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episode6 エミリアの戦い

 早朝。朝靄に包まれた森の中を、一騎の馬が疾走していた。

 艶のよい毛並みが朝の風になびき、力強い足が地を打つ。そんな馬にまたがるのは、まだ若い女だった。使用人服の上から、外套を纏っている。

 風のように駆ける駿馬に、それに跨がる女。その浮世離れした光景に、彼らを見た者は、『夢だった』、『化け物を見た』と思った。


 彼女が王都を出て丸一日以上。既にグレイ・ケイシュ王国との国境近くまで来ていた。

 普通なら二日以上はかかる距離だった。それを半分ほどの時間でここまで来れたのは、常軌を逸する強靭さを持つ馬と、それと同じくらい常軌を逸するこの女――エミリアの技量の為だ。


 ……ロエル様が危ない。

 そう思い続けたエミリアは道中、食事はおろか、休憩も挟まずここまで来ていた。

 ……無理をさせてごめんなさい。

 いくら強い馬だといっても、このような長時間、走り続けて平気な訳がない。だが、彼が大地を蹴る速さがおちることは無かった。

 主の為に。ひたすらそう思う自分の気持ちが伝わり、それに応えてくれているのかもしれない。

 馬に人間のような感情や意思があるかは、エミリアには分からなかったが、思わずそう考えてしまった。


 ロエル達の視察の日程が予定通りに進んでいれば、彼らは既に国境近くまで来ているはずだ。もう手遅れかもしれない、という不安が脳裏をよぎった。グレイ・ケイシュの魔の手が、すでに及んでいるのではないか。

 もちろん、護衛の騎士は同行している。だが、敵もそれは承知のはず。また、グレイ・ケイシュの要求により、視察団の人数が制限されていたため、護衛は十分ではないと聞いている。

 だが、エミリアは後ろ向きな考えはすぐに捨てた。

 不安に思ったところで何か現状を変えられるわけではない。 自分に出来るのは、一刻でも早くロエルの元へ馳せ参じる為、集中を切らさないこと。

 ……さて、これからどこへ行きましょう。

 国境を越えるにはいくつかの道がある。どの道を使うかまでは、詳しくは知らない。大方の方向は分かっていたので、そちらに向かって走っていたが、ここから先はそうは行かなかった。

 仕方がないので、最も可能性の高い道はどれか思案していたとき、何か小さいものが顔の横を通り過ぎた。

 前方を飛ぶそれを目をこらして見ると、一羽の白い鳩だ。それはエミリアの前を、まるで導くかのように飛び続けていた。

 自分に馬術を教えた獣使いの男の顔が浮かぶ。彼なら鳩にこれくらいのことは仕込みそうだ。

 目の前を飛ぶの鳩が、彼が差し向けたものだという確証はない。しかし、他に頼りになる者はいない。エミリアは躊躇いなくこの鳩の先導に続くことを決めた。


 グレイ・ケイシュに近づくに従い、空は曇り、雨が降り始めた。この時期、グレイ・ケイシュでは長く雨が続くらしい。

 その中を、彼女はひた走る。




 国境を越え、またしばらく馬を走らせる。エミリアが走る道は、道幅もあり綺麗にならされた道だ。近くに大きな鉱山があるため、頻繁に使われる道らしい。

 その時、聞き覚えのある声がエミリアの耳に届いた。

「エミリアさん!」

 見ると木と木の間にいたのは、見知った顔の騎士。褐色肌の、いかにも異国人のような少年騎士だ。彼の背後には他の騎士達もいる。普段は服装に関しても奔放な騎士達だが、今は皆、群青色の団服を着込んでいる。あの鳩を遣わせた獣使いの姿も姿もあった。エミリアが会釈をしても、彼はぶっきらぼうな表情をしたままだった。

 一行と無事合流出来たことに安堵したエミリアだったが、すぐに重大なことに気がついた。――ロエルの姿が見えないのだ。

 騎士達の表情が曇って見えたのは、雨のせいだけではないらしかった。


 彼らは林の奥にある、急場しのぎに作られた基地にエミリアを案内した。いや基地というにはあまりにもみすぼらしいものだ。木と木に布を張って雨つゆをしのげるようにして、地面に布を敷いただけだった。もっとも、敵地で陣を構えるのだから、簡素なものであっても文句は言えないだろう。

