ゆき子の初恋の丘 1
初恋がいつ始まったのか、わからない。
私の初恋を誰かに正確に語れる記憶など、本当は疑わしい。
仮に明確な記憶があったとしても、私はあなたにしか言わない。
誰が聞いたって、これは平凡な初恋のかたち。
そして、ここに綴るのはおそらく初恋を美化した想い出。
それでも私は書き残したい。
きっと初恋は誰でも書き残したい。
私がその男の子を初めて目に止めたのは小学5年生の真冬の朝だった。
新聞配達をしていた母が熱を出して配達が出来なくなったので、お姉ちゃんとお兄ちゃんと私の三人で手分けして朝刊を配ることになった。
私に手渡されたのは十五部、いつも一番少ない部数だった。
私はそれを歩いて配達する。
昼間は近所の小さな工場で働く母にはこんな事態が時々あった。
私は新聞配達の道順をすっかり覚えてしまっていた。
折り込みチラシを含んだ十五部は重たかったけれど、一軒一軒配るたびに少しずつ荷が軽くなる。それに母の手助けが出来ることが何となく嬉しくて、辛い気分になった事はなかった。
アパートの鉄の階段を上って新聞受けに差し込むのは平屋の家よりも面倒くさい。
それでも母はこの配達を毎朝やっているんだと思うと、辛い気持ちは湧かなかった。
それに、その鉄の階段を上ればゴール、私の新聞はすべて配り終わる。
202号室の新聞受けが、私の配達の終点だったから小さな満足感もあった。
そのアパートの壁の窓格子に、細い針金で軽く留めたある新聞受けがある。
強い風が吹けば落ちてしまいそうな弱い感じが嫌いだった。
止めるなら止めるで、もっと太い針金にすればいいのに。
しかも緩々(ゆるゆる)した止め方で手を抜いたような、いい加減な止め方が気に入らなかった。
新聞を力任せに押し込めば新聞受けごと落ちてしまいそうで、落ちてしまっても私のせいじゃないと、いつもはらはらさせられる事が嫌だった。
見た感じがひ弱い新聞受けを左手で支えながら、そっと新聞を差し込んでいる時に202号室のドアが開かれて、私はその男の子と間近に顔を合わせてしまった。
誰だってあんな静かな朝にあんなに急に、間近に顔と顔を鉢合わせしたら、思わず驚きの声を出したとしても仕方ないと思う。
「きゃっ」私のそんな声と同時に男の子は
「おっ」と目を丸くし、顔をのけぞらして、驚きの声を出した。
それだって仕方ないと思う。
一瞬、息が止まった。
別に悪い事を、こそこそとしていた訳じゃないけれど謝ってしまった。
「ごめんなさい」
「あぁ?」
一声は間抜けな感じで間延びした声だったが、その男の子も気を取り直したのか謝ってくれた。
「驚いたけど、驚かしたみたいだ。ごめん」
丸顔で、男のくせに可愛い顔をしていた。それは私と同級生くらいの男の子だった。
家に帰って登校の準備をしながら、その驚いた時の話しを母に話した。
「だって、ものすごく驚いた。いきなり目の前に男の子の顔が出で来たんだよ。ねえお母さん、その子うちの学校の子じゃないよ、知らない子だった。ほら、あの鉄の階段のアパート。あそこの二階の真ん中の部屋に住んでいるみたい」
母がその子の事を教えてくれた。
「それなら石山さん家の子だよ」
その翌朝も同じように私たちは熱の下がらない母の代わりに新聞配達に出掛けた。
昨日のその男の子の事は忘れていた。
鉄の階段の前に来た時に思い出した。そういえば昨日は驚いた、今日は昨日みたいなことはないだろう。
すると鉄の階段を上りきった時に、202号室のドアがゆっくり開いて昨日の男の子の顔が現れた。
「ああ、やっぱり」
そう言いながら、履き掛けの靴をトントンと突っかけて出てきた。
『やっぱり』と言われて、何だか勝ち誇ったように言われて面白くなかった。
私は仕方無しにお辞儀して、新聞を新聞受けには差さずにその子に手渡した。
