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9/16

家族だから、では契約になりません

東橋が大型荷馬車の通行禁止になってから四日。


銀鹿亭の混乱は、ようやく落ち着き始めていた。


東から西へ迂回する商隊はまだ多い。


それでも周辺の宿や倉庫が臨時の受け入れ体制を整え、最初の二日ほど銀鹿亭へ客が集中することはなくなった。


リディアは食堂の隅で帳簿を開いていた。


「倉庫の夜間利用、昨日は二組です」


向かいに座るベルタが言う。


「一昨日より減りましたね」


「他所も貸し始めたからね」


「でしたら、今の料金を上げる必要はありません」


「下げる必要も?」


「まだありません。橋の補修予定が出るまで様子を見ましょう」


ベルタが頷く。


以前なら、


「何で?」


と聞かれていたところだった。


今は必要なところだけ聞く。


それも少し面白い。


「リディアさん」


ミロが裏口から顔を出した。


「北から来た商隊、馬六頭追加です」


「今夜ですか?」


「はい」


「空きは?」


「七頭分あります」


「でしたら問題ありません。出発予定だけ聞いてください」


「もう聞きました。朝六時です」


「ありがとうございます」


ミロが引っ込む。


ベルタが笑った。


「ずいぶん仕込んだね」


「何をでしょう」


「みんな先に聞くようになった」


たしかにそうだった。


客が何頭の馬を連れてくるか。


何時に出るか。


荷物を一晩置く必要があるか。


以前より早く情報が集まる。


リディアが全てを尋ねなくても、向こうから持ってきてくれるようになった。


「良いことだと思います」


「そりゃね。あんたに後から『それはいつ決まりました?』って聞かれるより楽なんだろ」


「そんなに怖い聞き方をしていますか?」


「してないから怖いんだよ」


意味が分からない。


聞こうとしたところで、外から馬車の音がした。


通りを行き交う荷車とは違う。


車輪の響きが軽い。


客を乗せるための上等な馬車だ。


ベルタが窓を見る。


「うちに来る客じゃないね」


銀鹿亭の前で止まった馬車の扉には、見慣れた紋章があった。


リディアの指が止まる。


カルステン侯爵家。


「……お父様」


「父親?」


ベルタが窓へ顔を近づける。


「ええ」


「来るって聞いてた?」


「いいえ」


御者が扉を開く。


ゲオルク・カルステンが降りた。


銀鹿亭の入口を一度見上げる。


入ってきた父を見て、食堂にいた客の何人かが声を落とした。


服装だけで高位貴族だと分かる。


ベルタは立った。


「いらっしゃいませ」


「リディアはいるか」


「いますよ」


ベルタはすぐリディアを見る。


「仕事の話?」


父が眉を寄せる。


「家族の話だ」


「なら奥使いな」


ベルタは小部屋を指した。


「三十分。混んできたらリディアは仕事へ戻すよ」


ゲオルクの顔がさらに険しくなる。


「私は娘と話をしに来たんだが」


「その娘を今雇ってるのはあたしなんでね」


数秒、沈黙した。


リディアは椅子から立つ。


「ベルタさん。三十分あれば十分です」


「そうかい」


「ありがとうございます」


父と二人、小部屋へ入った。


以前、帳簿を見せてもらった部屋だった。


椅子も机も質素だ。


ゲオルクは座る前に室内を見回した。


「ここで働いているのか」


「普段は食堂の隅を使うことが多いです」


「帳簿係ではなかったのか」


「今は宿務補佐です」


「宿務補佐?」


「ベルタさんが作った職名です」


父は何とも言えない顔をした。


「変わったことをしているな」


「そうでしょうか」


「侯爵令嬢が宿屋の料金を決めているんだろう」


「決めるのはベルタさんです。わたくしは案を作ります」


父の顔を見て、少し懐かしくなった。


カルステン家でも自分は案を作っていた。


ただ、何が違うのかは今なら分かる。


ベルタは、誰が案を作ったのかを隠さない。


採用するかどうかは自分で決める。


失敗した場合も、


「決めたのはあたしだ」


と言う。


それだけの違いだった。


「羊毛の件を聞いているか」


ゲオルクが本題へ入った。


「いいえ」


「何も?」


「カルステン家の内部情報は見ていませんので」


父が少し意外そうな顔をした。


「商人から聞かなかったのか」