 馬や荷物、騎士達以外の従者の姿も見える。足に包帯を巻いた騎士も布の上に座っていた。しかしやはり、エミリアが一番身を案じていた者の姿はなかった。

 布の上に座り、騎士達と顔を合わせる。いつもは傍若無人な彼らの顔にも、気まずさや申しわけなさといった気持ちが見えた。

「……視察は順調に進んで終った、んです」

 褐色肌の少年騎士、エルドナは声を詰まらせながら言った。これはグリーデントの言葉にまだ不慣れなことが理由の彼の癖だったが、今はそれも不安と悔しさからきているようにも聞こえた。

「……それで昨日は、あとはグリーデントに帰る、だけだったんです。この山にさしかかってしばらく馬、を走らせたとき、グレイ・ケイシュの軍人達が現れて……」

 エルドナ言うには、彼らは小銃を持っていたという。騎士達は立ち向かったが火薬の力には敵わず、ロエルは拉致されてしまったのだ。ロエルの安否は不明だという。騎士達も命こそ皆無事だったが、負傷したものが何人かいるようだ。

 話を聞きながらエミリアは考える。ロエルの殺害が目的ならわざわざ拉致などという手段を使う必要はないだろう。しかし、そんなふうに連れ去った相手を丁重にもてなすとは思えなかった。

「ロエル様はどちらに連れていかれたのでしょうか。心あたりは?」

「この先に軍の施設があるみたい、なのです。長い間使われてなかったみたい、ですが最近人の出入りがある、みたいで……。待って下さい、ムーアさんが描いた地図があり、ます」

 エルドナは手書きの地図を取り出した。騎士達もロエルを拉致されてから今まで何もしなかったわけではないらしい。少し感心しながら、エミリアは地図を覗き込みます。

 騎士の自筆の地図は上等とは言い難いものだったが、ところどころ文字で注釈が付け加えられたりしているため、地形を把握するのには十分なものだった。

 ロエルがいるであろう建物は、長方形で描かれていた。その周りを囲む線は、施設の塀。施設北側から西に向かって細い道が伸びており、それはエミリアが馬を走らせてきた道とつながっていた。施設の周りは森。南側には川が流れていた。河川は施設より高い位置に流れているらしい。

 若い女騎士――ムーアは、エルドナの隣で地図を指差しながら言った。

「建物の周りは高い塀で囲まれているんで、簡単には侵入出来ないんです。入り口の門も内側からしか開かないようになっているみたいで。門も塀も縄梯子のようなものさえあれば、越えられるものだと思うんですが……」

 別の騎士が口を挟む。

「でも向こうは銃を持ってるんだぞ! 俺達のことを警戒しているだろうし、塀の上から顔を覗かせた瞬間、ドカンだっつーの」

「しかし、雨の中なら視界も悪いし、銃も封じることが出来るかも……」

「向こうは私達以上に、グレイ・ケイシュの悪天候に慣れているだろうに」

「……じゃあどうするんですか。一刻も早く助けにいかなければロエル様が……!」

 眉を下げながら、ムーアは口を尖らせる。彼女はロエルの身を案じ、焦っているようだ。その気持ちは、この場にいる者全員に共通してあるものだった。

 別の東洋風の顔立ちの騎士が顔をしかめながらブツブツと呟く。

「火攻め……水攻め……兵糧攻め……」

「なるほど! それなら敵を一掃出来ますね!」

「井戸に毒をほりこむとか……」

「それもいいな!」

「これでロエル様も……!」

 口々にそう言って盛り上がる騎士達に冷ややかな目を向けながら、エミリアは冷静に言った。

「……それではロエル様にも危険が及んでしまいます」

「じゃあどうするんですか?」

 ムーアの質問に、エミリアは右手を顎に当てながら考える。

「ばらばらに襲撃しても勝ち目はありません。多勢に無勢。その上向こうは強力な武器を持っているときています。……なら、正面から攻めましょう」

「正面……門からですか? でも……」

 エミリアは地図をじっと見ながら、揺ぎ無い口調で言った。

「私に策があります」




 長い間使われていなかった軍事施設内の地面は短い雑草で覆われている。

 それを踏みしめながら、部隊の指揮官であるバラハ大尉は空を見上げる。長く降り続けた雨は昼過ぎにやみ、灰色の雲の隙間からも光が差していた。

 ――グリーデントの騎士達も馬鹿だな。ロエル王太子を助けるつもりなら、雨に乗じて襲撃すればいいものを。

 そう思って兵達には、雨の中にも関わらず、厳重な警備をさせていた。しかし雨がやんだとなれば、警備も楽になる。兵士達の体力を考えればそれは良い事だった。

 作戦を始める前は、非常に困難な作戦だと思っていた。しかしグリーデントの王太子一行はまったくもってとるに足らない存在だった。警備に当たるのは少数だが腕利きの騎士と聞いていたが、検討違いだった。確かに個々の技量は多少優れていたが統制はとれておらず、烏合の衆でしかなかった。

