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episode1 王女の秘密[3]

 マーヤが現状に冷や汗を流していた頃、ジュリアも状況を理解し始めていた。

 ……どうしよう!

 事態を理解したジュリアを襲う、焦燥。

 誰かに相談するべきか。どうすればいいのか。ジュリアには分からない。

「どうしましたか? ジュリアお姉様」

「……いえ、少し困ったことがあって……」

 焦りに支配された彼には、そう答えるのが精一杯だった。だがミルシーは、

「困ったこと!」

 そう目を輝かせた。

「是非わたくしにお聞かせ下さいませ! 必ずやお姉様のお役に立ちますわ!」

「え……」

 ジュリアは迷った。自分より彼女のほうが、城の外のことは詳しい。もしかしたら何か助けてくれるかもしれない。

 だが、ミルシーをこのようなことに巻き込むには抵抗がある。脅迫状には他言無用とあったし、相手がミルシーを誘拐しようとした以上、彼女の身に危険が及ぶ可能性が高い。

 しかし。

「どうか!」

 ミルシーの腕ががっしりとジュリアの腕に絡み付く。

「わたくしに……お話し下さいませ!」

 まるでそうしないと離さないとでも言うように。

「……もしかしたら、貴女の身にも危険が及ぶかもしれないことなのですが」

「さすがジュリアお姉様、お優しい! ですが心配はご無用。

 長らく城を離れている間、わたくしもムーア――世話を焼いてくれた騎士なのですが――彼女から武術の手ほどきを受けました。ジュリアお姉様の技量には遠く及びませんが、自分の身くらいは守れますわ」

 それは力強い言葉だった。

 だからジュリアは話してしまった。


「実は――」


 全てを聞いた後、ミルシーはいつもとは違う真剣な眼差しでジュリアに尋ねた。

「……それでお姉様はどうなさるおつもりですの?」

「……どうするも何も……この脅迫文に書いてある通りにする他ないと……」

「何をおっしゃっているのですか! よく考えて下さい!」

 ミルシーは、ジュリアが思わずたじろいでしまうほど強い口調で言った。

「いいですか、お姉様。彼らの目的はお姉様です。

 わたくしを……世間に存在を認められていない王女など誘拐してもなんの意味もないのです。

 お姉様一人で敵の元へ行けば、その時点でわたくし――いえマーヤさんは用済み。賊の顔を見てしまった彼女を生きて帰す理由なんてどこにもないのです」

 そうまくし立てるように言われ、ジュリアはやっと本当の意味でことの大変さに気付いた。

 自然と体が震え、息をするのが苦しくなる。

 ……俺のせいでマーヤが……。

 ――その時ジュリアの手がミルシーの手が包みこむ。

「……落ち着いてくださいませ」

 ジュリアは思わずミルシーを凝視する。自分を見上げる妹は優しい微笑みを湛えている。まるで慌てふためく自分をなだめるように。

 ……そうだ、落ち着かないと……。

 ジュリアは大きく一つ、深呼吸をした。

「……ありがとうございます、ミルシー」

「ふふっ、お安いご用ですわ」

「それでは……マーヤを無事に助ける方法を考えなくてはいけませんね」

「はい、わたくしもお姉様の力になります」

 冷静に考えて、ジュリアが最初に思い付いたのはエミリアに相談することだ。

 しかしそうなると、彼女を通じて王立騎士団も動くことになる。そうするとマーヤは城での地位を失うことになるだろう。

 それはマーヤの身の安全に代えられるものではないとは思っているが、出来れば避けたい。

 それにマーヤが誘拐されたのは自分が街に行こうとしたせい。自分でなんとかしたいという気持ちが大きい。

「例えば……指定の時間が来る前にマーヤを助ける、ということは出来ないでしょうか。

 ……彼女が今いる場所もわかりませんが……」

「そうでもありませんわ、お姉様」

 自信を持った声で、ミルシーは笑った。

「蛇の道は蛇、と申します」




 ミルシーに連れられ、ジュリアは再び城下街へとやって来た。

「……貴女は、この街について詳しいのですか」

 マーヤを助けるのに、今はミルシーだけが助け舟。彼女に頼るしかないが、不安が残る。

「いいえ、そう詳しくはありません。しかしどの街にも似たような人間が必ずいるものなのです」

 そう答える彼女の横顔にはたくましさがあり、彼女が長く城の外で生きて来たことを感じさせる。ジュリアが思わず、彼女が自分の妹であることを忘れてしまいそうになるくらい頼りがいがあった。

