episode4 王子と騎士
エミリアがいたのは城の使用人たちが普段洗濯などに使っている場所だった。
今は彼女以外には誰もいない。そのことを確認すると、彼女は耐え切れず、胃の中の物を汚水用水路に吐き出した。
まだ頭がクラクラする。だが幾分かはマシになった。額に浮かぶ汗を拭い、深く呼吸した。
「……大丈夫か」
ルーカスが背後から声をかけた。こちらに気を遣ってだろう。少し距離を空けていた。
何気ない気遣いにエミリアは感謝する。彼女とて、自分が嘔吐している所など見られたくはない。
「大丈夫です……すぐに回復します」
「毒か?」
「はい。速効の毒です。私は昔、毒に対する耐性をつける訓練を受けたので、死にはしませんでしたが……」
「……」
ルーカスは平然とそういうエミリアに戦慄を覚えていた。
どうしてそんなやつが使用人なんてやっているのか。――彼女を知る者なら、だれもがそう思うだろう。以前からエミリアのことを知っていたルーカスも改めてそう思った。
だが今はエミリアのことに気を取られている訳にはいかない、と思い直し、本題に入る。
「何者かの手によって意図的に毒物が混入されたのか……」
「それ以外には考えられません。調理時のミスではないでしょうから……。……!」
その時、エミリアの脳裏に先程見かけた隣国の侍女が浮かんだ。白髪に黒服の異様な装いをした侍女。彼女の独特な笑いが耳に蘇る。
……まさか! だとしたら……!
あの時、彼女を見逃していなかったら、こんなことにはならなかったのかもしれない。そう思い唇を噛む。だが、彼女に悔しがる暇などない。
さらに考えをめぐらせる。
――グレイ・ケイシュ王国は敵だとするなら。
そして答えに至る。
「ロエル様が……危ない!」
彼が今いるのは、他でもないグレイ・ケイシュ王国。敵の本陣に、彼はなにも知らずにいるのだ。
その事実に気づいた瞬間、彼女は自分の体の不調を忘れていた。
桶の中の綺麗な水を顔に叩きつけるようにして、顔を洗い、立ち上がる。
そして、ルーカスの方を向く。そこには、先程までの毒に蝕まれ、弱っていた彼女はいない。
「ルーカス様……お願いが二つあります」
「……なんだ」
「まず、国王陛下にお伝え下さい。『私の責任です。然るべき罰は必ず受けます』、そして『グレイ・ケイシュの王女一行にお気をつけ下さい』と……」
「了解した。必ず伝えよう」
エミリアのあまりに凛とした態度に驚きながらも、ルーカスはそれを真摯に受け止めた。
そんな彼の態度に安心したエミリアは、二つ目のお願いを伝える。
「馬を貸して下さい。出来るだけ、速くて強い馬を」
その瞳の輝きに、迷いはなかった。
エミリアに馬小屋の鍵を貸したルーカスはすぐに食堂へと戻った。
そこにはすでにエヴァリーヌの姿はない。内心舌打ちしながら、ルーカスは国王にエミリアの言葉を伝えた。
「――という訳ですが……いかがいたしましょう」
「ふむ……」
国王は腕を組み、目を閉じ考える。そんな様子を見かねたルーカスは我慢出来ず疑問を口にした。
「エヴァリーヌ王女はどちらへ?」
「今夜滞在予定だった離宮へ引き上げました」
そう答えたのは王妃、アミーローズだ。娘や息子と同じ金色の髪を揺らし、ルーカスのほうに目線をやる。
そしておっとりとしながらも、場に似合ったしっかりとした口調で続けた。