「東橋の影響で、いくつかの商隊が遅れたことは知っています。ただ、カルステン家の荷について尋ねることはしていません」


「なぜだ」


「今は仕事上の権限がありませんから」


父は黙った。


やがて、自分から話した。


羊毛十八台を北へ回したこと。


街道に木材輸送が集中していたこと。


競売へ遅れたこと。


南回りへ切り替えようとして、荷車が確保できなかったこと。


売却価格の低下。


追加の保管費。


輸送費。


違約金。


「損失額は?」


ゲオルクが金額を告げた。


リディアは少し考えた。


小さくはない。


侯爵家の経営を揺るがすほどではないが、一度の物流判断としては明確に大きな失敗だった。


「今は羊毛をどこへ?」


「王都の倉庫だ」


「売却先は?」


「競売後の市場で交渉している」


「急いで売る必要がありますか?」


父の顔が変わる。


「それを相談しに来た」


「では、今の情報では分かりません」


ゲオルクが眉を寄せた。


「今の話で何も分からないのか?」


「何も、ではありません」


リディアは指を組んだ。


「急いで処分する案。倉庫で保管する案。加工業者へ直接売る案。別の市場へ送る案。いくつか考えられます」


「なら、その中で一番いいものを」


「選ぶための情報がありません」


「何が要る」


リディアは少し考えた。


「羊毛の品質別数量。現在の王都相場。倉庫契約の残り期間と延長料金。既存の買い手との契約。次の競売までの日数。南部と西部の直近相場。加工工房の稼働率」


父が黙る。


「それから、現在の輸送契約も必要です。東橋停止後にどこまで変更したのか分かりません」


「全部見るのか」


「判断するのであれば」


「そこまでしなくても、大体のところは分かるだろう」


リディアは父を見る。


「大体で決めてもよろしい案件なのですか?」


返事はなかった。


「わたくしは、今カルステン家の状況を何も知りません」


「だから戻れと言っている」


予想していた言葉だった。


それでも実際に聞くと、胸の奥が少し動いた。


「戻る?」


「ああ」


ゲオルクは当然のように言う。


「少なくとも今回の混乱が収まるまででいい。屋敷へ戻って領務を手伝え」


リディアは少し黙った。


戻ってほしい。


数週間前なら、その言葉を待っていたかもしれない。


自分が必要だったと、父が認めてくれる言葉だから。


けれど今は、先に確認したいことがあった。


「どの立場ででしょう」


ゲオルクの顔に不審が浮かぶ。


「何?」


「わたくしの職務です」


「以前と同じでいい」


「領務補佐?」


「ああ」


「担当範囲は?」


「必要なところを見ればいい」


曖昧だった。


以前は、それで働いていた。


「閲覧できる資料は?」


「必要なものは見せる」


「誰が必要かを決めますか?」


父が少し苛立つ。


「お前が必要だと言えば出させる」


「全て?」


「機密まで無条件というわけにはいかん」


「もちろんです」


そこに異論はない。


「では、見せられない資料に関係する部分については、わたくしへ結果責任を求めませんか?」


ゲオルクが止まった。


「随分細かいことを言うようになったな」


「必要だと思うようになりました」


「家の仕事だぞ」


「はい」


「他人の商会へ雇われる話をしているんじゃない」


「ですから確認しています」


父の表情が硬くなる。


リディアは続けた。


「道路担当者へ直接質問できますか?」


「内容による」


「倉庫担当者は?」


「フェリクスを通せ」


「商務担当者も?」


「基本的にはな。フェリクスが全体を見る。それを覚えさせている最中だ」


「では、わたくしは各担当者から直接情報を取れない」


「必要ならフェリクスへ言えばいい」


「急ぐ場合は?」


「リディア」


父の声が少し低くなった。


「以前はそんなことをいちいち聞かなかっただろう」


その通りだった。


だから事件が起きた。


自分が知らないところで荷が入れ替わった。


見ることのできない情報についてまで、自分の名前が追われた。


「今は聞きます」


リディアは静かに答えた。


父の眉間に皺が寄る。


「では、次です」


「まだあるのか」


「はい」


「わたくしが案を作った場合、誰が決裁しますか?」


「フェリクスだ。大きな案件は私が見る」


