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episode7 いつか雨がやむまで

 離宮での戦いから五日が経過した。


 来客用の部屋の一室にミルシーはいた。

 もう太陽がずいぶん高く上がっているというのに、寝台の上でシーツに包まっている。いつもは結ばれている髪は下ろされ、服装も寝間着のままだ。

 五日前の戦いで負った傷はまだ完全に癒えてはいない。とりわけ、剣が貫通した左手はまだ痛む。

 しかし、起き上がれないほどではない。彼女が寝台を離れられずにいたのは――精神的な理由からだった。

 瞼を閉じ思い出すのは、決まってあの時のこと。あの戦いの夜が明け、ジュリアと再会した時だった。


 兄の無事を喜ぶミルシーをジュリアは優しく抱きしめた。

 不意の出来事に、鼓動が高まる。

 ジュリアの手が、そっとミルシーの傷に触れた。

「ごめん……ありがとう」

 服越しに伝わる温もり。ジュリアの声が耳をくすぐる。その心地好い感覚に思わず心も蕩けそうになる。夢のような、優しい瞬間だった。

 だが、それは一時に過ぎなかった。

「お前は俺の……大切な『妹』だ」

 先程まで高まっていっていた心臓の鼓動が、止まってしまったかのような錯覚に陥った。目の前の風景が、急に色褪せる。――朝の太陽が、皮肉なまでに澄んだ光でミルシーを照らしていた。


 目を開けたミルシーは、いっそうシーツに深く潜りこんだ。


 ジュリアは彼女の恋心を拒否した。そして、代わりに妹としての彼女を受け入れたのだ。

 それはミルシーが最も恐れていたことで――もしかしたら、最初から望んでいたことかもしれない。


 ミルシーはまだ気持ちの整理がつけずにいた。

 長年支えにしてきた、『恋心の対象としてのジュリア』を失ったことは、ミルシーが思っていた以上に彼女の心を揺れ動かしたのだ。

 その不安をごまかすため、この五日間、惰眠を貪ったり、何をするでもなくぼーっとして過ごしたりする生活が続けていた。

 そんなことをいつまでも続けている訳にはいかない。立ち直らなくては。そう焦る気持ちもあった。だが、そう思ったところで何をすればいいのだろう? 何を考えて生きればいいのだろう。自分の夢は? 目標は?

 思い浮かんだのは、『立派な王族になること』だった――それは確かに目標だったけれど、どこか実感がなく、ミルシーの行動への意欲を鈍らせた。

 傷のこともあって、何もせずに日々を過ごす彼女をたしなめる人間もおらず、堕落した生活から抜けられずにいた。

 いや、違う。一人だけいた。


 いきなりカーテンが開かれる。日光が寝ぼけたミルシーを刺激した。

「クロード……」

 ミルシーは掠れた声で、非難するように、カーテンを開けた少年の名を呼んだ。

「いつまで寝てるつもり?」

「…………」

 彼の言うことはもっともだったので、きまりの悪いミルシーは沈黙を続けた。呆れた顔で溜め息をついたクロードは、ミルシーと正面から向かいあった。

「いつまで何もしないでいるつもり?」

「……何をしろと言うんですの?」

 シーツの中から、こもった声でミルシーは返した。

「僕は従者だから。僕が命令なんて出来ないよ」

 しれっとした顔のクロード。

「…………」

「でも分からないことがあるなら答えを探せばいいし、知ろうとすればいい。出来ないなら、出来るまでもがく。なんでも迷わずすぐに行動移すのが、ミルシーちゃんでしょ? 僕はそういうミルシーちゃんのそういうところががす…………素敵だと思う」