「城に毒を盛った悪人がいるかもしれない。エヴァリーヌ王女の身の安全を最優先に考え城を離れる、とのことです。一応引き止めたのですが……城内で不始末があったのは事実ですからそれを妨げることはできませんでした」
「結果として、逃げられたのですね」
きっぱりと言い放ったのはもうひとりの王妃・レイリンだ。表情に怯えなど微塵もなく、苛立ちが見える。
「使用人の一人に聞いたところ、確かにグレイ・ケイシュの侍女達は厨房に来たらしいのです。更に白と黒の奇妙な女が、鍋の近くにいた、とも聞きました」
母親と同じ表情をしたジュリアは、レイリンに続いて言う。
「つまりグレイ・ケイシュの王女一行が毒を……。なら話は早いのでは? 早くグレイ・ケイシュの王女を!」
彼の苛立ちは母のものより大きいらしい。周りに大勢人がいるため、言葉遣いは王女としてのものだが、少し荒々しい。
「そう簡単なことではないのだよ、ジュリア。軽率な行動で国交問題を招きかねん」
父親の言葉にジュリアは身を縮こまらせながらも、口を尖らせる。
「ではどうするのですか?」
「……ロエルのほうは大丈夫だろう。エミリアもいったし、腕のたつ騎士達も同行している。後は……」
「大変です!」
いきなり部屋に飛び込んできたのは、ゴーグルの少年――クロードだった。
王族の注目を一斉に浴びた彼は、辟易しながらも告げたのだ。
「マーヤさんが……マーヤさんが、倒れてて……!」
ジュリアの顔から一気に血の気が引いた。
「マーヤ! マーヤ! マーヤ……!」
城の医務室にジュリアの声が反響する。いつもは王女としての振る舞いを忘れない彼だが、今ばかりは人目をはばからなかった。
医務室の一番端にある寝台の上に、マーヤが横たわっていた。
そこに駆け寄り、マーヤの白い顔を見たジュリアはいっそう顔を青ざめた。
その生気のない様子は、普段の彼女と同一人物とは思えない。
頭部に巻かれた白い包帯は、ジュリアの不安を煽った。
その場に膝をついて、シーツの握り、彼女の顔を覗き込む。――顔を近づけても、彼女は睫毛一つ動かさなかった。
「マーヤ……?」
振り絞るように彼女の名を呼んだジュリアは、驚きと絶望の入り混じった目でなにも言わない彼女を見る。
「……大丈夫ですわ! お兄様!」
やるせない表情の兄に、その場にいたミルシーは声をかけた。
ジュリアはここで、初めてミルシーがいたことに気づいた。
「お医者様によると命に危険はないらしいですわ」
「それは良かったです」
ジュリアの後に続いて医務室に入ってきたレイリンが言った。
「ミルシーさん、貴女が見つけて下さったんですか?」
「はい……たまたま、クロードと外出して……」
ビッキーを挟み潰したあと、一度はクロードの外出の誘いを断った彼女だったが、その後少し外の空気を吸うため部屋を出たらしい。
そこで、血を流し倒れているマーヤを見つけたのだという。
「ありがとう。……クロードなら食堂で皆さんに話をしてます。すぐにここに戻るでしょう」
「はい。わかりました。
でも彼女は……」
『一体誰に、どうして』――そんな思いで、ミルシーはマーヤを見た。
「ミルシー、マーヤはどこで見つかったんだ……?」
ジュリアの声は震えを隠しきれていない。ミルシーはいつもとは違う彼の様子に息を呑みながら問いに応える。
「西の渡り廊下の近くですわ……三階のバルコニーから落ちてしまったみたいで……」
……三階のバルコニー?
