそうせざるを得ない。
「じゃあ逆に言えは、ミルシーちゃんを信じさせることが出来れば言ってもいいんだね?」
「それは……」
ジュリア自身、ミルシーには世話になったと感じているのですぐに首を横に振ることは出来なかった。
「じゃあ、そういうことで」
「……勝手にしろ」
投げやりにそう応えると、マーヤはニヤリと口の端を上げた。
その笑みにジュリアは不穏な気配を感じる。
……嫌な予感がする。
「ちょっとま……」
前言撤回しようとした時――
「お姉様!」
朝日より明るい笑顔を振り撒きながらミルシーが部屋に入って来た。
ノックは無しか、とジュリアは思う。単純に育ちが違い、そういう習慣を持っていないからなのだが、着替えでもしていたらどうするつもりなのか。――むしろ、そういうことを目的に、意図的にしているのかもしれないが。
ミルシーはマーヤに目を止めた。
「マーヤさん……もういらっしゃってたんですわね。今日はお早いのですね」
意外そうなミルシーに、マーヤは話し出す。
「はい、ミルシー様にお話があって。……ジュリア様のことで」
ジュリアの名の一言で、ミルシーの関心が一気に高まる。
「お姉様のことで……?」
「そうです、えっと……いきなりなんで信じてもらえないかもしれませんが、実はジュリア男なんですよ」
真実は何の前触れもなく告白された。あまりにもあっさりと言ったのでミルシーが、
「……まさか」
笑いながらそう返すのにも少し時間がかかった。
……ほら、やっぱり。
ジュリアが内心いじけていると、マーヤは大きく頷く。
「ですよね! そう思うのは当然だと思います!」
……そんなふうに言うことないじゃないか。
いじけるのを通り越して、マーヤを恨めしく思っていると彼女は不気味なほどすがすがしい笑みを浮かべた。
「だったら、確かめてみればいいですよ」
言葉の意味を考えて、気付いた時にはマーヤはすでにジュリアの背後にいた。
身の危険を感じ逃げようとするが、マーヤは両手をジュリアの両脇に通し肩を固定する。羽交い締めの恰好になったジュリアに、マーヤはもう一度言った。
「確かめてみればいいよ、ミルシー様」
耳の近くでそう囁かれる。ジュリアは全身が総毛立つのを感じた。
逃げようとするも、マーヤの拘束はそれを許さない。
「おい……マーヤ!」
背後にいるのはいつものマーヤではない。
「大丈夫だよジュリア。痛くない、痛くない……」
空ろな声で何度も同じ言葉を繰り返す様子は、まるで魔物――
「み、ミルシー……? 貴女……」
「……何事も確かめてみねばわかりませんわ」
口調は平素の通りだが、ミルシーの瞳は檻の中の獣のように爛々と光っている。
「何事も、何事も……」
目の前にいる彼女も、まるで魔物のようだ。
前後を魔物に囲まれ、ジュリアは――
人気の無い廊下をクロードは歩いていた。
ミルシーのところに向かっているのだが、今日も彼女はジュリアにべっとりなのだと考えると気分は沈む。
俯きながら歩くクロードは背後から声をかけられた。
「……どうかしましたか?」
振り返ると、使用人服をみごとに着こなした女性がそこにいた。
「ああ、エミリアさん。おはようございます。何か用ですか」
「おはようございます。少し聞きたいことがあったのですが……。それより貴方は何か悩みでもあるような顔をしていますよ」
「えっと、それは……」
まさにその通りではあったが何と言うべきか分からず言い淀んでいると、エミリアは優しい口調で言った。
「よければお聞かせ下さい。……ミルシー様のことですか?」
こちらを見据えるその視線は、まるでクロードの心中をおおむね分かってるようだ。クロードも心を開く。
「はい、そうなんです……なんだかお城に来てから様子がおかしいというか……ミルシーちゃんは本当はもっとしっかりしているというか……」
「ミルシー様も久しぶりにご家族と会えて喜んでおられるのでしょうね」
「それは……分かってるんですが……たまに家族に対するものとはちょっと違う感情を感じるっていうか」
クロードの物言いは遠回しだったが、エミリアが彼の意図に気付くには十分だった。
「ジュリア様の事ですか」
「……はい」
ジュリアの前でミルシーは、今までみたことも無いような底抜けに純粋な笑顔を見せる。
それを見て胸が痛むのは、ジュリアのほうにその気が無いのが明らかだからか、それとも自分といた時には見ることが出来ない顔だったからか。クロード自身疑問を持ってしまうのだ。
後者だったとしたら従者失格だ、とクロードは思う。心の中でミルシーより自分のことを優先させているのだから。
ただ嫉妬じみた感情を抜きにしても、ジュリアのことは――王女に対してこんなことを言うのもどうかと思うが――気に入らない。正面から想いをぶつけるミルシーに対して、ジュリアの態度はいつも曖昧だ。本当に妹のことを思っているなら、もっと違う対応があるだろう。
……まぁ、結局そう考えるのもミルシーちゃんにあんなに好かれるジュリア王女のことが羨ましいからなのかなぁ。
自分も彼女に本気で、本当の気持ちを伝えられている訳ではない。
しかし、彼女への気持ちには揺るぎはない。あの日見た、凛とした眼差しの彼女は消えてはいないのだ。だから自信を持って言える。
「ミルシーちゃんは本当はもっと純粋で高潔で清く正しい心の持ち主なんです」
「分かってますよ。私もそう思います」
少年の堅い忠誠心を微笑ましく思うように、エミリアは同意した。
しばらく歩いて、ジュリアの部屋の前まで来た。
「ミルシーちゃんも、きっとここにいると思います」
「ジュリア様は身支度も終わってますから、入室しても大丈夫ですよ」
クロードは扉を叩いた後、扉を開く。
そこには――信じがたい光景があった。
「ちょ、止め……! マーヤ、お前も助け……」
「イタクナイ、イタクナイ……」
「ミ、ミルシー?」
「お姉様、大丈夫ですわ、ダイジョウブ……」
そこにあったのは、マーヤに羽交い締めにされたジュリアの服を剥ごうとするミルシーの姿だった。
クロードは無言のまま扉を閉めた。
「それでも好きです、お姉様! いえお兄様!」
「こら、抱きつくな!」
クロードの耳に扉の向こうの声が届いた。
感情を処理しきれず、クロードはただ先程も言った言葉を繰り返す。
「ミルシーちゃんは高潔で清く正しい心の持ち主なんです。本当は、ホントは……」
同じ言葉を、今度は自信なさげに。
「……分かってます」
エミリアの表情には、クロードへの哀れみが見える。
クロードの、ミルシーへの想いが揺らぐことはない。――おそらく。