家族だから、では契約になりません
東橋が大型荷馬車の通行禁止になってから四日。
銀鹿亭の混乱は、ようやく落ち着き始めていた。
東から西へ迂回する商隊はまだ多い。
それでも周辺の宿や倉庫が臨時の受け入れ体制を整え、最初の二日ほど銀鹿亭へ客が集中することはなくなった。
リディアは食堂の隅で帳簿を開いていた。
「倉庫の夜間利用、昨日は二組です」
向かいに座るベルタが言う。
「一昨日より減りましたね」
「他所も貸し始めたからね」
「でしたら、今の料金を上げる必要はありません」
「下げる必要も?」
「まだありません。橋の補修予定が出るまで様子を見ましょう」
ベルタが頷く。
以前なら、
「何で?」
と聞かれていたところだった。
今は必要なところだけ聞く。
それも少し面白い。
「リディアさん」
ミロが裏口から顔を出した。
「北から来た商隊、馬六頭追加です」
「今夜ですか?」
「はい」
「空きは?」
「七頭分あります」
「でしたら問題ありません。出発予定だけ聞いてください」
「もう聞きました。朝六時です」
「ありがとうございます」
ミロが引っ込む。
ベルタが笑った。
「ずいぶん仕込んだね」
「何をでしょう」
「みんな先に聞くようになった」
たしかにそうだった。
客が何頭の馬を連れてくるか。
何時に出るか。
荷物を一晩置く必要があるか。
以前より早く情報が集まる。
リディアが全てを尋ねなくても、向こうから持ってきてくれるようになった。
「良いことだと思います」
「そりゃね。あんたに後から『それはいつ決まりました?』って聞かれるより楽なんだろ」
「そんなに怖い聞き方をしていますか?」
「してないから怖いんだよ」
意味が分からない。
聞こうとしたところで、外から馬車の音がした。
通りを行き交う荷車とは違う。
車輪の響きが軽い。
客を乗せるための上等な馬車だ。
ベルタが窓を見る。
「うちに来る客じゃないね」
銀鹿亭の前で止まった馬車の扉には、見慣れた紋章があった。
リディアの指が止まる。
カルステン侯爵家。
「……お父様」
「父親?」
ベルタが窓へ顔を近づける。
「ええ」
「来るって聞いてた?」
「いいえ」
御者が扉を開く。
ゲオルク・カルステンが降りた。
銀鹿亭の入口を一度見上げる。
入ってきた父を見て、食堂にいた客の何人かが声を落とした。
服装だけで高位貴族だと分かる。
ベルタは立った。
「いらっしゃいませ」
「リディアはいるか」
「いますよ」
ベルタはすぐリディアを見る。
「仕事の話?」
父が眉を寄せる。
「家族の話だ」
「なら奥使いな」
ベルタは小部屋を指した。
「三十分。混んできたらリディアは仕事へ戻すよ」
ゲオルクの顔がさらに険しくなる。
「私は娘と話をしに来たんだが」
「その娘を今雇ってるのはあたしなんでね」
数秒、沈黙した。
リディアは椅子から立つ。
「ベルタさん。三十分あれば十分です」
「そうかい」
「ありがとうございます」
父と二人、小部屋へ入った。
以前、帳簿を見せてもらった部屋だった。
椅子も机も質素だ。
ゲオルクは座る前に室内を見回した。
「ここで働いているのか」
「普段は食堂の隅を使うことが多いです」
「帳簿係ではなかったのか」
「今は宿務補佐です」
「宿務補佐?」
「ベルタさんが作った職名です」
父は何とも言えない顔をした。
「変わったことをしているな」
「そうでしょうか」
「侯爵令嬢が宿屋の料金を決めているんだろう」
「決めるのはベルタさんです。わたくしは案を作ります」
父の顔を見て、少し懐かしくなった。
カルステン家でも自分は案を作っていた。
ただ、何が違うのかは今なら分かる。
ベルタは、誰が案を作ったのかを隠さない。
採用するかどうかは自分で決める。
失敗した場合も、
「決めたのはあたしだ」
と言う。
それだけの違いだった。
「羊毛の件を聞いているか」
ゲオルクが本題へ入った。
「いいえ」
「何も?」
「カルステン家の内部情報は見ていませんので」
父が少し意外そうな顔をした。
「商人から聞かなかったのか」