生まれて今日まで城で生きてきたジュリアはよく知っている。そのバルコニーには十分な高さの欄干がある。ついうっかり足を滑らせて落下するようなことはない。
「……あいつがやったんだ」
ミルシーは思わずジュリアを見た。
……その低い声はいつものジュリアのものではない。
「グレイ・ケイシュの金髪の騎士……。あの王女の命令に違いない……。マーヤは、マーヤはなにも知らなかったのに……!」
彼の異変を、ミルシーは唖然とした。だがジュリアの怒りに満ちた声は収まらない。
「許せない……許さない……あいつも、王女も……! 殺してやる……!」
「頭を冷やせ!」
レイリンの強い声が響き渡る。彼女のよく通る声が場を支配した。
レイリンは息子の胸倉を掴む。ジュリアは自然に爪先立ちになった。そして……絞り出すように言ったのだ。
「この……この馬鹿息子」
叱られたジュリアはもちろん、ミルシーも身動きが取れなくなった。
――一瞬の空白が永遠のようにすら感じられる。
やがてレイリンはジュリアを離した。
ジュリアは糸の切れた操り人形のように、その場に崩れ落ちる。
踵を返し、医務室を出る間際レイリンはミルシーを見た。
「今夜は何があるか分かりません。あなたも早く部屋に戻りなさい」
「は、はい! 分かりましたわ」
そしてジュリアのほうを見る。彼はただ険しい顔をしていた。
さっきまで自分を叱った母のことは、見てはいなかった。
「全く、親の思いは伝わらないものじゃな……」
食堂へ戻るとき、レイリンは誰にも聞こえない声で一人呟いた。地方出身の彼女の、本来の訛った口調だ。
王妃になってから彼女がこのようにしゃべるのは家族と過ごす、ごく限られた時間だけだった。
「まぁこんな母親の言葉じゃ。届かなくて当然か……」
諦めるようにそういいながら、瞳を潤わせ彼を憂える。
自分と同じで不器用にしか人を想えない、息子のことを。
レイリンが退室した後、室内は静けさに包まれていた。
決して穏やかな静寂ではない。ジュリアも、彼を見守るミルシーの心も、穏やかとは掛け離れたものだった。
あまりに静かなので、ミルシーは微かな息遣いすらたてることをはばかられるように感じた。
ジュリアは床に膝をついたまま、片手をベットにおき、視線は下を向いている。ミルシーは大好きな兄に何も出来ない歯痒さを感じながら、ただそれを見守っていた。
やがて、ジュリアは立ち上がった。
先程レイリンに叱られた時に比べると、随分落ち着いた様子だ。
だが彼の瞳を見たミルシーは、ジュリアの怒りが収まってはいないことを知る。
それは怒りと嘆きの感情を決意へと変えた者の目だ。
そのまま部屋を出ようとするジュリアをミルシーは引き止めた。
「ジュリアお兄様……! わたくしもついていきますわ!」
「ミルシー……」
「わたくしはお兄様の力になりたいんですの!」
ジュリアはじっとミルシーを見つめた。
「……わかった」
懸命に訴えるミルシーとは対照的に、淡々とジュリアは答えた。
そして二人は医務室を後にする。
彼らが食堂や自室に戻ることは無かった。
「たたた、大変です!」
本日二回目。またもやクロードは食堂に飛び込んできた。
国王やアミーローズへの説明を終えた彼は、ミルシーがいる医務室に向かったはずだ。
その彼が何故ここにいるのか。更に、クロードの表情にはしっかりと動揺の色が浮かんでいる。
「今度は一体……」
ルーカスの言葉を待たず、クロードは叫んだ。
「ミルシーちゃん……あとジュリア様がどこにもいません!!」
日は既に西の山々の向こうに沈み、城下の町並みは闇に包まれていた。
酒場などの例外を除き、街は昼間の賑やかさを疑うほど人気がない。
街の中にある一軒。その中にいる一人の男は妻に呟くように話かける。
「随分日が短くなったな……少し仕事が延びればすぐこれだ」
既に幼い子供は眠りについていた。
ランプの暖かい光が部屋を照らしている。その光が届かないところは室内であっても暗い。
そして家の外は更に暗い。今はちょうど、月が隠れているためもある。
ふと、男は窓の外を見た。
……人影?