 そういう彼を見てミルシーは思った。

 ……主の自分が、なんてぶざまな姿を晒し続けていたのだろう。 弾けるように、目が醒めた。


 そしてここ数日、考え続けていた様々なことを思い返した。

 王族のこと。この国のこと。

 自分のこと、ジュリアのこと、父と母のこと、マーヤのこと、エヴァリーヌのこと、クロードのこと。

 今までのこと。今のこと。これからのこと。

 別々に考えいたそれらを、今つなげていく。

 そうすれば、今まで見えなかったものがうっすらと見えてくる。自分の進むべき道、とまでは言わない。だが、行動すべきことくらいは見えた。

 ……ならば、迷うことはない。

 ミルシーは勢いよく起き上がった。ずっと横になっていたため、体の至る所が軋んだが、そんなことを気にしている時ではない。

「ありがとう、クロード」

 そこには、さっきまでの彼女はいない。

 行動する。そのためにはまず着替えようと、早速寝間着に手をかけた。

「……えっ、ちょっと待ってよ!」

 いきなり着替えを始めた彼女に、クロードは赤面しながら部屋を飛び出した。




「確かに迷わずすぐ行動とは言ったけど……少しは気をつかってよ」

「あら、クロードは私の従者ですわ。気を遣う必要なんてどこにありますの? そんなことで動揺するなんて、平常心が足りませんわ」

 クロードの言葉にすました顔で返す彼女は既にいつも通りの彼女だ。服装はいつも通り、スカートの丈は短いがきっちりとした服で、髪も二つに結わえられている。

 弱った彼女もいつもと違う可愛さがあると少なからず思っていたクロードだが、元に戻った彼女に心から安心する。

 今二人は、部屋を出て廊下を歩いている。何処に向かって歩いているのか、クロードは聞き損ねていた。

 しばらく歩いていると、だんだん人の気配が無くなってきた。クロードも来たことのない場所だ。

 更に歩くと騎士に会った。騎士は何もいわずに過ぎ去ろうとするミルシーを引き止める。

 ……こんな人気のない所で何を見張ってるんだろう。

、クロードは内心首を捻りながら、ミルシーを見守る。彼女はどうしてもこの先に用があるらしく、頼み込んだ。

「どうしてもお願いします……! 国王陛下にもお話してありますわ!」

 ミルシーの必死の懇願の末、なんとか通行が許可された。

 そこから少し行った、大きな扉の前でミルシーは足を止めた。奥に部屋がないことも考えると、彼女の目的地はここらしい。

「あの、ここは……」

「エヴァリーヌ王女が……滞在している部屋ですわ」

 クロードは思わず息を呑んだ。あの夜、彼女と対峙したときのことが思い起こされた。

 事件後、彼女がどうなったかは聞いてはいる。あの夜の後も、事件のことは公開されなかった。国王な判断によることだ。

 王城に連行されたエヴァリーヌは、表向きは『滞在』ということで部屋の一室に軟禁されている。彼女の騎士や従者も身柄を取り押さえられているという。――もちろん、シャムリーやフィーネもだ。

 そんなエヴァリーヌに何の用があるのか。

 それは分からなかったが、クロードは何も言わずに、扉に手をかけるミルシーを見つめた。


 微かな音と共に、扉が開いた。

 部屋の中は、今が日中であることを忘れるほど薄暗い。

 エヴァリーヌは部屋の中央にいた。彼女は椅子に体を預けるように座り、頬杖をついたまま微動だにしない。瞳だけを動かし、ミルシーとクロードを見た。

 室内の空気は、息をするのを憚られるほど重い。堪らずクロードは、唾を飲み込んだ。

 ミルシーは部屋の隅の机にある皿を見た。朝食なのだろう。食べ物はほとんど手つかずのまま残されていた。部屋の明かりが少ないせいかもしれないが、エヴァリーヌの顔色は悪い。前に見えた時より、やつれて見えた。だが、その眼光までは弱ってはいない。

 ミルシーは意を決して沈黙を破る。

「……お久しぶりです」

「お久しぶりです、ミルシー王女。このようなところまでお越しいただき、光栄ね。一体何のご用かしら」

 どこかけだるそうな調子でエヴァリーヌは答えた。

「エヴァリーヌ王女は……ここから逃げようとは思わないんですの?」

「逃げようもなにも、私には貴女のような身体能力はないもの。もし貴女が私ならそうするのかもしれないけれど」

「いいえ」

 ミルシーは首を振った。

「わたくしなら、そうはしませんわ。わたくしが捕まってクロードも捕まった時、その時に私が逃げることができたとしても……私はきっとそうしない。わたくしが逃げたら、クロードが危険な目に遭うでしょうから」