 バラハは勝利を確信していた。そして、その後の立身出世も。これからのことを思えば、自然に口元も緩む。しかし周りに部下がいる手前、にやにやしているわけにもいかずに、口元を引き締める。

 少し気がかりなのは、ロエル王太子のこと。彼は今、施設内に手足の自由を奪った状態で監禁してある。ロエル王太子さえ殺してしまえば、警備も必要ない。しかし、グリーデント王国の情報を聞き出すために生かしておけというのが命令だ。そして情報を聞き出すことに関しては、具体的な指示はまだ出ていない。

 ――これは俺の独断でやっていいってことか? なら……

 その時だった。大気を震わすような爆音が、響き渡った。

 ――爆発か!?

 さらに続き、地を這うような轟音が、絶え間なく聞こえる。

 驚く気持ちをすぐに切り替え、指揮官として周りを見渡す。部下達の間にも動揺は広がっているようだった。

「落ち着け!」

 そう叫び、同時に考える。爆発は遠くから聞こえた。煙なども今のところ見えない。グリーデントの騎士達が爆弾を投げ込んだという訳ではないらしい。音が聞こえた方角は南。部下には持ち場を離れるなと指示し、バラハは施設の南側に向かう。その途中、彼は異常に気がついた。緑色の地面に黄土色の水が流れ込み始めたのだ。だんだん水かさは増えていく。

「くそ、何だ……」

 苛立ちながら、バラハは足を速める。その苛立ちも、土砂崩れによって大破した塀を見ると怒りに変わった。

 川の堤防が崩れ、大量の土砂となって押し寄せたのだ。敵の侵入を防ぐための塀も、自然の力の前にはどうしようもない。さらにそこから、濁った川の水が大量に侵入していた。長く雨が続いた後の川は、普段よりも水かさがましていたことだろう。すでに水は、足首の上まで達していた。

 焦った様子の部下が駆け寄ってきた。

「大尉! これは……」

「間違いなく奴らの仕業だ……大方、近くの鉱山で火薬をくすねてきたのだろう……くそ!」

 塀に穴を開けて侵入するつもりかと思ったが、そうではないらしい。もっとも、水はすさまじい勢いで流れ込んでおり、ここから侵入すれば流れに飲み込まれる危険が高いのでそれも当然かもしれなかった。

 しかしこのままでは、水位が上がる一方。堅牢な塀が思わぬところで弊害となってしまったのだ。排水しなければ厄介なことになる。

 そう思って、門のほうに足を運ぶ。堅い木で出来た門は、水をせき止めていた。

「バラハ大尉! すでに水は屋内にも侵入しています!」

 部下はそう、焦りを隠せない様子で報告した。

「とりあえず、水を出すんだ! 門をひらけ!」

 混乱気味の部下達も、その指示を聞くとすぐに動いた。内側に上がる型の門は、水圧のせいでいつもよりあけにくい。水は膝くらいまで来ていた。五人ほどが力を合わせてようやく門が上がっていく。

 水は勢いよく外に流れ始めた。だが。

 開かれた門の向こうにいたのは、群青色の服を着た、年齢性別様々な者達。

 グリーデント王国の騎士達だった。

 彼らは誰が指揮をとるでもなく、いっせいに駆け出す。

 それが乱戦開始の合図だった。




 川が決壊した場所は、今も泥水が音を立てて流れ出ていた。その付近に、エミリアはいた。

 近くの鉱山から拝借した火薬を使って川を決壊させたのは彼女だ。もちろん彼女には人為的に土砂崩れを起こしたことなど無かったのだが。

「しかし……上手くいくもんですね……」

 唖然とした表情で決壊した川を見るのは、ロエルに同行していた従者の一人だ。非戦闘要員である彼は騎士達の奇襲には加わらず、エミリアの補佐をしていた。

「もともとこうなる危険がある場所だったのではないでしょうか。だがらあの施設も今は使われなくなったのかもしれません。……推測の域を出ませんが。加えて増水した分の川からの圧力もあります」