人間とおぼしき二つの影が闇に溶け込んでいる。
こんな時間、こんなところを歩いている者がいるのは珍しい。そう思って、男は人影を目で追う。
影は滑らかな身のこなしで、早足で歩みを進めていた。
その時、金色の月が雲の合間から顔を出した。月光が二つの影を照らしだす。
「どうかしましたか?」
窓の向こうを凝視する夫に妻は声をかけた。
「いや、今……そこを人が通ってな」
「あらあら、珍しい」
妻は穏やかな口調で相槌をうつ。
「それも高貴な服装をなさっていて」
「そんな方が馬車も使わず? もっと珍しい」
「ああ。どこかの貴族様の『ご兄妹』が、夜の散歩と洒落込んでるのかね」
城下街の東。暗い森を抜けた向こうに、現在エヴァリーヌ王女が滞在する離宮がある。
先々代の王が病弱な王女のために作った離宮だ。
規模はさほど大きくないが、女性が好みそうな装飾が至るところに施されている。その美しい庭園は、病床に伏した王女のせめてもの慰めとなったことだろう。
だが王女亡き今ここは、他国からの要人を迎えるためにたびたび使われるのみとなっていた。
その離宮の二階――かつての王女の部屋に、エヴァリーヌ王女はいた。
暗い部屋を橙色の明かりが、ぼんやりと照らす。光は王女の顔にはっきりとした陰影を作り、それは彼女の苛立ちの表情をより際立たせた。
「結局倒したのは、あの頭の緩い騎士一人……怒りを通り越して呆れてものも言えないわ」
エヴァリーヌは床に片膝をつき、目を伏せるシャムリーに厳しい言葉を浴びせる。
「いっそ、ここからいなくなってしまえばいいのに」
「それは出来ません」
シャムリーは間を空けず、そう答えた。
彼が見せた反論の言葉に、周りにいた侍女達は目を見張る。
エヴァリーヌは薔薇色の唇を噛み締め、膝のドレスを強く握った。
表情に怒りが浮かんでいるが、それを口にせずシャムリーを睨みつけた。
彼はそれ以上何も言わない。
「くすっ」
短い笑い声がした。フィーネだ。
自分の笑い声に驚いている侍女や王女など気にせず、彼女は笑い始める。
「くす……くすくす、くすくすくすくす!」
声こそ上品だが、目元に涙を浮かべるほどの大爆笑だった。
「フィーネ……」
彼女の笑いに気分を害したエヴァリーヌは、威圧的に彼女の名を呟いた。
だがフィーネにとって王女の機嫌など、どうでもよいことらしい。
「申し訳ございません王女様。あまりにも可笑しいので……くすくす。
そしてシャムリー様だけでなく、私の失態もお許し下さい。まさかあの毒が気づかれるとは思いませんでした。あのエミリアとかいう女。本当に、犬みたいな女ですね……」
フィーネは眉をひそめながらも、口元の笑みは絶えない。
「……もういいわ。あなたも、シャムリーも」
「ありがとうございます。ところで――」
フィーネは窓の外を見た。
「ネズミが忍びこんだみたいです。二匹ほど」
「……ネズミ?」
エヴァリーヌは立ち上がり、窓の外を見た。
――そしてエヴァリーヌは口の端を吊り上げる。
「聞いてはいたけど――本当にそうだったのね」
そして臣下の者達のほうを向き直る。
「シャムリー。ネズミ退治は貴方に頼むわ。今度しくじったら……命をもって償いなさい」
「かしこまりました」
頭をさげ、部屋を出ていくシャムリー。エヴァリーヌは再び窓の向こうに目を向け、その背中を見送ることはない。
だが扉が開き、そして再び閉まる音がしたとき、僅かに扉のほうに視線を投げた。
「くすっ」
