4.争点
突き刺すような光に、雨宮蓮は反射的に目を閉じた。
(……大丈夫、か?)
数秒ほど様子をみていたが、閉眼時、光の透過はない。
雨宮蓮はゆっくりと瞼を持ち上げ、薄目で手元を確認した。
漫画本を持つ自身の手が、雨宮蓮の目に、はっきりと映った。
(別に、なにもない、よな)
床、天井、壁、本棚、読書スペースと、順々に辺りを見渡していく。しかし、特に変わった様子は見つけられない。
「……疲れてんのかな」
雨宮蓮は、こめかみを抑えて深いため息を吐いた。読書スペースの母親側の椅子をひき腰掛けると、テーブルの上に両腕を投げ出して突っ伏した。
(誰も居るはずがないのに声が聞こえて、眩しい光に包まれて……って、漫画のテンプレ展開かよ、ってか)
漫画部屋での漫画的な展開に、苦笑いを浮かべ始める。はあ、と再度ため息を吐くと、雨宮蓮は面を上げて、テーブルに顎を乗せた。
テーブルの中央に飾られている観葉植物と、父親側の漫画本が目に入る。
「……あれ?」
雨宮蓮は、ふと、違和感に気が付いた。
先程まで観葉植物と共にテーブルの中央に並べられていた、白狗の置物が無くなっているのだ。雨宮蓮は体を起こしてテーブルの上を見渡す。
しかし、やはりテーブルの上にあるのは、父親側の椅子の前に漫画本が一冊と、中央に置かれた観葉植物の鉢のみ。
白狗の置物がどこにもない。
「あっれれー、おっかしいぞー」
覚えはないが、床に落としてしまったのだろう。そう思った雨宮蓮は、小学一年生のような声を出しながらテーブルの下を覗き込み―――
「……」
――ぴたりと静止した。
一回、二回。ゆっくりと瞬きを繰り返した雨宮蓮の目の前には、鎮座する真っ白な物体。
ふわりとした白毛に覆われている物体からは、ぴょこんと三角の耳がふたつ立っており、小さな黒い鼻がひくひくと動いている。
「……犬?え。ん、んん?」
一回、二回。
ゆっくりと瞬きを繰り返した雨宮蓮は、目の前の光景をなんとか理解しようと脳内に働きかける。
「……」
見間違いだろう、それしかない。と、雨宮蓮は強く目をこする。
しかし、どれ程こすろうとも、そこには白い犬らしきもの変わらず居る。
雨宮蓮の知る限り、この家で犬は飼っていない。
また、この部屋の窓は本棚に隠されており、侵入できる場所はない。仮に別の部屋の窓から侵入してきたとして、ここはマンションの三階である。隣の家からの侵入を許したとして、バルコニーとバルコニーの間の仕切り板の下を通れるのは、子猫ほどの大きさだ。
理解の追い付かない雨宮蓮に見せつけるかのように、《犬らしきもの》はのっそりと立ち上がり、四足歩行でテーブルの下から出てきた。
雨宮蓮は後を追うように、覗き込んでいた体を持ち上げ、体制を整える。
「……犬だ」
犬らしきものの大きさは、中型犬、もしくは大型犬。
真っ白な毛に覆われ、すっと伸びたスタイリッシュな鼻。三角の耳の中部は薄いピンク色。狼のようにもみえるが、目元は垂れておりサモエドや日本スピッツのような愛らしさがあり、黒色のふたつの瞳は、じっ、と雨宮蓮を見上げている。
『うん、犬だよ』
白い光に包まれる前に聞こえた声と同じ、少年のような少女のような『人の』声が、雨宮蓮の耳に届いた。
「……そっか、犬か」
自らを犬と認めた犬は、雨宮蓮の足元で伏せの姿勢を見せると、体と同じく、もふもふのしっぽを横に振った。
そっかそっか、と雨宮蓮は頷きながら、犬の愛くるしさに思わず頭を撫でる。
「……」
我に返った様子で、ぴたりとその手を止めた。
背中から、ぶわっと汗が拭きだすのを感じながら、雨宮蓮は全身を震わせる。
「しゃしゃしゃ喋った」
『うん、喋ってるね』
雨宮蓮の反応を楽しむかのように、犬はころころと笑う。
「そしたら、犬では……ないな」
『いや、犬だよ。ほら、狼みたいな牙はないでしょ』
ほらー、と言って、犬は口を大きく開ける。
犬の口の中には犬歯らしきものはあったが、狼を連想させる鋭い牙のようなものはない。
「……でも、犬は喋らないよ」
数秒ほど犬の口の中を見つめていた雨宮蓮は、ゆっくりと首を横に振って否定を述べる。
先程までよりも、幾分か落ち着いた声色である。
しかし、それは決して現状を受け入れたわけではなかった。
犬が人の言葉を話している、というあまりにも非現実的な光景に、雨宮蓮は、ここが夢の中であると思い始めたのだ。
(俺、もしかして倒れたんかな……頭、大丈夫かな)