「決裁された案が失敗した場合、最終責任者は?」


「内容によるだろう」


「わたくしの案に計算間違いがあった場合は、わたくしの責任です」


「当然だ」


「では、計算は正しかった。しかしフェリクスが複数案から一つを選び、それが失敗した場合は?」


父が僅かに黙った。


「提案した以上、お前にも責任はある」


リディアは父を見る。


「どの責任でしょう」


「説明する責任だ」


「失敗そのものの責任も?」


「仕事はそんなに簡単に線を引けるものではない」


主任監察官の言葉を思い出した。


責任は、持っていた権限と実際に行った行為に応じて判断する。


「では、成功した場合は?」


「何?」


「わたくしが案を作り、フェリクスが採用し、利益が出た場合です」


ゲオルクが怪訝そうな顔をする。


「それがどうした」


「誰の実績として記録しますか?」


そこで初めて、父が質問の行き先を理解した。


「また名前の話か」


「大切なことです」


「家としての実績だ」


「公的な報告書には?」


「次期当主であるフェリクスの名前を出すのが自然だろう」


予想通りだった。


「わたくしの名前は?」


「内部の実務記録には残る」


リディアは少し笑いそうになった。


あまりにも以前と同じだった。


成功を示す公的な紙には弟。


実務を追う紙には自分。


「分かりました」


「なら戻れるな」


「いいえ」


ゲオルクが止まった。


「何?」


「お受けできません」


数秒。


本当に意味が通じなかったようだった。


「今、何と言った」


「その条件では働けません」


「条件?」


「はい」


リディアは一つずつ確認したことを思い返す。


必要な資料は全て見られるとは限らない。


担当者へ直接質問する権限もない。


最終決裁は父かフェリクス。


しかし失敗すれば提案者にも責任。


成功すれば公的な実績はフェリクス。


変わっていない。


何一つ。


「わたくしが戻っても、以前と同じです」


「以前と同じで何が悪い」


ゲオルクは本気で分からない顔をしていた。


「六年、それで回っていた」


「はい」


「お前だって不満を言わなかった」


「言いませんでした」


それも事実だった。


「なら今さら――」


「わたくしが間違っていたからです」


父が黙る。


「名前など誰でもよいと思っていました。家のためなら、誰が評価されても同じだと」


リディアは自分の手を見る。


銀鹿亭の契約書へ署名した指。


初めて給金を受け取った手。


「でも、誰が考えたかを残すことは、褒めてもらうためだけではありませんでした」


父は何も言わない。


「誰が見て、誰が決めて、誰が実行したのか。それが分からなければ、失敗した時に責任の場所も分からなくなる」


十九箱の輸送記録には、自分の名前があった。


犯罪の決裁書にはフェリクス。


封印は別部署。


積荷は別商会。


一つずつ分けたからこそ、監察官は最後に自分を無罪とした。


「今の条件なら、わたくしには決める権限がありません」


「案は出せる」


「はい」


「なら十分だろう」


「十分ではありません」


リディアは父を見る。


「わたくしが見られない情報がある。直接確認できないことがある。最後に決めるのは別の人です。それなのに、結果が悪ければわたくしにも責任がある」


「仕事とはそういうものだ」


「では、良かった時は?」


父の口が止まる。


「フェリクスの実績になるのでしょう?」


沈黙した。


怒鳴りたかったわけではない。


責めたかったわけでもない。


確認しただけだった。


その条件を並べれば、それだけで十分だった。


ゲオルクは椅子へ深く座り直した。


「家族だろう」


最後に出てきたのは、それだった。


「はい」


「家族が困っている時に、いちいち権限だの名義だのと」


「仕事を頼みに来られたのでは?」


「家を手伝えと言っている」


「違いは何ですか?」


「契約する相手じゃないということだ」


ゲオルクは苛立ったように言った。


「家族に契約など必要ない」


リディアは父を見る。


不思議と腹は立たなかった。


悲しくもなかった。


ただ、はっきりした。


「必要です」


声は静かだった。


「少なくとも、わたくしには」


父の目が細くなる。


「宿屋で数日働いただけで、随分偉くなったものだな」


少しだけ胸に刺さった。