「東橋の影響で、いくつかの商隊が遅れたことは知っています。ただ、カルステン家の荷について尋ねることはしていません」
「なぜだ」
「今は仕事上の権限がありませんから」
父は黙った。
やがて、自分から話した。
羊毛十八台を北へ回したこと。
街道に木材輸送が集中していたこと。
競売へ遅れたこと。
南回りへ切り替えようとして、荷車が確保できなかったこと。
売却価格の低下。
追加の保管費。
輸送費。
違約金。
「損失額は?」
ゲオルクが金額を告げた。
リディアは少し考えた。
小さくはない。
侯爵家の経営を揺るがすほどではないが、一度の物流判断としては明確に大きな失敗だった。
「今は羊毛をどこへ?」
「王都の倉庫だ」
「売却先は?」
「競売後の市場で交渉している」
「急いで売る必要がありますか?」
父の顔が変わる。
「それを相談しに来た」
「では、今の情報では分かりません」
ゲオルクが眉を寄せた。
「今の話で何も分からないのか?」
「何も、ではありません」
リディアは指を組んだ。
「急いで処分する案。倉庫で保管する案。加工業者へ直接売る案。別の市場へ送る案。いくつか考えられます」
「なら、その中で一番いいものを」
「選ぶための情報がありません」
「何が要る」
リディアは少し考えた。
「羊毛の品質別数量。現在の王都相場。倉庫契約の残り期間と延長料金。既存の買い手との契約。次の競売までの日数。南部と西部の直近相場。加工工房の稼働率」
父が黙る。
「それから、現在の輸送契約も必要です。東橋停止後にどこまで変更したのか分かりません」
「全部見るのか」
「判断するのであれば」
「そこまでしなくても、大体のところは分かるだろう」
リディアは父を見る。
「大体で決めてもよろしい案件なのですか?」
返事はなかった。
「わたくしは、今カルステン家の状況を何も知りません」
「だから戻れと言っている」
予想していた言葉だった。
それでも実際に聞くと、胸の奥が少し動いた。
「戻る?」
「ああ」
ゲオルクは当然のように言う。
「少なくとも今回の混乱が収まるまででいい。屋敷へ戻って領務を手伝え」
リディアは少し黙った。
戻ってほしい。
数週間前なら、その言葉を待っていたかもしれない。
自分が必要だったと、父が認めてくれる言葉だから。
けれど今は、先に確認したいことがあった。
「どの立場ででしょう」
ゲオルクの顔に不審が浮かぶ。
「何?」
「わたくしの職務です」
「以前と同じでいい」
「領務補佐?」
「ああ」
「担当範囲は?」
「必要なところを見ればいい」
曖昧だった。
以前は、それで働いていた。
「閲覧できる資料は?」
「必要なものは見せる」
「誰が必要かを決めますか?」
父が少し苛立つ。
「お前が必要だと言えば出させる」
「全て?」
「機密まで無条件というわけにはいかん」
「もちろんです」
そこに異論はない。
「では、見せられない資料に関係する部分については、わたくしへ結果責任を求めませんか?」
ゲオルクが止まった。
「随分細かいことを言うようになったな」
「必要だと思うようになりました」
「家の仕事だぞ」
「はい」
「他人の商会へ雇われる話をしているんじゃない」
「ですから確認しています」
父の表情が硬くなる。
リディアは続けた。
「道路担当者へ直接質問できますか?」
「内容による」
「倉庫担当者は?」
「フェリクスを通せ」
「商務担当者も?」
「基本的にはな。フェリクスが全体を見る。それを覚えさせている最中だ」
「では、わたくしは各担当者から直接情報を取れない」
「必要ならフェリクスへ言えばいい」
「急ぐ場合は?」
「リディア」
父の声が少し低くなった。
「以前はそんなことをいちいち聞かなかっただろう」
その通りだった。
だから事件が起きた。
自分が知らないところで荷が入れ替わった。
見ることのできない情報についてまで、自分の名前が追われた。
「今は聞きます」
リディアは静かに答えた。
父の眉間に皺が寄る。
「では、次です」
「まだあるのか」
「はい」
「わたくしが案を作った場合、誰が決裁しますか?」
「フェリクスだ。大きな案件は私が見る」
