満室なのに赤字
「実績がありません」
商業組合の紹介係は、申し訳なさそうに言った。
リディアは机の向こうへ置かれた自分の経歴書を見る。
リディア・カルステン。二十四歳。
カルステン侯爵家にて領務補佐、六年。
書かれているのは、それだけだった。
昨日、自室で二枚分も書き出した「できること」と比べると、ずいぶん寂しい。
「会計の経験は?」
「あります」
紹介係が筆を取る。
「どの程度でしょう」
「領内歳入の取りまとめ、公共事業の予算管理、倉庫費、輸送費、工房への助成、商会との決済でしょうか」
筆が止まった。
「全部ですか?」
「担当の方が作ったものを、最終的にまとめていました。細かな仕訳は会計官の方が詳しいです」
「輸送計画もできるとありますが」
「はい」
「荷車の手配程度ではなく?」
「領内の中継倉庫を三か所から二か所へ統合して、空荷で戻っていた馬車へ帰り荷を載せるよう経路を組み直しました。商会ごとにずれていた出発日も――」
「少々お待ちください」
止められた。
紹介係は経歴書とリディアを見比べる。
「それは、カルステン侯爵家の物流改革ですよね?」
「はい」
「フェリクス・カルステン卿の?」
来た。
「公式には」
紹介係がしばらく黙った。
「実際には?」
「わたくしが設計しました」
「証明できる書類はありますか?」
「ありません」
今度はリディアが即答した。
父やフェリクスの名で出された公式資料を持ってくることはできる。
しかし、それでは自分が作った証明にならない。
領内で使っていた詳細資料には自分の筆跡も残っているだろうが、今は外部監査中だ。内部資料を勝手に持ち出すなど論外だった。
「監察局の職務整理には一部記録されています。ただ、捜査に関する書類ですから、求職のために自由に使えるものではありません」
「なるほど……」
紹介係が額を押さえた。
困らせているらしい。
「難しいでしょうか」
「難しいです」
率直だった。
「能力を疑っているわけではありません」
最近、この言葉をよく聞く。
紹介係は続けた。
「今のお話が本当なら、普通の帳簿係として紹介するには能力が高すぎます。でも、それだけの仕事を任せるには、こちらが実績を保証できない」
「なるほど」
「加えて、失礼ながら今はカルステン家の件があります」
「はい」
「雇う側からすれば、侯爵家の令嬢を雇ったのか、事件の関係者を雇ったのか、判断に困ります」
「わたくしへの疑いは正式に晴れています」
「私は承知しています。ただ、お店の主人全員が監察局の記録まで確認するわけではありません」
もっともだった。
リディアは経歴書を見た。
「では、一般の帳簿係でも」
「そちらは、また別の意味で難しいです」
「なぜ?」
紹介係が苦笑した。
「侯爵令嬢に『そこ、数字が違います』と叱れる町の店主を、私が探さないといけなくなるので」
リディアは少し考えた。
「間違っているなら、叱っていただいて構いませんが」
「あなたは構わなくても、向こうが構うんです」
難しい。
父が言ったことにも、一部はやはり正しかったらしい。
家の外へ出れば同じようにはいかない。
「分かりました」
リディアは経歴書を受け取った。
「ありがとうございました」
「あ、いや。待ってください」
紹介係が机の引き出しを開けた。
何枚かの求人票をめくる。
「正式な紹介はできません」
「はい」
「ですから、これは組合からの紹介ではないということで」
一枚だけ抜いた。
西通り。
宿屋。
臨時帳簿係募集。
店名は、銀鹿亭。
「半年で帳簿係が三人替わっています」
「……それは大丈夫なのですか?」
「だから正式には紹介しないんです」
ずいぶん正直な人だった。
「店主のベルタさんが厳しい。数字が一枚合わないだけでも翌日まで追いかけるような人です」
「正しいのでは?」
「あなた、意外と相性いいかもしれませんね」
なぜか笑われた。
「客は多い。二十年以上続いている店です。ただ最近、帳簿係を探しているのに長続きしない」
リディアは求人票を見る。
「給金が払われない?」
「それはありません。そこだけは信用できます」
「では、なぜ三人も」
「行けば分かるかもしれません」
求人票を受け取った。
正式な紹介ではない。
採用されなくても、組合は責任を持たない。
それで十分だった。
商業組合を出ると、昼前の王都は人が多かった。
侯爵家の馬車は使っていない。
エナと二人で歩いている。
「本当にこれで地味なんですか?」
リディアは自分の外套を見る。
装飾のほとんどない灰色だ。