現実にいるであろう自分への心配も思い浮かべながら、雨宮蓮は犬と会話を続ける。
『そりゃあ、この世界の犬はね。僕は違う世界の犬なんだよ』
「じゃあ、この世界だと犬じゃないよ」
得意げな口調の犬に、雨宮蓮は犬に向けて再度首を横に振った。
『いや、犬だよ。ほら、見てよこの肉球。犬でしょ』
ほらー、と犬は右前脚を持ち上げ、こげ茶色の肉球を雨宮蓮に向ける。
犬だ。と一瞬頭に過ったが、雨宮蓮はさらに首を横に振った。
「犬は、喋らないんだ。仮に異世界で犬と呼ばれていたとしても、この世界の基準だと、犬じゃないよ」
それは、雨宮蓮が日ごろファンタジー漫画を読んでいるときに得た基準でもあった。
『……』
雨宮蓮の意見を聞いた犬は、口をあんぐりと大きく開けると、
『確かに‼それはそう‼盲点だったよ』
と大きな声で同意した。
同時に、もともと横に振られていた尻尾の勢いが増す。
『やっぱり、君となら語らうのも楽しそうだ』
そして、嬉しそうに笑った。
『それなら、君は僕をなんだと思う?』
犬は、まるで問題でも出すかのように、雨宮蓮に問いかける。
「妖怪、かなあ」
余裕が出てきたのか、雨宮蓮は頬杖をつきながら、臆することなく答えた。
『ぶはっ、妖怪か!なんか響きが嫌だけども、確かに確かに、あはははっ』
犬はツボに入ったのか如く、噴き出した。
ぺしぺし、と前脚で床を叩き、目元からは微かに涙のようなものまで浮かべている。その様子は、人間が机の上を叩いて抑えきれない感情を表現するときのようであった。
『あれ?……でも君は、妖怪かもしれない僕が怖くないの?』
暫くして漸く笑い声を止めた犬は、不思議そうに首を傾げた。
「いやー、怖いよ。怖い怖い。人間にしか見えない犬って、現実にいたらこんなに怖いんだって思ってる」
続く犬の犬らしくない様子を眺めながら、雨宮蓮は答えた。
それは、この場を夢だと思い込んでる雨宮蓮にとって紛れもない本音だったし、犬から見ても、嘘を吐いているようには見えなかった。
しかし同時に、言葉に反して雨宮蓮からは、恐怖を感じている様子が全く感じられない。
『えー。そんな様子、微塵も感じないんだけど。普通、怖かったら逃げ出さない?』
その矛盾に、犬はおかしそうにころころと笑う。
――まあ、夢だし。
雨宮蓮は、そのままの通りに答えようと思った。
『あー、おっかしい』
しかし、雨宮蓮が言葉を発する前に、犬はむくりと体を起こした。
軽いストレッチをするかのように、ぶるぶる、と体を震わせると、そのまま尻を地面につけた。前脚二本で上半身を支え、標準的なおすわりの姿勢をとる。
そして、伏せの姿勢の時よりも少し近づいた雨宮蓮の顔を、下から見上げた。
『漫画的に面白いことってさ、現実に起こると嫌な事が多くてさ』
「嫌な事って?」
雨宮蓮が、犬に問う。
犬は、答えた。
『例えばさ、交通事故に遭って異世界に飛ばされる主人公って結構いるじゃん。君、そんなシーンを読んだ時、どんな感想を抱く?』
「!!」
犬の声色は、先程から変わらず、どこか笑みを含む。
一方。雨宮蓮の表情は瞬時に強張った。
犬は、雨宮蓮の答えを待つことなく続けた。
『僕はね、思うんだ。現実世界で交通事故って、ものすごく悲しい出来事で。そんな悲しい出来事を、漫画を盛り上げるために、使ってんじゃねえよって』
「……」
『交通事故を起こした人も、巻き込まれて死んだ主人公の家族も、目撃した人も、事故を処理する警察も……みんなみんな巻き込まれてるのに。日常を、壊されているのに』
「……」
『どうして、楽しい話へと続けられるのか、どうしてそんな現実的な事をすっとばして、盛り上がれるの?って。つっこまずにはいられないんだ』
「……」
『ねえ、君は……雨宮蓮は、どう思う?』
雨宮蓮は、ごくりと唾を飲み込んだ。
体の奥底から、熱が這い上がってくるのを感じる。
ここは、きっと夢だから――そう言い聞かせて、雨宮蓮は漸く口を開いた。
「創作だから、で済むんだよ。漫画の方は」
低い声で紡がれた雨宮蓮の答えに、待ってました、とばかりに犬は尻尾を横に振る。
『‼……でも、創作だからこそ、つっこまずにはいられなくない⁉普通なら、つっこまないことも、語り合えるくない⁉語り合おうよ‼』
「うおっ⁉」
そして、犬は勢いよく雨宮蓮に飛び掛かった
『物語に書かれた《現実》を‼』
雨宮蓮の視界が、犬の腹でいっぱいになり――そこで、雨宮蓮は紛れもなく“意識を失った”。