「なるほど……でもこれで相手の銃は封じることが出来ますね」

「それはあまり期待できないでしょうね。さすが水中で銃は使えずとも、水に濡れないよう気をつければいいだけのこと。銃は手を滑らせて火薬を落とすといったことならともかく。もっとも相手もそんなヘマはそうそうしないでしょうが」

「なら、騎士達に勝ち目ないじゃないですか! 一度ぼろ負けしてるんですよ! まさか最初から彼らを犠牲にするつもりで……」

 従者はなんて冷酷なんだと驚きながらエミリアの横顔を見る。しかし、エミリアは表情を変えない。

「大丈夫ですよ。あの人たちは守ることより攻めることのほうが数倍得意ですから」

「それは……」

 エミリアの言葉に納得しながらも、『それって騎士に向いていないのでは……』と、従者は思った。

「そろそろいい頃合いでしょう……私はロエル様のところに参ります。他の皆様と一緒に、さっき話した場所で馬を用意しておいてください」

「それはいいんですが……でも、行くってまさか……」

 エミリアは微笑する。優しさ、そして何より、揺らぎない意思を感じさせる表情だった。

「門の辺りで騎士様達が、敵を引き付けてくれているでしょうから」

 そう言い残し、彼女は地を蹴った。足場の悪い急斜面を、濁流に沿って軽やかに下っていく。その身のこなしのしなやかさは、気高い狼のよう。

「恐ろしい人だ……」

 誰にともなく、従者は呟いた。




 エミリアの心中は、見た目ほど穏やかではなかった。

 施設の南側は思った通り警備が手薄になっていたため、難なく侵入することが可能だった。そして裏口から建物に入る。そこは長い間使われていない調理室になっていた。

 彼女にとっての問題はここから。実はエミリアにはロエルの居場所が分かっていない。加えて、ロエルがいる部屋には鍵がかかっている可能性が高い。

 なにより不安なのが、建物内にもいるであろう兵士達。彼らは小銃を持っている。今もエミリアの耳には銃声が聞こえており、騎士達は大丈夫だろうか、と心配する気持ちになる。だが、それより今は自分のことだ。

 今エミリアが持っているのは、ナイフ一本。グレイ・ケイシュ兵の相手をするには頼りがない武器だったがエミリアは、室内で使うにはこれくらいの大きさが丁度いい、と己を言い聞かせる。

 不安だろうと何だろうと、ぐずぐずしている時間はない。そう思ったとき。

 チュウチュウという鳴き声が足元から聞こえた。

 視線を下ろすと足元にネズミが一匹。逃げる様子もなく、やけに人懐っこいネズミだが、エミリアが目を見張ったのはそこではなく、ネズミが首にかけていた鍵だ。

「これは……」

 あの寡黙な獣使いの計らいなのだろう。こんな芸当が出来るのは、彼しか思いつかない。そしてこれは、ロエル王太子のいる部屋の鍵。そうならそうといってくれればいいのに、と思ったが怒りはなかった。むしろ嬉しかった。