 ミルシーに連れられやって来たのは、マーヤとはぐれた市場だ。相変わらず活気があり、たくさんの人が行き交っていた。

 ミルシーは市場の隅で小さな露店――異国風の雑貨を並べている――の店主、白髪交じりな初老の男に声をかけた。

 硬貨を何枚か渡し、言葉を交わす。周りが騒がしく内容は聞き取れなかった。何か買い物でもするのか、と思い見守るも、何も持たずにミルシーは露店を後にした。

 不安そうに彼女の顔を窺うと、ミルシーは明るく言った。

「行きましょう、お姉様。マーヤさんの居場所を知るであろう者の所に」

「……はい」

 ジュリアはまた、ミルシーの後に続いていく。

 市場を離れ、路地裏へ。

 そこは先程までの活気ある市場と打って変わり、寂れた場所だった。

 狭い道の両側に、古い小さな家が肩を寄せ合うように軒を連ねている。人の姿は見えるが、皆一様に射るような視線を向けてくる。どこからか聞こえてくる赤ん坊の泣き声が、酷く物悲しく響いていた。

 一層不安になるジュリアだが、ミルシーはやはり物怖じせず路地裏に踏み込んでいく。

 ミルシーの足はある男の前で止まった。

 歳は三十代位だろうか。くたびれた服と帽子に無精髭。人目を憚ることもなく、足を伸ばして路上に座っている。酔っ払っている様子はないが、右手のジョッキは麦酒で満たされていた。