またもや笑い声をあげたフィーネに王女は表情を歪める。
「何かしら、フィーネ」
「いえいえ。相手が二人みたいなので、私も行こうかと思いまして」
「ならさっさと行きなさい」
追い払うようにエヴァリーヌはいった。
「かしこまりました」
そしてフィーネも退室する。
室内に残ったのはエヴァリーヌと数名の侍女だけ。
エヴァリーヌは再び窓の外を見下ろした。
「恨みはないけれど……倒させてもらうわ。ジュリア王女。
――いえ、ジュリア『王子』」
離宮の庭園に潜む大きさの違う二つの人影。
月明かりが、人影の輪郭をはっきりと照らした。
小さいほうの一つは、月の光に負けず劣らず、美しい金髪を二つに束ねた少女――ミルシーだった。手には槍。もう一つの影に付き従うように立っている。
もう一つはジュリアだった。
だが普段の彼を知る者なら、その姿をみて、ジュリア自身かどうか疑うだろう。いつもは垂らしている、長い深い茶色の髪を上のほうで一つにまとめ、夜風になびかせている。
そして服装。茶色のベストに深紅の蝶ネクタイ、膝丈のズボン――それはどこから見ても男性の格好だった。
「ジュリアお兄様。その御召し物、よくお似合いですわ」
「……ありがとう」
ミルシーのほうは見ず、機械的に答える。彼の意識は今、別のところにあった。
「さて、建物にはどうやって侵入を……」
ミルシーは最後まで言葉を言わなかった。闇の中よりこちらに向かって来るものに気がついたのだ。
「手間が省けたな……」
その人物の顔を見て、ジュリアは目を細めた。
闇の中から現れた男――シャムリーは言葉もなく、剣を抜いた。
片手用の片刃の剣だ。緩やかに湾曲した刃は月光に照らされ、やけに寒々しいものに思えた。
ジュリアもまた剣を抜き、戦闘体勢にはいる。
「お前の名前は」
そのジュリアの声は小さかったが、大気を震わすような気迫を持っていた。
「シャムリー・ロックデール。グレイ・ケイシュの王族に仕える騎士」
表情を変えず淡々と応える彼に、ジュリアは苛立ちを覚える。
痺れを切らした彼は率直に問うことにした。
「……お前が、マーヤを」
「お前がどうして怒っているかは、よく分かる」
シャムリーはジュリアの言葉を待たずに、言った。
その発言でジュリアは二つの確信を持つ。
一つは、マーヤを傷つけたのは、間違いなく彼だということ。
もう一つ。ジュリアを『お前』といったこの言葉遣い――つまりは、グレイ・ケイシュは最早グリーデント王国に歩みよるつもりはない。
混入された毒の件も、彼らによるものだろう。だとすれば一度殺し損なった獲物がやって来たのをみすみす逃がすはずがない。
――つまり、命すら危ない状況。
それを改めて自覚し、ジュリアは剣をいっそう強く握った。
シャムリーは更に続けた。
「だが、ここは通さない。エヴァリーヌ王女の命に従い――お前にはここで死んでもらう」
その言葉は開戦の合図となった。
「……死んでもらう? こっちの台詞だ!」
先に動いたのはジュリアだった。
数歩踏み出し、振り上げられた剣は、縦一直線に下ろされた。
シャムリーはそれを避け、斜め下からジュリアの懐を裂くように、剣を振るう。
だが、ジュリアはシャムリーの回避も反撃も予想していたのだろう。
軽やかな足どりで、それを避けた。
シャムリーは素早く次の攻撃に転ずる。ジュリアの左腕をめがけ、剣は突き進む。
今にも剣が腕を貫くという、間一髪の瞬間、なんとかジュリアはそれを回避した。