「決裁された案が失敗した場合、最終責任者は?」
「内容によるだろう」
「わたくしの案に計算間違いがあった場合は、わたくしの責任です」
「当然だ」
「では、計算は正しかった。しかしフェリクスが複数案から一つを選び、それが失敗した場合は?」
父が僅かに黙った。
「提案した以上、お前にも責任はある」
リディアは父を見る。
「どの責任でしょう」
「説明する責任だ」
「失敗そのものの責任も?」
「仕事はそんなに簡単に線を引けるものではない」
主任監察官の言葉を思い出した。
責任は、持っていた権限と実際に行った行為に応じて判断する。
「では、成功した場合は?」
「何?」
「わたくしが案を作り、フェリクスが採用し、利益が出た場合です」
ゲオルクが怪訝そうな顔をする。
「それがどうした」
「誰の実績として記録しますか?」
そこで初めて、父が質問の行き先を理解した。
「また名前の話か」
「大切なことです」
「家としての実績だ」
「公的な報告書には?」
「次期当主であるフェリクスの名前を出すのが自然だろう」
予想通りだった。
「わたくしの名前は?」
「内部の実務記録には残る」
リディアは少し笑いそうになった。
あまりにも以前と同じだった。
成功を示す公的な紙には弟。
実務を追う紙には自分。
「分かりました」
「なら戻れるな」
「いいえ」
ゲオルクが止まった。
「何?」
「お受けできません」
数秒。
本当に意味が通じなかったようだった。
「今、何と言った」
「その条件では働けません」
「条件?」
「はい」
リディアは一つずつ確認したことを思い返す。
必要な資料は全て見られるとは限らない。
担当者へ直接質問する権限もない。
最終決裁は父かフェリクス。
しかし失敗すれば提案者にも責任。
成功すれば公的な実績はフェリクス。
変わっていない。
何一つ。
「わたくしが戻っても、以前と同じです」
「以前と同じで何が悪い」
ゲオルクは本気で分からない顔をしていた。
「六年、それで回っていた」
「はい」
「お前だって不満を言わなかった」
「言いませんでした」
それも事実だった。
「なら今さら――」
「わたくしが間違っていたからです」
父が黙る。
「名前など誰でもよいと思っていました。家のためなら、誰が評価されても同じだと」
リディアは自分の手を見る。
銀鹿亭の契約書へ署名した指。
初めて給金を受け取った手。
「でも、誰が考えたかを残すことは、褒めてもらうためだけではありませんでした」
父は何も言わない。
「誰が見て、誰が決めて、誰が実行したのか。それが分からなければ、失敗した時に責任の場所も分からなくなる」
十九箱の輸送記録には、自分の名前があった。
犯罪の決裁書にはフェリクス。
封印は別部署。
積荷は別商会。
一つずつ分けたからこそ、監察官は最後に自分を無罪とした。
「今の条件なら、わたくしには決める権限がありません」
「案は出せる」
「はい」
「なら十分だろう」
「十分ではありません」
リディアは父を見る。
「わたくしが見られない情報がある。直接確認できないことがある。最後に決めるのは別の人です。それなのに、結果が悪ければわたくしにも責任がある」
「仕事とはそういうものだ」
「では、良かった時は?」
父の口が止まる。
「フェリクスの実績になるのでしょう?」
沈黙した。
怒鳴りたかったわけではない。
責めたかったわけでもない。
確認しただけだった。
その条件を並べれば、それだけで十分だった。
ゲオルクは椅子へ深く座り直した。
「家族だろう」
最後に出てきたのは、それだった。
「はい」
「家族が困っている時に、いちいち権限だの名義だのと」
「仕事を頼みに来られたのでは?」
「家を手伝えと言っている」
「違いは何ですか?」
「契約する相手じゃないということだ」
ゲオルクは苛立ったように言った。
「家族に契約など必要ない」
リディアは父を見る。
不思議と腹は立たなかった。
悲しくもなかった。
ただ、はっきりした。
「必要です」
声は静かだった。
「少なくとも、わたくしには」
父の目が細くなる。
「宿屋で数日働いただけで、随分偉くなったものだな」