「お話しを聞きたいのですが」

 男は何も答えない。

 ミルシーは続けた。

「聞いていますか?」

 ミルシーには少しの注意も向けず、男はジョッキを口に運ぼうとする。思わずジュリアが眉をひそめそうになった時――

 銀色の物体が放物線を描き、ポチャリという水音と共にジョッキの中に入った。

 それがミルシーの弾いた銀貨だと分かり、ジュリアは思わず彼女の顔を見た。

「お聞きしたいことがあるのです」

「なんだい、お嬢さん」

 今度は答えて、男は顔を上げた。

「王女の妹を誘拐するような馬鹿な不届き者に心当たりはありませんか」

「……さぁてね。この街の裏側は、馬鹿な不届き者ばっかだ。他に情報はないのかい? こんだけでっかい街だ、それだけじゃあ分からんさ」

「それは……」

 いかにももっともな話だ。

 しかし彼が、マーヤの行方を知るための最後の頼みの綱。

「分かったら帰るこった……」

「ちょっと待って下さい!」

 ジュリアは思わずそんな言葉を発した。

 そして、急いで考えを巡らす。

「賊の根城は市場から離れていない場所にあると思います。白昼堂々、人質をそう長い距離運べないでしょうし……。そうなると彼らは、街の人間でしょう」

 しかし、彼らはジュリア達が城を抜け出したことを知っていた。騒ぎにはなっていないが、そのことに気付いた人間が城内にいてもおかしくない。

 王族と対立するものなら、城にはいくらでもいるのだ。

「ということは、賊は城の関係者と関係者がある……いや、雇われている?」

「だとしたら、彼らは相当金に困っていたのでしょう。普通に考えれば、王族を誘拐するなんて……リスクが高すぎますわ」

 ミルシーも考えを述べる。

「マーヤは腐っても騎士です。犯人は一人ではない。複数……ですが、報酬を山分けすることを考えればそう多くはないでしょう。二人、もしくは三人」

「なるほどぉ……」

 そう、男は無精髭をさする。

「……どうでしょう、探してくれませんか?」

 男は返事をせずに、ジュリア達が来た方向とは逆に向かって、「おーい、坊主ー」と叫んだ。

 すぐに身なりは貧しいが活発そうな少年が飛んで来た。

「――の……を、――……して――」

 男は少年に早口でいくつか指示を出し、黒い銅貨を握らせる。

 少年は力強く頷くと、どこかに駆けていってしまった。

「あの」

 やはり悠長に座り込む男に、ジュリアは顔をひそめた。

「私達、あまり時間が……」

「まぁまぁ、慌てなさんな。こいつが――」

 男がジョッキを掲げると、麦酒が波打つ。

「――なくなる頃には、坊主も帰ってくるさ」

 チビチビと酒を飲みながら、男はにんまりする。

 しばらくして、ジョッキの底の銀貨が顔を覗かせた時、本当に少年が帰ってきた。

 少年の報告を聞き終えると、男はジュリアを見上げた。

「喜べ、お二人。あんたらが探していた賊の根城……分かったぜ」

「本当に……!」

 喜ぶジュリアに、男は指を三本つきつける。

「銀貨三枚よこしな」

「高すぎますわ。もう既に一枚、払いました」

 すかさずミルシーが言った。

「あんたも隣のお姉さんも、それなりに高い身分なんだろ? 物腰で分かるよ。こんなとこでケチってたら良家の名が泣くってもんだ。身分相応の値段だ」

 彼女は険しい瞳で唇を噛みしめている。

 手持ちの金がないのだろうか、とジュリアが考えていると、ミルシーは押し殺したような声で言った。

「……身分相応な扱いを受けたことなんて一度もありませんわ」

 ジュリアは思わず息を呑んだ。

 家族と離れ身分を隠して生きていた彼女の孤独を、垣間見た気がした。

「……そうかい」

 男は空になったジョッキを差し出す。

「あと二枚」

「……分かりましたわ」

 ミルシーは言われるまま、二枚の銀貨を入れた。ちゃりん、という音に男も機嫌よさそうな顔をする。

「これで賊の居場所が分かる……良かったですわね、お姉様」

 優しく微笑む彼女を見ていると、先程の表情は演技だったのかもしれないとすら思った。

 無事マーヤの居場所を知ることが出来たジュリアとミルシーは、早速そこに向かっていた。

 しかしジュリアはある、抜本的な事に気付く。

「……このままなんの策もなく乗り込んで、大丈夫なのでしょうか?」

 敵は複数、しかも人質がいる。当然武器も持っているだろう。

 ジュリアは自分の剣の腕前には自信があったが――今は武器らしいものは何一つ持っていない。服装も、戦うには不向きだ。

 後先考えずに乗り込んで結果マーヤが傷付く、という筋書きだけは避けたい。

「……そうですわね。武器を持っていくにも、女性が剣や槍を持って街を歩いていれば不審ですし。……市場でなら調達出来ないということもないのでしょうが」

 ミルシーも足を止め、拳を顎にあてながら考える。

 しばらく無言のままそれぞれで考えていると、ジュリアが口を開いた。

「私に策があるのですが」

「そうなのですか! 是非わたくしにも……」

 ミルシーの表情を見ながら、ジュリアは言う。

「それにはミルシーの助けが必要なんです」

「もちろん! わたくしに出来ますことならなんなりと!」

 ミルシーの表情は裏も表もないような、満面の笑顔。

 その表情に内心ジュリアは胸を撫で下ろした。




 マーヤは、自分に向けられる懐疑の視線に内心穏やかではなかった。

 一度は納得した、二人組のうちの弟と呼ばれた方は再びマーヤを疑う。

「アニキー、やっぱオレ、不安ッスわ。よく考えたらオレら、『ジュリア王女が街に来てる』って話は聞いてても、一緒にいる女が妹だって話は聞いてないッスよ」

「だがしかし、巷で流れている噂は知ってるだろう? 王族に隠し子がいて今王城にいるって、もっぱら噂だ」

 そんな噂があったのかとマーヤは心の中で驚く。

 しかし、考えれば不思議なことではない。

 ジュリアの母親の親戚ということになっているミルシーだが、実際は実母のもう一人の王妃とよく似ている。

 性格はミルシーのほうが随分活発だが、艶のある金髪や、瞳の色、目や唇の形は母と瓜二つだ。

 そういう事実から事情を知らない使用人が、真実――ミルシーが王の子であることを推測して、それを街の人間に話すことも十分有り得ることなのだ。

 ……ミルシーちゃんの詳しく特徴までは、この人達は知らなかったんだ。それはラッキーかも。

 ……あれ? でももしそうだったら、私をジュリアの妹だって間違われることもなかったのかな。

 運が良かったと喜んだのも束の間、マーヤは己の不幸にうなだれる。

「確かにあんなに仲良さげに歩いてたッスけど……」

「そうだろぉ? 普通、城に仕える人間ならジュリア王女にあんなに馴れ馴れしくしないさ。非常識極まりないだろ。そんなちゃらんぽらんいる訳ないさ」

 ……確かに普通じゃないし、団長にもよく怒られるけど……そこまで言わなくても。

 マーヤはそう思うが、もちろん口には出せない。

「何とかして本物だって確かめられないッスかぁ?」

「そうだなぁ……例えば本物の王族しか答えられないような質問をするとか……」

「それ、オレらも答え知らないッス」

「そ、そうか……そうだな」

「……オレ考えたんッスけど。ジュリア王女を呼び出せたら、コイツはもう用済みッスよね。顔を見られてるし……。王女を誘拐した後の手間を減らす為にも、前もって始末してもいいんじゃないッスか」