――服の一部が裂け、夜の空気がジュリアの肌にじかに当たった。
「ジュリアお兄様っ!」
ミルシーは思わず、愛する兄の名前を呼んだ。
見ている彼女にも、その緊迫感は痛いほど伝わってきた。助太刀せねば、そう思ったその時。
花壇を挟んだ茂みから、影が飛び出した。
影は草花を踏み分け、花弁を散らす勢いで、ミルシーの元へ真っ直ぐ進む。
その影が手にしていた短刀が、ミルシーを襲った。
「……!」
とっさに槍の柄で短剣を受け止める。木製の柄は僅かだが傷がついた。
不意打ちに失敗したことを悟った影は、舌打ちして下がる。
短剣を手にして、そこにいたのは白と黒の眼帯女――フィーネだった。
「敵が……もう一人」
驚くミルシーの表情に、フィーネは不敵に笑った。
彼女が撒き散らした花びら達はまだ宙を舞い、幻想的な風景を作りだしていた。
「助太刀いたします、シャムリー様。二対一では分が悪いでしょう」
フィーネは手には短剣、口元には微笑を浮かべている。シャムリーはやや不本意そうな顔をしながらも、頷いて小さく感謝の意を示した。
「侍女……か?」
彼女の容姿にジュリアはそう首を捻った。
「ええ。エヴァリーヌ王女に仕える侍女の一人でごさいます。ジュリア『王女』」
笑顔で皮肉を言うと、彼女は短剣を構え直した。
「……私のスープ飲んでいただけなかったみたいですね。とても残念です」
ジュリアは悔しそうに唇を噛み、また剣を構える。
また闘いが再開しようかという時――
「一つ、申し上げておきますわ」
そう言ったのはミルシーだ。
彼女は堂々と続ける。
「わたくしの名は、ミルシー・グリーデント。この国の王族の血を受け継ぐ、王女ですわ」
いきなり何を。ジュリアは思った。
……ミルシーなりの礼儀、か?
彼らに礼儀を尽くす必要はないように思えてならなかったが。
シャムリーやフィーネはというと、やはり驚いているようだった。そして――
「……ならお前の命も頂く」
シャムリーの言葉にミルシーは、何かを確信したような表情を見せ――
身を翻し、庭の出口目指し、走りだした。
庭を抜けたミルシーは、森の中を駆けていた。
頼りになるのは木々の隙間から漏れる月明かりのみ。彼女が今通る獣道は人が通るにはかなり足場が悪く、横にも狭い。
彼女は山の中で修行を暮らしていたため、幾分は慣れていたが、手にした槍のせいもあり、走りづらいことに変わりなかった。
森に入って少したった後、背後からの足音に気づいた。
やがて足音は大きくなっていく。
背後を見ると闇の中、フィーネの白い髪が目についた。
……やはり、追いかけっこでは敵いそうもありませんわね。
……でも、この狭い場所で槍を振り回す訳にはいきませんわ。
走っていると、やっと目当ての場所――木が生えていない、開けた場所に出た。足を止め、向かってくるフィーネに槍を構える。
足音はだんだん近づき――フィーネも広場に出た。
正面からでは不利と思ったのか、攻撃することはせず、ミルシーに問う。
「なんのつもりですか? わざわざ味方と分かれるなんて。あなた、馬鹿ですか?」
少し間を空けて対峙する二人。森を抜けてきた二人の衣服は、土や葉っぱで汚れている。
だが、先程の追いかけっこでの疲労は見られない。
「お兄様と共に戦いたいのはやまやまですが――生憎わたくしは、誰かと共に戦ったことがありませんの。お兄様のことを考えながら戦うより、一人槍を振るうほうが合っていますわ」
だからジュリアと分かれることを決めた。