少しだけ胸に刺さった。
それでも以前ほどではない。
「偉くなったとは思っていません」
「なら戻れ」
「働く条件を決めることは、偉そうなことではありません」
「家の仕事に給金まで要求するつもりか」
リディアは少し考えた。
「はい」
今度こそ、ゲオルクが言葉を失った。
「仕事でしたら」
「お前はカルステン家の娘だぞ」
「そうですね」
「生活も教育も、何もかも家が用意した」
「はい」
「それでも金を取るのか」
「わたくしが仕事をするのであれば」
自分で口にして、少しだけ驚いた。
数週間前なら言えなかったと思う。
父は立ち上がった。
「馬鹿馬鹿しい」
「残念です」
「フェリクスの失敗一つで、家が崩れるわけじゃない」
「そうでしょうね」
「今回だって立て直せる」
「はい」
リディアもそう思う。
カルステン家は一度の輸送失敗で潰れるような家ではない。
担当者も有能だ。
フェリクスも、失敗から何も学べないほど愚かではない。
「なら、お前がそんな態度を取る必要もない」
そこだけは違った。
「カルステン家が立て直せることと、わたくしが以前の条件へ戻ることは別です」
ゲオルクは答えなかった。
扉を開ける。
その向こうにベルタがいた。
「三十二分」
壁の時計を指している。
「二分超過だね」
ゲオルクの顔が険しくなる。
「ベルタさん」
リディアは立ち上がった。
「申し訳ありません」
「別にいいよ。客が待ってる」
「客?」
「リディアにだよ」
食堂へ戻る。
入口近くに、一人の男が立っていた。
五十代ほど。
上等だが飾り気の少ない服。
銀鹿亭へ泊まる旅商人とは少し違う。
商会を持つ側の人間だろう。
リディアを見ると頭を下げた。
「リディア・カルステンさんですか?」
「はい」
「東橋の件で、少し相談したい」
ゲオルクも食堂へ出てきていた。
男は父の存在に気づいたが、軽く礼をしただけでリディアへ向き直る。
「うちは東部から食用油を運んでいます。今回の迂回で三日分の荷が王都へ遅れている。橋が戻るまで今の経路を維持するか、別の倉庫へ一度集めるか判断に困っていまして」
リディアは答える前にベルタを見る。
自分は銀鹿亭の勤務時間中だ。
「ベルタさん」
「一時間ならいいよ」
「銀鹿亭の仕事は?」
「夕方の予約表は片付いてる。相談料の三割は場所代」
男が笑った。
「もちろん払います」
リディアは少し迷った。
外部相談の料金は、まだ一度しか決めたことがない。
「でしたら、一時間でこちらです」
金額を書く。
自分では少し高い気がした。
男は紙を見た。
「それでお願いします」
値切らない。
確認もしない。
そのまま財布を出した。
ゲオルクが見ていた。
リディアは男へ尋ねる。
「現在の荷量を教えていただけますか」
「一日十二台です」
「油の種類は?」
「菜種が八。胡桃が四」
「保存期間は同じですか?」
男の顔が少し変わる。
「違います」
「倉庫はどちらも同じ場所?」
「今は」
「では、まず分けましょう」
男が椅子へ座る。
帳面を出す。
「やはり、そうなりますか」
「まだ結論ではありません。現在の倉庫代と、荷車の戻り便を確認したいです」
「資料は持ってきています」
机へ書類が置かれた。
必要なものを、自分から見せる。
「足りないものがあれば言ってください」
「ありがとうございます」
男はペンまで用意した。
リディアは一枚目を開いた。
その向こうで、ゲオルクがまだ立っている。
家族だから。
契約はいらない。
資料も、権限も、成果の名前も曖昧なままでいい。
そう言った父の目の前で。
会ったばかりの他人が、リディアの一時間へ値段を付けた。
必要な資料を揃えた。
相談内容を明確にした。
そして、その金を迷わず払った。
「お父様」
リディアは顔を上げた。
「帰りはお気をつけて」
ゲオルクは何も言わなかった。
やがて店を出る。
扉が閉まった。
リディアは目の前の書類へ視線を戻した。
「では、続けましょう」
商会長が頷く。
「お願いします」
父を追う必要はなかった。
今は、自分の名前で受けた仕事があった。