「ええっ! ちょっと待ってよっ」

 誘拐されていた割には呑気だったマーヤも、さすがに慌てふためく。

「ほら、ジュリアが大人しく捕まるか分からないし、他の誰か連れて来るかもしれないし……その時、人質がいたほうが何かと便利で……だから始末なんて……ね! 考え直し……」

 そこまで言って、しまったと思った。

「……なんか、王族っぽくないな」

「というか、『ジュリア』って、呼び捨てにしたッス。やっぱり……」

 表情を強張らせるマーヤをよそに、二人は顔を見合わせる。

 そして兄は音もなく短剣を、弟は長い木の棒を手にした。

「あの……ちょっと待って下さい……ですわ……」

 混乱して言葉も無茶苦茶になったマーヤの顔が、恐怖に染まった――その時。


「そこまでですわ」

 少女の凛とした声が響き渡った。

 逆光の中、入口に立っていたのは丈の短いスカートに金の髪を二つに束ねた少女――ミルシーが、本物の王女の妹がそこにいた。

 どうして彼女がここに――そう思いながらも、ミルシーの隣の人影に視線を移す。

 ミルシーに比べて背の高いその者は、一見するとミルシーのお供の女、という感じだった。フードを被り、顔も分からない。

 しかしフードからこぼれる栗色の頭髪を見たマーヤは、その者の名前をすぐに頭に浮かべた。

 ……ジュリアだ……。

「だれだ、おまえら」

 兄が言うと、ミルシーは臆すことなく応えた。

「わたくしが……わたくしこそが本物のミルシー・グリーデント。正真正銘の、ジュリアお姉様の妹ですわ」

「な、なに!」

 二人の男の間に、衝撃が走った。

 確かめるようにマーヤとミルシーの顔を見比べ、叫ぶ。

「ま、まさか……!」

「証拠は! 証拠はあるッスか!」

 ……そうだ、証拠。

 マーヤには、ミルシーが身分を証明する方法が思いつかない。

 ヒヤヒヤしながら見守る。だが、ミルシーは落ち着き払った様子を崩さない。

「証拠……そんなものはありませんわ」

「だったら……!」

「しかし、わたくしはここに来ました。

 自分のせいで彼女が――」

 ミルシーは視線をマーヤに向け、さらに良く通る声を響かせる。

「――危険な目にあうなど、わたくしは我慢出来ません!