「ありがとう」

 小さな助っ人にそう言って鍵をはずす。銀色の鍵を握りしめると、力が湧いてくる気がする。

 ――ひとりじゃない。

 エミリアは今、強くそう思っていた。

 隣にはいなくても、共に戦っている騎士達がいる。

 そしてなにより、絶対に助けたい人がいる。

 ――今行きます。

 胸の中でそう言って、調理室を出た。




 足音を潜め、曲がり角のたびに慎重に頭を覗かせながらエミリアは進む。

 騎士達のお陰で屋内は兵がまばらだった。たまに兵を見かけても、身を隠してやり過ごすことが出来た。

 しかし施設内は思った以上入り組んでいて、このままではいつまでたってもロエルのもとにたどり着けないように感じた。

 ――敵を脅して、聞き出すしかないか……。

 エミリアはナイフを握り締め、壁から顔を覗かせる。一人の兵士がこちらに背中を向けていた。

 気配を殺し、近づく。そして。

「動かないで下さい」

 低い声でそう言いながら、ナイフを僅かに相手のわき腹に突き刺した。

 少しであっても肉を刺す感覚は決して心地よいものでは無かったが、相手も軍人。生半可な脅しなど意味を成さないだろう。

 顔を見ずとも、相手が驚きと恐怖を感じているのが分かった。肩が小刻みに震えている。手に持っている小銃も、背後の相手には使えないようだ。

「ロエル王太子の居場所を教えてください……そうすれば命は助けます」

 生か死か。簡単な二択。

 彼が選んだのは前者だった。

「こ、この先を右……次を左……奥から二番目の部屋だ……」

「……ありがとうございます」

 感謝の言葉を述べたエミリアは、――そのままナイフをより深く差し込んだ。

 兵はうめき声をあげると、わき腹を押さえて崩れ落ちる。

 裏切ったようなものなので、申し訳ない気持ちになった。しかし、敵を呼ばれないようにするためには仕方ないことだ。むしろ、命を奪わないだけ自分は甘いとエミリアは思った。

 しかし、ロエルの居場所は分かった。彼の様子を見る限り嘘をついてはいないだろう。ならばあとは、ロエルの元に向かうのみだ。

 そう思って早足になったときだ。

 背後で何かが動く、不穏な気配がした。反射的に曲がり角に身を隠した――瞬間、爆発音が鼓膜を打つ。

 気を失ったとばかり思っていた兵が、発砲したのだ。一寸でも反応が遅れていたら、エミリアの命は無かったかもしれない。そう思うと冷や汗がこめかみを伝う。

 ――やはり、自分は甘い。

 彼のほうを見ると、力尽きたのか倒れていた。

 先程の発砲は最後の力を振り絞った一撃で彼は味方を呼びに行くことはしないだろう、と確信する。しかし銃声に気付いたものがやってくるかもしれない。

 もはや一刻の猶予もない。エミリアはロエルの元へ急ぐ。聞き出したその部屋まで来ると、例の鍵を鍵穴に差し込んだ。

 小気味いい音をたて、鍵は開いた。ドアノブを掴み、勢いよく扉を開く。

 そこはむき出しの壁と床に囲まれた、無機質な空間だった。その奥にロエルは、いた。

 エミリアの胸は喜びで高鳴った。ロエルは椅子に縛りつけられていた。拉致された際のものか、顔の右半分が赤く腫れている。しかし大きな傷はなく、顔色もよい。

 ロエルはすぐエミリアに気がついた。

「エミリア!? なんで何で君がここに……」

 我が目を疑うように、ロエルはエミリアを凝視する。彼女は視察に同行したわけでもないのだから、それも当然だ。だが今は説明してる間は無い。

「今お助けします」

 ロエルに駆け寄り、彼を拘束する縄をナイフで切断する。

「立って歩けますか?」

「ああ、大丈夫だよ」

 ――よかった、ならあとは逃げるだけ……。

 そう思ったのだが。


「そこまでだ!」

 部屋の出口に、銃を構えた男が立っていた。

「バラハ大尉……」

 ロエルが悔しげに、名前を呟く。バラハは心の底から忌々しげに言い放つ。

「まったく、厄介なことをしてくれたものだ……だがここで終わりだ」

 この部屋の出口は一つ。もう逃げられない。この距離で発砲すれば、狙いを外すこともないだろう。

 絶体絶命。


「――撃つなら撃ってください」

 エミリアは静かにそう言うとロエルの前に立った。

「エミリア……何か策が?」

「ありません」

 あるのは甘い期待。彼らが使う銃は、一度発砲すれば次使うために火薬を詰め弾丸を装填する必要がある。自分が撃たれれば、その間になんとか逃げられるかもしれない、という期待。

 エミリアの考えに気がついたバラハはせせら笑う。

「馬鹿か……王太子一人で逃げきれるはずがないだろう」

 分かっている。でもロエルが無事グリーデントに帰れる望みがあるのなら。例えそれが僅かであっても、自分の命を懸けるものであっても、可能性に縋らずにはいられない。エミリアは、他に方法が思いつかないのだ。

「どうぞ……」

「なら……」

 バラハが銃を持つ手に力をこめる。

「待て!」

 ロエルの鋭い声が飛んだ。そしてエミリアを庇うように前に出る。

「なんのつもりだ、ロエル王太子」

 バラハは哀れむように、表情を歪める。

「まさか自分は殺されることが無いとでも思っているのか? 残念ながらあなたを生かすことの優先順位はそう高くない。あの騎士達の襲撃のお陰で、あなたを殺す口実は出来ている」