「……貴女はそんなことを言いに来たの?」

 エヴァリーヌは少しあきれたようにそう言っただけで、他には何も言わなかった。

「そうではありませんわ。あの夜貴女がいったことについて……尋ねたいことがありますの」

 あの夜――クロードの脳裏に五日前のことが蘇る。

「……なにかしら」

「あの時、貴女は自分のことを『駒』だと言いましたわ。……それは……『駒』を動かしている者が、つまり貴女に何らかの命令をした者がいたということではありませんか?」

 エヴァリーヌは一瞬目を見開いた。そして先程までにも増して、険しい顔をする。

「……もし、私がそれを肯定したとして……だからどうだと言うの?」

「どうでもありませんわ。ただわたくしが知りたいから尋ねただけですから」

「そういうことなら、私が貴女の質問に答える義務はないわ」

「……わかりましたわ。ならば、私は失礼することにしますわ」

 少し王女の目を見ただけで、ミルシーはびっくりするくらいあっさりと、退いた。そそくさと部屋を立ち去ろう彼女に、クロードは声をかけた。

「わざわざ来たのにそれでいいの?」

「無回答が答え……それで十分ですわ。さぁ、次に行きますわよ」

「え、次?」

 彼らはそのまま部屋を出て行った。




 残されたエヴァリーヌは静かに目を閉じた。瞼の裏に映し出されるのは、色褪せた過去の記憶。

 それはどれだけ色褪せようと、決して忘れられることのない記憶。

 色を失っても、今なお彼女の胸の真ん中に在りつづける残酷な程に優しい記憶。



 ――むかしむかし、大陸の南西にあるある王国に、一人のお姫様がいました。

 可愛らしくて利発な彼女は王国の民から愛され、また彼女も国や家族を愛していました。

 そんなお姫様は十歳になったばかりの頃、一人の少年騎士と出会います。少年騎士はその剣を、自らが仕える王女の為だけに振るうことを誓いました。


 お姫様が自分に忠誠を誓う少年騎士に惹かれ、また少年騎士も、愛らしい姫君淡い恋心を抱くようになります。幼い二人がお互いの想いを確かめ、恋におちていくのには長い時間はいりませんでした。



 グレイ・ケイシュ国王城の中庭。うららかな風か吹き、いろとりどりの花が咲くそこに、一人の姫君がいた。

 彼女の美しい黒髪が風になびく。彼女は、その髪を綺麗だといった少年のことを思い出し、頬を赤らめた。


 そこに駆けて来たのは、金髪の少年騎士。

「エヴァリーヌ王女……! ここにおられましたか!」

 急いで来たのだろう。少年騎士は息を切らして言った。

 疲労の浮かぶ顔を窺いながら、王女は言う。

「ごめんね、シャムリー……怒った?」

「まさか! ただ……心配しただけです」

 首を振る彼の表情には、既に疲れた様子はない。

「よかった。あのね、シャムリー。さっき考えてたんだけと、シャムリーのことを『シャムリー』って呼ぶのはなんだか他人行儀だと思うの。だから……シャムって呼んでいい?」

 少し身長差があるため、自然にエヴァリーヌは上目遣いになる。自分をまっすぐ見つめる彼女に、シャムリーは自然に微笑みがこぼれた。

「もちろんです。エヴァリーヌ王女のお望みとあらば」

「本当! 嬉しい!」

 エヴァリーヌの顔に満面の笑みが浮かぶ。

「じゃあシャムも私のこと、エヴァって呼んで!」

「そんな……恐れ多いです……!」

 途端に、王女の表情が変わる。

「ううー! ……エヴァって呼んでくれなきゃやだ!」

 拗ねたように瞳を潤ませるエヴァリーヌ。そんな彼女に、心臓がひっくり返りそうに感じながらも、シャムリーは彼女の名を呼ぶ。

「……そ、それでは……エヴァ様、と……呼ばせていただきます」

「『様』はいらないのに……」

「ですが……」

「シャムは私のこと嫌い?」

「そんな訳ありません!」

 思わず、シャムリーはエヴァリーヌの手を掴み、力強くそう言っていた。手と手が触れていることに気づき、幼い二人の頬は熟れた林檎のように赤くなる。

 シャムリーは慌てて手を離す。

「嫌いな訳ではありません。ですが自分は、まだまだ未熟な身。エヴァリーヌ様とは、釣り合いません……」

「じゃあシャムが今より強くなって立派な騎士になったら……私のこともエヴァって呼んでくれる?」

 エヴァリーヌは、さっきまでシャムリーに触れていた手を握りしめながら、言った。

「私も……立派な王女になるから。ね?」

「……はい」

 シャムリーがしっかりとそう答えたのを聞いて、エヴァリーヌははにかんだ。

「じゃあ、それまでずっと一緒だよ」



 ――エヴァリーヌは自分の名を呼ぶ声が聞こえたので、目を開いた。

 眼前にいたのは、名前も知らない異国の騎士。彼は淡々と述べた。

「国王陛下がお呼びです」

 急な話だったが、エヴァリーヌは、『ああ、やっとか』という思った。

 王城に来てから何も伝えられず、この部屋に閉じ込められたままだった。その間、いつこの時が来るのかと待ち続けていたのだ。いつ崩れるかわからない、永遠に続く橋を渡るくらいなら、いっそ崩れろと願い続けていた。