「お嬢様の服の中では、かなり地味です」
「そう」
「でも、生地がいいので」
「隠せない?」
「たぶん」
身分を偽るつもりはない。
聞かれたら答えるしかない。
西通りへ向かう途中、東側から来た大きな荷車が道端へ止まっていた。
御者が役人らしい男へ文句を言っている。
「昨日も量っただろ!何で今日また重量を見るんだよ!」
「俺に言われても知らん!東から来る大型車は全部だ!」
「橋でも落ちるのか!」
「縁起でもないこと言うな!」
エナが横目で見る。
「大変そうですね」
「そうね」
その少し先では、材木屋の主人が荷を数えていた。
太い梁材が何本も積まれている。
「今週だけでこんなに持っていくのか?」
荷運びの男がぼやく。
「市の注文だよ。太いやつ優先だとさ。普通の板なら余ってるのにな」
「何に使うんだ?」
「知らん」
通り過ぎる。
さらに先で、市の作業着を着た男たちが十人ほど東へ向かって歩いていた。
つるはし。
縄。
測量棒。
「今日はあっちばかりですね」
エナが言う。
「ええ」
リディアはそのまま歩いた。
銀鹿亭は西通りの中ほどにあった。
鹿の角を銀色に塗った看板。
三階建ての古い建物だが、よく手入れされている。
扉を開けると、昼前なのに食堂の半分近くが埋まっていた。
商人らしい客が多い。
旅装の男。
帳簿を広げた二人組。
隅には荷運びらしい若者たち。
流行っている。
受付にいた女性がこちらを見た。
五十歳くらいだろうか。
赤みのある茶髪を後ろでまとめ、太い腕を腰へ当てている。
「食事かい?」
「帳簿係の募集を見て伺いました」
「帰んな」
早かった。
エナの目が丸くなる。
リディアも少し驚いた。
「まだ何もお話ししていませんが」
「見りゃ分かる」
「何がでしょう」
「お嬢様だよ」
ベルタはリディアの外套を指す。
「そういう布を着て『帳簿付けさせてください』って来る子を雇ったら、三日後に父親が怒鳴り込んでくる」
「父は来ないと思います」
「来る奴はみんなそう言う」
「以前にも?」
「一度あった」
なるほど。
警戒にも理由がある。
「遊びではありません」
「遊びじゃなくても困る。こっちは人が足りないんだ。仕事覚えた頃に『思ってたのと違いました』で帰られたら、また探し直しだよ」
「でしたら――」
「悪いね」
話は終わりらしい。
リディアは少し考えた。
「昼食をいただけますか?」
ベルタが瞬いた。
「……食うのかい?」
「お腹が空きました」
「客なら歓迎だよ」
今度はすぐ席へ案内された。
切り替えの早い人だった。
出てきたのは、肉と根菜を柔らかく煮込んだものだった。
黒パンと、小さなサラダも付いている。
「美味しい」
リディアが言うと、向かいのエナも頷いた。
「これ、安くないですか?」
「安いわね」
量も多い。
食堂が混む理由は分かる。
宿屋なのだから、泊まり客も食べるだろう。
リディアは周囲を見る。
奥の卓では三人の商人が、向かいにできた倉庫について話していた。
「あそこ、来月もう一棟開くってよ」
「またか。便利にはなったけど、夜の馬置くところが足りねえんだよ」
「ここの厩舎も昨日ぎりぎりだったぞ」
その時、裏口から少年が飛び込んできた。
「ベルタおばちゃん!」
「何だい、うるさいね!」
「燕麦、また上がった!」
「昨日買っただろ!」
「三日分しかない!今夜六頭来るって追加された!」
「どこの客!」
「ハインツさん!」
ベルタが舌打ちする。
「二袋追加!いつものところが高すぎるなら二番目にも聞きな!」
「分かった!」
少年がまた外へ走っていく。
リディアは黒パンをちぎった。
「何です?」
エナが小声で聞く。
「何が?」
「今、目が変わりました」
「そう?」
「何か考えてる時のお嬢様です」
よく見ている。
「宿泊料金を見てくるわ」
入口横の札には、一室あたりの料金が書かれていた。
朝食付き。
馬二頭までの厩舎利用と飼料込み。
三頭目から追加料金。
リディアは席へ戻った。
「安いですね」
エナも札を見ていた。
「そうね」
「いい宿なんじゃないですか?」
「そうね」
食事を終えた。
会計へ行く。
ベルタが金を受け取りながら言った。
「口に合ったかい?」
「とても」
「ならまた来な」
「一つ伺っても?」
「仕事の話なら帰んな」
「宿泊料金です」
ベルタが警戒する。
「一室に馬二頭まで含まれていますよね」
「ああ」
「いつから同じ料金ですか?」
「三年くらい」
「三年前、向かいの倉庫は?」
「なかったよ」
「最近、一室あたりの馬の数は増えました?」
ベルタの手が止まる。