 わたくしはここにいます。貴方達のような輩は、恐れません。逃げも隠れもしませんわ。

 わたくしの身柄は好きにしなさい。その代わり、彼女は解放しなさい。……貴方達にとっても、その方が都合が良いのでしょう?」

 ミルシーの口調は力強くも高貴さを感じるものだった。

 男達は理解する前に、悟る。

 ――彼女の言うことに、嘘はない。

「……分かった。あんたの要求、のんでやるよ。ただし俺達のことは他言無用だ」

 ミルシーと従者、二人を力ずくで捕まえようと思えば、どちらかを逃がす恐れがある、とでも考えたのだろう。兄はそう言った。

「こっちの女は、お前の後ろの女に預ける。代わりにお前が人質になる……いいな?」

「わかりましたわ」

 ミルシーがそう答えると、弟はマーヤを柱に縛りつける縄を解いた。手首が縛られたままであるため、まだ完全に自由とは言えない。

 兄は細い縄を持って、ミルシーの元へやって来た。

「手を出しな」

「わたくしが貴方達のところに行くのと、彼女の身柄を預かるのは同時――良いですわね?」

「……わかったよ」

 差し出したミルシーの手首に、縄は巻かれていく。しっかりと結ぶと、兄は弟、マーヤとジュリア、ミルシーの間――部屋の中央に立った。

「ここで交換だ」

 マーヤの腕を掴みながら、弟は足を進め始める。ジュリアもミルシーと共に、部屋の真ん中を目指す。

 一歩。また一歩――

 両者ともに慎重な足どりで、無意識の内に息を殺す。

 弟達とジュリア達の距離は、少しずつ近付いていく。

 やがて、ミルシーとマーヤが横一列になり、緊張が最大になった時――

 動いたのは、ジュリアだった。

 袖口に隠し持っていたナイフを、目にも止まらぬ速さで取り出すと、マーヤへ。

 ジュ、という縄の裂ける音に、男達はジュリアの行動に気付いた。

「お前っ!」

 弟がミルシーを取り押さえようとする。

 その時、動いた拍子でフードがめくれたジュリアの顔が、弟の目に映る。

「ジュリア王女……?」

 思いもよらぬ人物の登場に、一瞬弟に隙が出来る。

 ジュリアはそれを見逃さない。手を伸ばし強引にミルシーをを引きはがす。

「ナメやがって……!」

 兄は苛立たしげな声をあげた。そして短剣を振り上げ、ミルシーとマーヤ向かって斬りかかる。

「危ない!」

 鈍い銀色に輝く刃に、ジュリアは反射的に叫び、マーヤの手を引いた。

 空気を裂く音と共に、短剣はただ宙を斬った。

 マーヤとミルシーの無事を確認しながらもジュリアは、視界の端にまた短剣を振り上げようとしているのを捉える。

 ジュリア達に出来る事は、たた一つ。

「逃げるぞ!」

 敵に背を向け、一目散に逃げ出した。




 ばたん、という自室の戸を閉める音と共に、ジュリアはいっきに体の力が抜けるのを感じた。

 両隣を見ると、ミルシーもマーヤも疲れ果てた様子だ。男達から逃げる為に疾走し、ここに来るまで緊張の連続だったのだから、致し方ない。

「でも……無事に帰ってこれて良かったよ」

 そういうマーヤの表情は、安堵の中からも疲れが滲み出ていた。

「ミルシー様もジュリアも、本当にありがとう」

 それでも、そう言うマーヤの顔に浮かぶのは優しい微笑みで、ジュリアはそれが嬉しくないわけではなかったのだが、

「……貴女は騎士でしょう。助けられてどうするんですか」

 ミルシーがいる手前言葉遣いだけは気を付け、無愛想な言葉を投げつけた。

「へっ?」と声を漏らし、マーヤは少し考える。

「……じゃあ、今度ジュリアがピンチの時は、ちゃんと私がジュリアを助けにいくよ」

 マーヤの手が、ジュリアのそれに触れた。

 その温もりが嬉しくて、しかし簡単に捕まってしまう彼女の身が心配で――そんなこととは関係なく頬が熱い。

 照れ臭さから何も言えず、ジュリアは俯いて自分のつま先だけを見ていた。

「もちろんミルシー様も、ね」

 マーヤがそう付け足したので、少し気まずさが減る。だから違う話題を持ち出した。

「……結局、エミリアにも見つかりませんでしたね。良かった……」

 ジュリアが胸を撫で下ろしたそのとき――


 音もなく戸が開いた。

「何をなさっているのですが、ジュリア様」

 噂をすれば影。

 ジュリア達の背後からかけられたのは、エミリアの冷静な声だった。

「え、エミリア……! 何って、これは……」

 ジュリアはマーヤや自分の服を見て言葉を詰まらせながら、苦し紛れに答えを吐き出す。

「か、仮装を……」

 冗談のような言葉にもエミリアは表情を変えず、ただ淡々と言葉を紡ぐ。

「……先程門番の騎士様から聞いた話なのですが……マーヤさん、街に行かれたそうですね」

 ギクッ、と肩を揺らし、分りやすい反応をするマーヤ。慌てて取り繕う。

「そうなの! その、ちょっと急な用があって……!」