 しかし、ロエルは全く動じない。

「それくらい、分かっている……」

「ではなぜ! ご自分の身をお考え下さい……!」

 エミリアには分からなかった。王族である彼が一介の使用人である自分を庇う理由など、思いもつかなかった。

 ロエルは一呼吸置き、迷わずに言った。

「大切な人だからだ」

「……」

 バラハもエミリアも言葉を失う。ロエルは続けた。

「頭では分かる……こんなことをしても何にもならないということを。でもここでエミリアを犠牲にして助かっても、一生後悔する。だから僕はここを動かない。たとえそれが彼女の意思に反することだとしても、だ」

 すぐにバラハは口を吊り上げた。

「そういうことならここで……」


「うぉぉぉおおおお!」

 緊迫した空気は少年の叫びによって崩壊した。

 疾走してきた少年はバラハに襲い掛かる。バラハは少年に銃口を向けたが、彼が引き金を引く前に、少年は手斧を小銃めがけ振り下ろす。

「エルドナ!」

 少年騎士――エルドナは、エミリアとロエルを見て満面の笑みを浮かべた。

「良かった、です! 無事だったんです、ね!」

 エルドナは無傷とは言えないが、様子を見る限り心配はいらなさそうだ。

 やってきたのは彼だけではない。

「ロエル様、ロエル様!」

「え、ここ? ついちゃった? 私まだまだいけますけど……」

「うわ、やっぱここじゃん。俺の言った通りだな」

 口々に言いながら乱入してきたのは、騎士達だ。しかも彼らを追ってきた兵も、見える。

 混乱と混沌が場を支配する。だがやるべきことは一つだった。


「グリーデント王立騎士団、全員撤収!」

 誰かがそう叫んだ。




 そこからはあっという間だった。

 行く手を阻む敵をなぎ倒し脱出に成功した彼らは、馬に跨り国境を目指した。

 そして日が沈む頃、国境を越えた彼らは、国境付近の貴族の屋敷に宿を借りることにした。屋敷の主は突然王太子がやってきたことに恐縮しながらも、一行の様子からただ事ではない事情があることを察し快く迎え入れてくれた。

 ロエルは一番いい客室に通された。怪我を手当てし、身を清め、着替えた彼は部屋で一息ついていた。

 と、ドアをノックする音が聞こえた。どうぞ、と言うと入ってきたのはエミリア。手には湯気がたっている皿がある。

「お腹はすいてはいませんか?」

 言われてみれば、確かに空腹だ。今まで安心する気持ちが強すぎて、気がつかなかったが。

 エミリアから皿を受け取る。おいしそうな野菜スープだった。

「ありがとう」

 一口、口にすれば、温かいスープは体にしみこんでいくようだった。

「ところで……一つお聞きしてもよろしいでしょうか」

 エミリアが思い出したように言った。

「なんだい?」

「あの時おっしゃっていたことなんですが……」

 あの時。そう言われてすぐに昼間のことを思いだす。

『大切な人だからだ』

 なんの躊躇いもなくそう言ってしまった。あの時は無我夢中だったのだ。しかし今思い出すと、自分でも自覚出来るほど、顔が赤くなる。

「あれは――」

「あ、あれはだね……その……」

 口ごもるロエル。そしてエミリアは。

「作戦、ですよね?」

 迷い無くそういった。

「騎士達が来るまで時間を稼ぐ作戦……ですよね」

「……そうだよ」

 ほっとしたような、どこか残念な気持ちでロエルは頷いた。

「それより、エミリアも疲れただろう。少し休んでいったらいい」

「ここで、ですか?」

「え?」

 薄暗い部屋の中、エミリアは僅かに首をかしげている。何の疑いも持たぬ表情で。


「ちょっと……押さないでくださいよ……」

「あ、あんまり騒ぐと……」

「ちょっと! 今いいとこなんですから……」

 扉の向こうから聞こえる声。気がついたロエルは扉まで歩み寄り、開く。

 すると騎士達が部屋になだれ込んできた。

「違うんです! エルドナ君が……!」

「えー、ムーアさんが一番ノリノリだった、じゃないですか!」

「俺はエミリアさんのスープが食べたくて……」

 騎士達は口々に弁明し始める。あまり反省する様子はなかったが、起こる気にはなれなかった。部屋がいっきにうるさくなり、ロエルは苦笑した。


「作戦でも、私は嬉しかったです」

 エミリアは小さく呟いたが、騒がしい騎士達のせいで誰の耳にも届かなかった。


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