「……何でそんなこと聞く」
「気になったので」
「増えたよ」
「どのくらい?」
「前は一部屋に一頭いるかいないか。今は商人が多いから二頭は普通。三頭、四頭連れてくるのもいる」
「燕麦は三年前と比べて?」
「上がった。かなりね」
リディアは少し考えた。
「三頭目からの追加料金は?」
「変えてない」
「そうですか」
それなら。
リディアは店の奥を見る。
ほぼ満席の食堂。
出入りする商人。
外から聞こえる馬の声。
「ベルタさん」
「何だい」
「最近、満室の日ほどお金が残らなくなっていませんか?」
ベルタの顔から表情が消えた。
エナが隣で瞬いた。
「……誰から聞いた」
「誰からも」
「組合?」
「帳簿係が三人替わったとは聞きました。でも経営状況までは」
ベルタがじっとこちらを見る。
「何で分かる」
「まだ分かったとは言えません」
「今、言ったじゃないか」
「帳簿を見ていないので仮説です」
「何が違うんだい」
「間違っているかもしれません」
ベルタはしばらく黙った。
それから顎をしゃくった。
「来な」
「どこへ?」
「見たいんだろ。帳簿」
奥の小部屋へ連れていかれた。
エナは食堂で待つことになった。
部屋には小さな机と帳簿棚。
ベルタは分厚い帳簿を二冊だけ取り出した。
「持ち出すなよ」
「もちろんです」
「書き写すのもなし」
「はい」
「見るだけ」
「分かりました」
渡されたのは、この三か月分。
記録は綺麗だった。
部屋数。
宿泊料金。
食事。
厩舎の追加料金。
飼料費。
薪。
人件費。
洗濯。
補修。
数字そのものに怪しいところはない。
前任者たちはきちんと仕事をしている。
「満室だった日を教えてください」
ベルタが日付を三つ指した。
リディアは見る。
次に、半分ほどしか客室が埋まらなかった日を二つ。
数字を追う。
満室の日は売上が高い。
当然だ。
しかし飼料費が跳ねている。
夜番の追加賃金もある。
一方、客室が半分しか埋まらなかった日は、売上こそ低いものの、利益は思ったほど落ちていない。
「馬の数は記録してありますか?」
「厩舎に」
「見せていただけますか?」
「ここで待ってな」
ベルタ自身が取りに行った。
戻ってきた薄い帳面を見る。
三年前。
一室あたり平均一頭前後。
現在。
二頭を越えている。
大型馬も増えている。
リディアは計算する。
難しいものではない。
数字をいくつか別紙へ並べた。
「こちらの日」
「何だい」
「客室は全室埋まっています」
「ああ。先月で一番忙しかった日だ」
「利益は、こちらの七割しか部屋が埋まっていない日より少ないです」
ベルタが紙を見る。
眉が寄る。
「何でだ」
リディアは厩舎帳を隣へ置いた。
「この日は宿泊客が二十二人。馬が三十七頭」
「それで?」
「こちらは宿泊客十八人。馬が十一頭」
ベルタの目が動く。
「銀鹿亭は、一室を貸しているだけではありません」
「何?」
「今の料金だと、部屋と一緒に馬二頭分の場所と飼料まで売っています」
宿泊料金の札を思い出す。
「向かいに倉庫ができて、荷を運ぶ商人が増えた。客室数は変わっていないのに、一室についてくる馬だけ増えています」
ベルタが帳簿を見る。
「でも三頭目からは金取ってるよ」
「はい。でもその料金も三年前のままです」
燕麦は上がっている。
夜の厩舎仕事も増える。
大型馬なら、食べる量も同じではないだろう。
そこは自分より厩番に聞いた方がいい。
「満室だから赤字になるわけではありません」
リディアは紙を指した。
「今の料金のまま、馬を多く連れたお客様で満室になると、儲からなくなります」
ベルタは黙った。
帳簿をめくる。
別の日を見る。
また別の日。
今度は自分で厩舎帳を引き寄せた。
忙しかった日。
馬が多い。
利益が少ない。
少し空いていた日。
馬が少ない。
思ったより金が残っている。
「……何だこれ」
低い声だった。
「帳簿係は誰も気づかなかったのかい?」
「帳簿係の方々は、帳簿を正しく付けています」
リディアは即座に答えた。
「間違っていません」
「でも」
「記録する仕事として雇ったのでしょう?」
ベルタが止まる。
「収支の仕組みを作り直す仕事まで頼んでいたのですか?」
「……いや」
「でしたら、仕事はしています」
ベルタは何も言わなかった。
前任者を責めるのは違う。
記録は正しい。
問題は、その正しい数字を見て何を変えるかだ。
しばらくして、ベルタがリディアを見る。
「じゃあ、あんたならどうする」
「まだ分かりません」
また顔をしかめられた。
「今度は何だい」