その子に背を向けて階段を下り始めると声を掛けられた。
「きみ、小学生だろう?バイトしているんだ、偉いね」
そんな言い方が大人じみた言い方で、無性に腹だたしかった。
あんただって子供じゃないか。
返事なんかするものかと振り向きもせずに、走って、走ってアパートから遠ざかった。
家に戻ると母に聞かずには居られなかった。
「ねえお母さん、石山さん家の男の子って何年生?」
布団の中で母が
「石山さん家は男の子が二人居るけど、どっちだろうね」
「多分、小さい方」
「それなら中学一年生のはずだよ。ゆき子のお兄ちゃんと同じはずだから」
「そんなはずないと思う、私と同じくらいの子が居るはずだから」
「そんな事はないよ、石山さんは男の子が二人で、中学一年と三年の二人だよ」
「だって、小学生みたいだったよ」
「そう?でも中学一年のはずだよ」
「どうして言えるの?」
「どうしてって、その子のお母さんとは工場で同じ班だからね。お兄ちゃんが浩一くん、弟が剛」
母はその子の母親とは仲が良くて、休憩時間も昼食もいつも一緒で色々な世間話をしているらしい、聞き間違いではないとはっきり言われた。
背丈は私より少し大きいけれど中学生には見えなかった。
中学生ならあんな口を利くのかな?見た感じは小学生なのに、そう思うと可笑しな気分だった。
母の熱も下がり私の新聞配達のお手伝いも二日で終わり、それっきりその子の事は忘れた。
小学六年生になっての夏休みに、同級生の照美と近所の杉山神社へ夏祭りに出掛けた。
夏休みはもちろん、夏祭りは大好きだった。
『祭り』と大書された提灯の薄灯りの列と青い法被。
幼い子供まで白塗りのお化粧をされて、小さな頭に豆絞りのねじり鉢巻。
訳のわからないお神楽と、神妙な笛や太鼓のお囃子。
綿飴やハッカパイプ、玩具のくじ引きに金魚すくい。
アセチレンガスの匂いとタコ焼きの香り。
沢山の人出に歩きづらいのも、なぜか笑ってしまう。
お祭りの中の人々の、賑わいの中にいるにこやかな顔を見るのも好きだった。
どの顔も楽しそうにしている。
「お祭りは綿飴だよね」照美がはしゃいだ声で私の手を引く。
照美が綿飴を買いたいと言うので付き合った。
この日に着る浴衣は、お祭りのために箪笥の中で一年を寝て暮らす。
その浴衣もお姉ちゃんのお下がりで、年々小さくなってゆく。
私はとりわけ金魚すくいが好きだった。
「ねっ、次は金魚すくいだよ」
「ゆき子は下手なくせに、金魚すくいが好きだね」
「だって、下手でも必ず一匹はもらえるでしょう」
「どうせすぐに死んでしまうよ」
「えへへ、残念でした。去年の金魚はまだ生きています」
金魚って本当は何年くらい生きるのだろうか。
金魚が泳ぐ平べったくて、とても細く長い桶。
桶の底は必ずペンキの色は水色で、決まって水は生ぬるい。
その中に沢山の金魚が泳いでいる。
お金を払って金魚すくいの『ポイ』という紙の張られた道具を受け取る。
そのポイを手渡してくれたのが、あの男の子だった。
見間違いかと思った。
あれから何ヶ月過ぎたのだろうか、すぐには計算できない。
丸い顔の輪郭が少し角張って来ているが、あのひ弱い郵便受けの男の子に間違いなかった。
いつの間にか金魚すくい屋の係長?それとも店長?になったのだろう、他のお客からもお金を受け取るとポイを渡している。
私に気づいていないのなら、それでも良かった。
私はすぐに金魚すくいに集中した。
金魚すくいの極意は金魚の尾ビレの力を水に濡れた紙から外すこと、ここ狙い目なんだ。
弱った金魚は狙わない、すぐに死んでしまうから。
元気な金魚も狙わない、尾ビレ以外ですぐに紙が破れてしまうから。
丁度いい金魚、弱くなく強くなく、この先何となく生きていけそうな金魚を探す。
私はどれも苦手だったけれど、金魚すくいが好きだった。