「その時、少し背の高めの女使用人と一緒だったのだそうですね。その使用人、美しい栗色の髪にたいそう整った顔立ちをしていたとか……」

 今度はジュリアが、表情を引きつらせた。

 それを見たエミリアはあきれたように溜息を一つ。そして丁寧でありながら有無を言わせぬ口調で言った。

「……お話、お聞かせ下さい」


 ジュリアは事のあらましをすべて話した。――そうするより他に選択肢は無かった。

 エミリアはやはりまた溜息をついた。「分りました」と一言残すと、踵を返し退室しようとする。

「ちょっと待って下さい、エミリア! どこに……」

「レイリン様のところです。この度のことをお話しせねば」

 いきなり出た母の名前に、ジュリアは慌てる。

「それだけは……やめて下さい!!」

「そうはいきません。ジュリア様の不用意な行動のせいで、ジュリア様、ミルシー様が大きな危険に晒されたのですから」

 エミリアの口調はやはり淡々としたものだ。

「分っています! 私も反省してます……! だから……お母様には……」

「それはレイリン様がお叱りになるのが怖いからですか?」

「違います! いえ、それもあります、けど……余計な心配をかけたくないというか……」

 口をもごつかせながらジュリアは言う。俯きながら言葉を並べるその表情は、気恥ずかしそうだが真剣さがある。

「……分りました。今回はジュリア様の意思を尊重しましょう」

 その言葉にジュリアが喜びに満ちた顔をあげたのだが――

「その代わりに、私がジュリア様達をお叱りします」

 次の瞬間、エミリアの全てを凍らす冷たい言葉に、ジュリアの喜びの表情も凍てついたのだった。


 その日ジュリアは、一生エミリアに無断で街になど行かないと心に誓うことになる。

 エミリアの説教は晩餐の時間が来ても続いたのだった。




 路地裏。既に日は沈んでおり、あたりは昼間より薄気味悪い。

「ゆ、ゆ、許してくれ!」

 そんな所で、大の男が二人、肩を並べて両膝を地に着けて頭を下げる。

 二人を見下ろすのは黒衣の人物。膝下まである外套と目深に被ったフードで、一見性別すら分からない。だが、僅かにみえる口元からは、この人物が女であることが推測できる。

「まさか人違いだなんて思わなかったんだ!」

 二人のうちの一人――兄は苦しい弁明をする。

 それを嘲笑するように、黒衣の女の唇は弧を作った。

「くすっ……人違い? 報酬を前払いで受け取っておきながらよくもまあ、そんなことが言えますね」

「金なら返すさ! 借金を返すのに半分くらい使っちまったが……いや、また借りてすぐに返す!」

「私にとっての問題は、そんなことではありません。あなた達が私のことを誰かに言わないかということ」

 笑みを崩すことなく、女は短剣を取り出した。十字架のような形の黒い剣。両側に刃は付いていない。だが先端は針のように鋭利で、刺突に特化した剣だ。

 その剣が取り出されたことの意味するところを悟り、二人は顔が青くなる。

「言わない! 決して言わない! 何があっても! 信じてくれ……!」

「頼む、この通りッス!」

 地面に額を擦りつけるようにしながら、二人は許しを請う。

 しかし女は二人の懇願を、呆気なく一蹴した。

「あなた達を信じる? くすくす……馬鹿馬鹿しい」

「そんな!」

 悲鳴のような声と共に兄が顔を上げたときには、女は腰を落とし兄に近付いていた。

 女のフードが少しめくれ、兄は彼女の顔の全体を目にする。白い顔の左半分を覆う眼帯。右目で三日月を作り、こちらを嘲笑っている。

 その顔に兄が釘付けになった……そのときだった。

 兄の左耳に激痛が走る。

 反射的に声にならない悲鳴を上げ、耳を押さえる。赤い血がとめどなく溢れ、手から零れ落ち地面に染みを作った。

 弟が声を上げるのをどこか遠くのことのように聞きながら、兄は顔を上げ、女の短剣が血濡れているのを見る。何が起こったのかは考えるより先に理解した。

 女は表情一つ変えずに、なおも嘲う。

「くすくす……どうかその恐怖を忘れないで下さい。でないと……次は心臓に穴が空きますよ?」

 狂気を孕んだその笑みに、二人はただ頷いた。

 二人の様子を確認した彼女は路地裏を後にし、一人不気味に呟いた。

「急ごしらえの手駒では、まぁこんなものでしょうが……あの方が聞いたらさぞがっかりなさるでしょうね。これであの方も自ら腰を上げる必要が出来たのですから。

 くすくす……ですがまぁ、今は……」

 建物に阻まれ見えない、城のほうを向いて女は言った。

「どうぞ、幸せな日常を。ジュリア王女」

 女の夜の闇のように黒い瞳。その瞳は純粋な悪意に満たされていた。



 女の頭上に広がる夜の空。


 夜空の月は穏やかに光り、星達はいつもと同じように瞬いていた――今は、まだ。


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