「馬の管理費を正確に知りません。燕麦だけではありませんよね?」
「寝藁も使う。水もいる。夜番もいる」
「大型馬は?」
「普通の馬より食う」
「どのくらい?」
「そこは厩番に聞きな。あたしより詳しい」
「では、聞かせてください」
リディアは厩舎帳を閉じた。
「それから常連のお客様が銀鹿亭を選ぶ理由も知りたいです」
「安いからじゃないのかい?」
「本当に安さだけなら、料金を変えた瞬間に全員いなくなります」
「怖いこと言うね」
「そうならない方法を探します」
ベルタは腕を組んだ。
「いつから働ける?」
今度はリディアが瞬いた。
「雇っていただけるのですか?」
「まだだよ」
即座に返された。
「三日」
指が三本立つ。
「三日で、この宿の料金をどう変えるか考えな。客を全部追い出す案ならその場で終わり」
「分かりました」
「帳簿の整理もやってもらう。そっちが本来の募集だからね」
「もちろんです」
リディアは少し考えた。
「給金は、結果が出てからで構いません」
ベルタの顔が険しくなった。
「それは駄目だ」
「なぜ?」
「働かせるんだろ?」
「はい」
「なら払う」
あまりに当然の顔だった。
「でも、三日で役に立てるかはまだ」
「使えなかったら三日で切る。働いた三日分までタダにはならない」
リディアは黙った。
「何だい」
「いえ」
「変な娘だね」
それは自分でも少し思う。
ベルタが紙を出した。
「条件を書くよ」
「お願いします」
「帳簿はこの部屋から持ち出さない。見る時はあたしか指定した者がいる時だけ。客に勝手な約束をしない。仕入先へも勝手に連絡しない」
「料金案は?」
「作っていい。決めるのはあたし」
「厩舎については?」
「厩番へ聞くのはいい。指示するのは駄目」
「分かりました」
「他にある?」
リディアは少し迷ってから尋ねた。
「わたくしが作った案をベルタさんが採用した後、最終的な責任を持つのはどちらですか?」
ベルタが眉を上げた。
「何の話だい?」
「料金を変えて、お客様が減った場合です」
「あたしだよ」
答えは早かった。
「決めるのはあたしだって言っただろ」
リディアはベルタを見る。
「あなたは案を作る。数字を間違えたらあなたの責任。あたしがそれを見て使うと決めたら、その先はあたしの責任だ」
「……そうですか」
「何だい。そんなに変か」
「いいえ」
変ではない。
本当なら、それが普通なのだろう。
リディアが普通を知らなかっただけで。
「給金はこちら」
ベルタが金額を書く。
リディアは見る。
「帳簿係としては少し高くありませんか?」
「三日だけだからね。それに、さっきのが偶然じゃないなら安い」
「では、もう少し低くても」
「何で雇われる側が値切るんだい」
「……たしかに」
ベルタが呆れた顔をする。
「他人の金には細かそうなのに、自分の金には変なんだね」
返す言葉がなかった。
契約書の最後に署名欄がある。
リディアはペンを取った。
リディア・カルステン。
その名前の上に、
三日間。
帳簿整理及び料金改善案の作成。
閲覧できる資料。
決めてよいこと。
決めてはいけないこと。
給金。
それぞれが書かれている。
「明日は何時に?」
「朝八時」
「七時半では?」
「早いよ」
「では七時五十五分に」
ベルタが顔をしかめた。
「面倒だね、あんた」
「よく言われます」
「嘘つきな。言われてない顔してるよ」
少し笑われた。
リディアも笑った。
銀鹿亭を出る。
店の前では、向かいの大きな倉庫へ荷車が入っていた。
一台。
二台。
三台。
馬はどれも大きい。
その横を、東から来た別の荷車が通る。
御者が同乗者へぼやいていた。
「また重量検査だってよ。東橋を渡る前に全車止められた」
「昨日からだろ?」
「こんなんじゃ日が暮れる」
声が遠ざかる。
リディアは一度だけ振り返った。
向かいの倉庫。
馬。
東から来た荷車。
そして銀鹿亭の看板。
「お嬢様?」
エナが隣で呼ぶ。
「何でもないわ」
歩き出す。
「採用されたんですか?」
「三日だけ」
「すごいじゃないですか!」
「まだ試用よ」
「でも、侯爵家の名前で?」
リディアは少し考えた。
ベルタは、自分がカルステン侯爵家の娘だから最初に追い返した。
それでも最後には契約した。
「いいえ」
リディアは答えた。
「たぶん、今回は違うと思う」
鞄の中には三日間の契約書が入っている。
家の印章はない。
父の署名もない。
フェリクスの名前もない。
書かれているのは、銀鹿亭の主人ベルタと、
リディア・カルステン。
その二人の名前だけだった。