ジュリアを想う彼女にとって、敵陣で彼と離ればなれになることは、出来れば避けたかっただろう。だが、彼女はそれを実行し、確実に自分を追わせるため、自らの身分を明かしたのだ。
戦いの場において、実に聡明な判断である。
「……成る程。見た目ほど馬鹿ではないのですね」
「あなたこそ、見た目ほど頭のネジが外れていなければよいのですのに」
挑発と分かっているミルシーは、軽く返してさらに続けた。
「短剣で、槍に勝てるとお思いですの?」
フィーネは、そんなミルシーを可笑しそうに笑う。
「くすくす……あなたのような子供に、私が倒せると?」
ミルシーとフィーネが去った後、シャムリーとジュリアの戦いは再開される。
二人の戦いは熾烈を極めていた。闇夜を引き裂く、剣と剣が交わる音。
目にも止まらぬ速さで剣は交わり、二人の体を裂く。それは致命傷ではなかったが、確実に体力を奪っていった。
一瞬の油断が命取り。息すら出来ないほど張り詰めた戦いに、ジュリアには傷のことなど気にする間は無い。
……速い。
剣を交わし、ジュリアも彼の実力を認めざるを得なかった。
表面上はジュリアが押しているように見える。だがジュリアにはシャムリーの剣に翻弄されているような気がしてならなかった。
いくら攻撃を繰り返しても急所からは避けられ、こちらの体力ばかり削られているように思える。
シャムリーが僅かな隙を突くたび、背中を冷や汗が伝った。
……このままじゃ……。
ジュリアは自分の息遣いがやけに大きいものに思えた。
「一つ、聞きたい」
息を整えながら、攻撃の手を緩めた。
このまま戦ってはだめだ。剣は一度剣を止め、作戦を考える。そのための時間稼ぎに、距離をとって質問を投げつける。
「マーヤとは知り合いか?」
「……知らなかったのか?」
そのなにげない言葉一つをとっても、癪に障った。シャムリーは更に続ける。
「彼女は研修のためグレイ・ケイシュ王立騎士団に所属していたことがある」
「嘘だ。グレイ・ケイシュの騎士団とうちの騎士団じゃ、水と油より混じらないだろ」
グレイ・ケイシュの騎士団の厳格さは、ジュリアも噂に聞き及んでいた。
「彼女がグリーデント王立騎士団に所属する前の話だ。こちらの団長とマーヤの師が面識があった。それだけの話だ」
「あいつとは……友人か?」
「一時的に仕事場を共にしただけだ」
きっとマーヤのほうはそう思っていない。シャムリーを見たマーヤの表情を思い出し、それを直感した。
冷静な心は荒ぶる怒りに侵食されていった。どうすれば勝算があるのか、考えるつもりで始めた会話だが、そんな計算高い気持ちは失われつつあった。
ジュリアは怒りに任せ再び剣を振るう。剣は一層速く、鋭く光った。
だが、やはりシャムリーはそれを避ける。
「――軽いな」
ジュリアの攻撃を受け流しながら、彼は言った。
「……なんだ?」
「お前の剣は軽すぎる」
その一言がジュリアの怒りの炎に油を注ぐ。
ジュリアは勢いよく剣を薙いだ。
――銀の光が宙を切り裂く。
「見た目で侮るなよ……」
……落ち着け。
……単純な力勝負なら、そうは劣っていないはずだ。
……あいつは俺の怒りを誘おうとしているだけだ。
ジュリアは何度も心の中で何度もつぶやく。冷静になれ、と。
「……違う。お前の剣は怒りと悲しみで歪んでいると、そう言っている」
一瞬、返す言葉も見つけられなかった。図星だった。
今まで、これほどまでに感情に任せて剣を振るったことが、果してあっただろうか?