 だから、彼女の心には安堵にも似た気持ちがあった。

 早く立つようにと、手を伸ばす騎士。エヴァリーヌはそれを払いのける。

 ――無礼者が。

 鋭い双眸でそう騎士を咎めた彼女は、立ち上がった。背筋を正して立つその芳姿からは、気高い彼女の王族としての誇りが溢れていた。

 外を見ると、くすんだ色の雲が空を覆っていた。今にも雨の雫が地上に降って来そうなほど暗い空だ。それは雨の多かった彼女の母国を思わせる空模様だった。

 祖国に帰る望みを失った王女を慰めるように、皮肉るように――暗雲は立ち込めていた。




 彼女が連れてこられたのは、謁見の間。五日前、彼女が初めてグリーデント王国の王族と顔をあわせた場所だ。

 今はその時ほど人はいない。玉座に王が腰掛け、他の王族や騎士がいるだけだ。そしてその時とは違い、エヴァリーヌの方のは従者の一人もいない。

 ジュリアの姿も見えた。手には包帯。そして、深い茶色のドレスを纏っていた。エヴァリーヌを王城に連れて来た、ルーカスの姿もあった。マーヤの姿はない。

 薄手の服越しに、場のひんやりとした空気が伝わる。日をとるために設けられた窓からは、殆ど光が入らず、室内は暗かった。

 エヴァリーヌが来ると、その場にいた全員の視線が彼女に集まった。

 王女は怯むことなどなく、進み出た。

 静寂の中響く、彼女の足音。そして、エヴァリーヌはラランドット国王と、正面から顔をあわせた。

「久方ぶりだな、エヴァリーヌ王女。ご機嫌はいかがかな?」

「お陰さまで」

「全く恐れいる。敵国に一人いるのに、その表情には恐怖一つ浮かんでいない。さすがにグレイ・ケイシュの王女様ともなれば、肝が据わっている。息子に見習わせたいぐらいだ。恐怖どころか、むしろ安心しているように見えるのは気のせいかな?」

 饒舌にそう言う国王に、エヴァリーヌは不愉快そうな表情で返事をした。

「今日はそんなことを言う為に私をここに呼んだのでしょうか。それほど、国王陛下はお暇でなかったように思いますが」

「もちろん、くだんの用件についでだ。――賢明な貴女なら分かっているのだろう? 自分のしたことの重大さが」

 王女は何も言わず、服の袖をぎゅっと握った。

「エヴァリーヌ王女、何か言い残すことは?」

「……一つだけ。従者達は……私の従者達は、許してやって下さい。国王陛下の寛大なお心に、期待します」

 慈悲深い王女を演じているのかと、一瞬ラランドットは疑った。だが、エヴァリーヌの表情から、決して演技でないと理解する。

「分かった、確かに聞き届けた。では、改めて貴女の処遇を伝えよう」

 ラランドットはそこで言葉を止めた。

 もう一度口を開けようとした、まさにその時。


 大きな扉が、音をたてて開かれた。


 その場にいた全員の視線が、扉を開けた人物に向けられる。


 そこにあったのは、エヴァリーヌが今この場で最も見たく無かった顔だった。


 銀の刃の剣を手にし、彼は立っていた。纏ったグレイ・ケイシュの騎士服の端からは、包帯が見える。

 五日ぶりにみるその顔は、少しやつれていた。だが、瞳は野生の獣のように、爛々と光っている。誰もが予想しなかった彼の登場に、一同は驚き入る。

「シャムリー……! どうしてお前がここに……!」

 ジュリアの口から自然にそんな言葉がこぼれた。


 どうして、ここにいるのか。――その答えは、シャムリーが持つ刃の、鈍い輝きが語っている。きっとここに来るまでに、シャムリーは何人かの騎士を倒したのだろう。剣は彼らから奪ったに違いない。