照美のポイはすぐに紙が破れて、そのくせ少しも残念そうでもなく、笑ってビニール袋に入れられた、ただ一匹の金魚を受け取っていた。
「思い出した、きみは新聞配達の女の子だ」
あまりにも突然で、私は俯いて返事をしなかった。
でも、思い出したのは私の方が早かった。威張るつもりは少しもないのだけれど、
私の方が早かった。
お祭りの雑踏の中で次の言葉を待っていたが、何もなかった。
本当はあの男の子の声が何かあったのかも知れない。
そしてあの日、何匹の金魚をすくったのかさえも思い出せない。
冬になって母がまた熱を出して、私は時折母に代わって新聞配達したが、
あの子に出会う偶然はなかった。
中学に進んだ四月早々に、照美が近所の公園で面白い落書きを見つけたと言って来た。
「夢見が丘公園の壁にチョークで書かれてある落書きは毎週変わって、しかも面白いんだよ。その落書きは絵じゃなくて短文なんだけどね、それがとても面白いの。それで、私はその落書きの脇に『あなたの名前を教えて!』って書いたの。何日か過ぎて見に行ったら、鉛筆描きでその人らしき自画像というのかな、似顔絵が描かれてあった。でもね、絵は下手くそみたい。ぼさぼさ頭で、どう見ても乞食みたいな顔だった」
「じゃあ、その落書きは乞食が書いたんでしょう」
「何を言っているのよ、いまどきこの辺に乞食なんて見かけないじゃない」
照美が落書きの犯人を捜し始めていたなんて知らなかった。
五月に入って間もない日曜日のお昼近く。
母に新聞購読料の受け取りを頼まれて、安東さんの家を訪れた。
安東さんの家は、夢見が丘公園へ続く長い坂の上にあった。
坂の勾配はかなり傾斜があって、小学一年生の時に、この坂で林檎をひとつを落とした。
林檎は皮を擦り剥きながら坂を一気に転がって、ガードレールにゴンとぶつかり方向を変えてまた転がった。そしてどこかの家の庭先に飛び込んでしまった。
その庭先にはいつの間にか林檎の木が生えていて、子供ながらに『あの林檎の木は私の木だ』と思った。
今ではそんな事はありえないと思える。でも、その林檎の木に対する愛着は今も変わらない。
この坂道をまっすぐに上り続けると、三分とかからずに夢見が丘公園の入り口前に出る。
安東さんの家はそんな坂道に面した所に有った。
集金を済ませて帰りかけた足を、なんとなく気が向いて夢見が丘公園への坂を上った。
幼稚園の頃はこの公園が遠足先と決まっていた。こんな近所にある公園が、その頃はとても遠く感じたものだった。
公園にはブランコに滑り台とシーソーがある筈、でも、そんな遊具ではもう遊ばないし、
今ではほとんどこの公園には来ない。
息を切らせて上ったこの坂道が、今ではあの頃ほど苦にならない。
一台の自転車がブレーキ音を軋ませて下ってくる。
この坂を下る自転車はどれも同じように悲鳴に近いブレーキ音を軋ませる。
安東さんの家には、そんなキーキー音がいつも響いてうるさいだろうな、と思う。
ブレーキを利かせて近づく自転車を見てはっとした。
乗っていたのはあの金魚すくいの男の子。
元をただせば、ひ弱い新聞受けの男の子だった。
そのまま通り過ぎるのかと思ったら、私の真横でその子は自転車を止めて
「こんにちは、俺のこと覚えている?」
私はとっさに首を縦に振っていた。
『うん』という意味だった。
「良かった」
男の子はそれだけを言うと、また自転車のブレーキ音を鳴らしながら坂を下っていった。
正直に首を縦に振った、でもたったそれだけの事が恥ずかしかった。
自転車を振り向きもせずに少し走って坂を上った。
初めてこの坂を走って上った。
走って上るにはこの坂はやはり息が切れる、すぐに走れなくなった。
その時に初めて坂を振り返ったけれど、誰の姿も見えなかった。