それでも、シャムリーに自分を見抜かれたのが悔しくて、必死になって言い返したのだ。
「歪んでるのはお前だ。マーヤはお前を疑わなかった。それを、お前はエヴァリーヌの命令で――」
言葉に合わせ、感情が高ぶる。ジュリアの脳裏には、横たわるマーヤの白い顔が蘇っていた。声は叫びとなる。
「最低だよな。自分への好意を利用するなんて!」
その言葉に対し、彼の反応は非常に淡白なものだった。ただ、その瞳は少しだけ悲しみと――哀れむような光を帯びていた。そして、呟くように。
「……それを、お前がいうのか?」
なにを言う、そう言い返そうとして――ジュリアは言葉を止めた。
その瞬間、頭の中に浮かんだのは、一人の少女の真っ直ぐな笑顔。
「彼女は、お前を慕ってここまで来たんじゃないのか?」
更に続くシャムリーの言葉に絶句することしか出来ない。シャムリーは言葉で追い撃ちをかける。
「その気持ちを知って――それでも、危険な場所へついて来ることを許したんじゃないのか? 戦いに巻き込んだんじゃないのか?」
ジュリアの体は震えていた。自分が犯した罪の重さに。
やっと、気付いたのだ。
自分を盲目的に慕う、純真な妹の存在に。
マーヤは言った。
「こういうことは自分で気付いたほうがいいよ」と。
「人に気付かされた時にはたいていは手遅れだってこと」とも。
今その意味が分かった。やっと、というべきだろう。気づかされた、のだ。
シャムリーはマーヤを傷付けた。それは自らの忠誠心故の行為であっても、決して許されるべきでない所業だ。
だが、自分はどうだ? ジュリアは自問自答する。
マーヤを傷付けられた怒りと悲しみ――それらを吐き出すためにここに来た。ミルシーの同行を許した。それが危険なことだと、分かっていたのに、だ。
今ミルシーは戦っている。負ければきっと命はない。彼女はそれを覚悟でここに来た。
では自分はどうだ? 彼女の想いに応える覚悟があるのか?
――いや、ない。ジュリアはその覚悟も無しに、彼女をここに連れてきたのだ。それがどれだけ残酷な行為か知らないままに。気づこうとも、しないうちに。
忠誠心のためマーヤを傷付けたシャムリーと、怒りのためミルシーを危険に晒したジュリア。この二人に、違いなどあるのだろうか。
シャムリーの行為は責められるべきものだ。だが、ジュリアには彼を責める権利は――ない。
そして、ジュリアが何より愚かだったと思うのは、そのことに気付けなかったこと。
シャムリーは自分が罪深い人間であることを知り、罪を背負うだけの覚悟があった。「最低だ」といわれても、否定しなかった。
だが、罪の自覚すら無い自分は、シャムリー以上に最低な人間だった。
マーヤの言った通り、気づかされた今となってはもう手遅れだ。
ミルシーは既にいない。深い森の奥で、戦っている。今更、詫びることも、城に帰らすことも出来ない。
シャムリーは言った。
「お前の剣は軽すぎる」と。
本当にその通りだ。覚悟も責任も伴わない、なんとも軽い剣だった。
「ジュリア王子。お前では、決して俺には勝てない」
意思の重みが違うから。
そして、シャムリーは剣を構え、地を蹴った。
速さのある、正面からの刺突。
普段のジュリアなら回避することは容易だっただろう。だが今、彼は動揺しきっていた。
体を捻るも、間に合わず、銀の刃はジュリアの利き腕を引き裂いた。
「……ッ!」
みるみるうちに、血が服を染め上げる。
激痛が走り、剣は呆気ない音をたて、地に落ちる。
混乱する心で、なんとか後ろに下がるジュリア。
だが、シャムリーも攻撃を止めない。
とどめを刺すためもう一度剣を光らせた――その時。
『赤い影』が、二人の間に立ち塞がり、その『影』の剣が、シャムリーの剣を止めた。
その影に、ジュリアは自分の目を疑い、次に自分の正気を疑った。
自分は幻想を見ているのではないか、と。
だが、その影はシャムリーが下がったのを確認し、こちらを向いて言ったのだ。
「ごめんね、ジュリア。遅れて」
大剣を手にし、奇妙な赤服を纏い、頭に白い包帯を巻き、表情はいつも通り脳天気な――
「マーヤ……?」
ジュリアを守ることを使命とする少女騎士が、そこにいた。