 エヴァリーヌの顔には、先程までとはまるで違う表情があった。驚きと悲しみ、怒りが篭っていた。


 彼は物言わずに、歩みを進める。

 咄嗟にルーカスは剣を抜き、彼に切り掛かる。剣と剣が交わり、鉄がぶつかる音が静寂を引き裂く。

「何のつもりだ……シャムリー! 王女を助けられるとでも思ったのか!」

 交わった刃越しに、騎士と騎士の視線も交わる。

「…………」

 シャムリーは何も言わない。眼光は、その剣のように鋭かった。

 ルーカスは、舌打ちを一つする。

「王女の忠犬……いや、狂犬か!」

 シャムリーは、ルーカスの剣を押し返した。

 思わず、ルーカスの背中に冷や汗が走った。彼は傷もまだ癒えず、ここ数日まともに体も動かしてはいない筈だ。一体どこにそんな力があったというのか。

 再び剣を交えようとするルーカスに目もくれず、シャムリーはエヴァリーヌの手を掴んだ。彼は王女の手をひいたまま、部屋の外めがけ駆け出した。




 謁見の間より逃走した彼らは、そのまま城を抜け出した。

 エヴァリーヌが国王に呼び出されたことは、殆ど知られていなかったらしい。お陰で警備の目留まることは無かった。それでも王女を連れたシャムリーが逃げきれたのは、運が良かったからだと言える。

 人気のない道を選び、少しでも城から離れようと、王女の手をひく。エヴァリーヌが何を言おうと、シャムリーが彼女の手を離すことは無かった。

 だが、二人の逃走劇は終わりを迎える。

 城下街でも、特に寂れた地区に二人が来た時だった。エヴァリーヌの靴が壊れた。王女の靴は、街中を走り回る為になど作られてはいなかったのだ。

 ずっと走っていたエヴァリーヌは、息を切らしていた。

「……もういい! もういいから……その汚い手を離しなさい!」

 シャムリーは手を離す。そして裸足になった王女の足をみて、言った。

「その足では走れません……背負います」

「何を言っているの!?」

 彼の傷は癒えてはいない。体力的には限界に近いはずだ。

「身の程を知れ! お前なんて消えろ……消えてしまえ! ここからいなくなってしまえ!」

 空からこぼれ落ちた雫が、地にしみを作る。そのしみは、一つ、また一つと増えていった。

「もう……いいでしょう?」



 それは色褪せた優しい記憶。

 色褪せても決して消えない記憶。

 消すことなど、できるはずはないのだ。消えるどころか、今なお胸を締め続けているのだから。



 幸せな姫君は気付いてしまった。

 自分と自分を想う騎士との恋は、許されることのないものだということに。

 許されざる気持ちを持ち続けたら、どうなるか? ――幼い彼女は考えた。


 彼は騎士ではいられなくなるかもしれない。

 つまりそれは、少年が彼の誇りである剣を奪われてしまうかもしれないと言うこと。

 そのことは彼女が最も望まないことだった。

 だから彼女は決めた。

 自分は自分の恋を諦めようと。そうすれば、彼も自分から離れていくだろうから。

 自分を想う少年を嫌うことなど出来なかった彼女は、少年が自分から離れていくようにしようとした。


 そう決意してからだった。

 彼に笑顔を向けることをしなくなった。

 彼が綺麗だと言った髪を切った。

 彼からのささやかな贈り物を捨てた。


 最初は小さなものだった拒絶の振る舞いは、だんだん大きくなっていった。

 そうやってさも彼を嫌うかのように振る舞うのは、彼女にとって辛いこと。

 だから祈った。早く彼が自分から離れていってしまえ、と。

 彼女の拒絶がどんなに続いても、どんなに酷いものになっても――その矛盾した想いが聞き届けられることは無かった。


 二人の関係がどんなにいびつに歪んでも。

「それまでずっと一緒だよ」

 幼い日の約束だけが、守られ続けられた。




「本当は誰より愛しくて、大切な存在だったんです。例えば、シャムリー様に近く女がいたら、嫉妬に狂って我を忘れてしまうほど」

 ミルシー、クロードが次に訪ねたのはフィーネだった。

 簡素な作りの部屋に軟禁されていた彼女に、ミルシーは言った。

 エヴァリーヌのことが聞きたい、と。

 フィーネは眼帯越しの目を撫でながら語り出した。隠されていないほうの目はどこか遠くを見つめていた。

「エヴァリーヌ様にとってのシャムリー様も、シャムリー様にとってのエヴァリーヌ様も、間違いなくかけがえのない存在です。それでも二人の心が交わることはいない――いえ、お二人は既にお互いの心を知っているのかもしれません。それでも、シャムリー様はエヴァリーヌ様から離れることをしなかった。