それでも以前ほどではない。


「偉くなったとは思っていません」


「なら戻れ」


「働く条件を決めることは、偉そうなことではありません」


「家の仕事に給金まで要求するつもりか」


リディアは少し考えた。


「はい」


今度こそ、ゲオルクが言葉を失った。


「仕事でしたら」


「お前はカルステン家の娘だぞ」


「そうですね」


「生活も教育も、何もかも家が用意した」


「はい」


「それでも金を取るのか」


「わたくしが仕事をするのであれば」


自分で口にして、少しだけ驚いた。


数週間前なら言えなかったと思う。


父は立ち上がった。


「馬鹿馬鹿しい」


「残念です」


「フェリクスの失敗一つで、家が崩れるわけじゃない」


「そうでしょうね」


「今回だって立て直せる」


「はい」


リディアもそう思う。


カルステン家は一度の輸送失敗で潰れるような家ではない。


担当者も有能だ。


フェリクスも、失敗から何も学べないほど愚かではない。


「なら、お前がそんな態度を取る必要もない」


そこだけは違った。


「カルステン家が立て直せることと、わたくしが以前の条件へ戻ることは別です」


ゲオルクは答えなかった。


扉を開ける。


その向こうにベルタがいた。


「三十二分」


壁の時計を指している。


「二分超過だね」


ゲオルクの顔が険しくなる。


「ベルタさん」


リディアは立ち上がった。


「申し訳ありません」


「別にいいよ。客が待ってる」


「客?」


「リディアにだよ」


食堂へ戻る。


入口近くに、一人の男が立っていた。


五十代ほど。


上等だが飾り気の少ない服。


銀鹿亭へ泊まる旅商人とは少し違う。


商会を持つ側の人間だろう。


リディアを見ると頭を下げた。


「リディア・カルステンさんですか?」


「はい」


「東橋の件で、少し相談したい」


ゲオルクも食堂へ出てきていた。


男は父の存在に気づいたが、軽く礼をしただけでリディアへ向き直る。


「うちは東部から食用油を運んでいます。今回の迂回で三日分の荷が王都へ遅れている。橋が戻るまで今の経路を維持するか、別の倉庫へ一度集めるか判断に困っていまして」


リディアは答える前にベルタを見る。


自分は銀鹿亭の勤務時間中だ。


「ベルタさん」


「一時間ならいいよ」


「銀鹿亭の仕事は?」


「夕方の予約表は片付いてる。相談料の三割は場所代」


男が笑った。


「もちろん払います」


リディアは少し迷った。


外部相談の料金は、まだ一度しか決めたことがない。


「でしたら、一時間でこちらです」


金額を書く。


自分では少し高い気がした。


男は紙を見た。


「それでお願いします」


値切らない。


確認もしない。


そのまま財布を出した。


ゲオルクが見ていた。


リディアは男へ尋ねる。


「現在の荷量を教えていただけますか」


「一日十二台です」


「油の種類は?」


「菜種が八。胡桃が四」


「保存期間は同じですか?」


男の顔が少し変わる。


「違います」


「倉庫はどちらも同じ場所?」


「今は」


「では、まず分けましょう」


男が椅子へ座る。


帳面を出す。


「やはり、そうなりますか」


「まだ結論ではありません。現在の倉庫代と、荷車の戻り便を確認したいです」


「資料は持ってきています」


机へ書類が置かれた。


必要なものを、自分から見せる。


「足りないものがあれば言ってください」


「ありがとうございます」


男はペンまで用意した。


リディアは一枚目を開いた。


その向こうで、ゲオルクがまだ立っている。


家族だから。


契約はいらない。


資料も、権限も、成果の名前も曖昧なままでいい。


そう言った父の目の前で。


会ったばかりの他人が、リディアの一時間へ値段を付けた。


必要な資料を揃えた。


相談内容を明確にした。


そして、その金を迷わず払った。


「お父様」


リディアは顔を上げた。


「帰りはお気をつけて」


ゲオルクは何も言わなかった。


やがて店を出る。


扉が閉まった。


リディアは目の前の書類へ視線を戻した。


「では、続けましょう」


商会長が頷く。


「お願いします」


父を追う必要はなかった。


今は、自分の名前で受けた仕事があった。


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