 エヴァリーヌ様はシャムリー様をいくら罵っても、騎士の地位を奪うことはしなかった。何が二人を結び付けたんだと思います?」

 フィーネの問いに、ミルシーは答えられなかった。

 フィーネは言った。

「それが、すなわち、愛です」

 五日前、ミルシーが言った言葉と同じ言葉を。

 自嘲気味にフィーネは続けた。

「最初から敵いっこなかったんです。二人の関係に横槍を入れようなんて、無理だった。この左目は、それを思い知ったときに失ったんです。

 だから、私は見ていたかった。あの二人のどこまでも矛盾した、深い深い愛の物語を。残酷なほどに優しくて、哀しい恋物語を。

 物語の顛末を見届けることが出来そうもないのは――すこし残念です」

 フィーネは、外を見た。

 灰色の空からは、幾つもの雨粒が降り注ぐ。地面に落ちた雫は、弾けるように形を失っていった。

 小さな声で、彼女はつぶやく。

「この雨は……いつになったら止むんでしょうね」




「エヴァリーヌ様、俺は……!」

「黙れ! お前の声なんて聞きたくない!」

 シャムリーの言葉を、エヴァリーヌの感情的な声が打ち消す。

 雨足はすぐに強くなっていった。雨が地面を、エヴァリーヌとシャムリーを打ち付ける。

 雨垂れが体を伝うのなど、気にせず、エヴァリーヌはシャムリーを見た。

 ……自分など置いて、逃げろ。

 そう、伝えたかった。


 そのとき人影が現れ、彼らを取り囲んだ。

 人影はグリーデントの騎士達。既に剣を抜いていた。

 シャムリーはエヴァリーヌをかばうように、背を向けた。

 一人の騎士がシャムリーに切り掛かる。

 シャムリーはそれは避けたが、次に来た騎士の攻撃は回避出来なかった。


「シャムリー!」

 肩から胸にかけて、深い傷が走る。

 鮮血が舞い、シャムリーはそのまま倒れた。

「シャムリー……シャムリー! 貴女はどこまで馬鹿なの! 愚か者!」

 エヴァリーヌは屈みこみ、シャムリーの肩を掴む。赤い血がべっとりと手に付着した。

 シャムリーの血が、雨と混じって地面ににじんでいく。


「エヴァリーヌ様」

 聞き覚えのある声に名を呼ばれ、エヴァリーヌは顔を上げた。そこには、見覚えのある顔が――マーヤがそこにいた。

「エヴァリーヌ様。私、ずっと謝りたかったんです。あの時のこと。

 エヴァリーヌ様がどんな気持ちでいたか知らないであんな言葉を言ってしまったこと」

 彼女が言っているのは、五年前、マーヤがエヴァリーヌを怒らせたときのこと。

「でも、今また、同じ言葉を言わせて下さい」

 雨のせいで彼女の表情はよく見えない。

「エヴァリーヌ様は……もっと素直になったほうがいいと思います」

 今のマーヤは知っている。その言葉が、シャムリーを想い心を偽り続けた彼女をいかに傷付けたか。

 だが、彼女はもう一度その言葉を言ったのだ。

「これで最期、だから」


「…ぅ……ぁ……」

 エヴァリーヌの口から声にならない声が漏れた。

 彼女の頬を伝う雫は、雨雫というはあまりに温かく、優しすぎる。

「わ、わたしは……!」

 血の気を失っていくシャムリーの顔を見る。

「……ずっとずっと、大好きだった……愛してた……! だから……嫌、死なないで……!」

 すると、シャムリーの手が涙を拭うかのようにエヴァリーヌの頬に触れた。

 最後の力で、彼は唇を動かす。

「俺は……幸せです」

「シャム……しゃべらないで!」

「エヴァ様が……こんなに近くにいる」

「シャム……!」


 エヴァリーヌはシャムリーに顔を近づけると、その唇に自分の唇を重ねた。

 時を止めるかのような、優しい口づけだった。


 長い月日を経てやっと結ばれた二人を祝福したのは――冷たい雨のみであった。

 この雨はいつになったら止むのだろう。いつか止む時は来るのだろうか。

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