1.遭遇
◇◇◇Third-Person Objective
グレーがかった白色のザラついた壁に、薄いベージュの長尺ビニール床。
白色電灯に照らされた壁の掲示板には、《STOP!!わき見運転》など運転者への注意喚起を図る交通安全ポスターが、四つ角すべてに綺麗に画鋲止めされた状態で貼り出されている。
大人が二人通れるほどの、狭い廊下。
こつ、こつ。
一方から、二人分。
こつ、こつ。
もう一方から、二人分。
あわせて四人分の足音が、《多目的トイレ》と記載された扉の前で止まる。
「「……」」
一人は、白色の無地のTシャツにベージュの短パン、スポーツメーカーの黒のスニーカーと、全体的に動きやすそうな服装の、細身の青年。雨宮 蓮21歳、大学生。
顔立ちは整っており、幼さ残すうさぎ顔。天然なのか染めているのか、判断の難しい色素の薄い茶色の髪。スパイラルパーマがかかり、両サイドのもみあげ部分は、数ミリ程度に刈り上げられている。
一人は、紺色縦縞のワイシャツにグレーのパンツスーツ、ヒールの低いパンプスを着用した小柄な女性。高野 愛菜24歳、元会社員。
体の凹凸は少ないが、鼻が高く顔立ちははっきりしていて、美人の部類。手入れの行き届いた綺麗な黒髪は、後頭部の低い位置で綺麗な団子でまとめられている。
そして、雨宮蓮の前を歩くショートカットの小柄な若い女性警察官と、高野愛菜の数歩後ろを歩く、ガタイのいい短髪強面の中年男性警察官。
「「‼︎」」
警察官の二名は、同じ場所で足を止めた二人の姿に、顔を強張らせた。男性警察官が二人に気づかれぬよう女性警察官へ小さく首を横に振ると、女性警察官もごく僅かに頷き、《沈黙》を選択した。
「……」
「……すみません」
雨宮蓮が無言で右の手のひらを向けると、高野愛菜は小さく頭を下げ、多目的トイレ特有の銀色の大きな取っ手を掴む。そのまま横にスライドさせて、トイレの中へと入っていった。
すれ違い様、雨宮蓮と高野愛菜の視線は互いの顔に向けられたが、赤く腫れ上がった瞼を見て、双方すぐに視線を逸らす。
「別の階にもありますので、そちらに行きましょう」
「あ、はい、ありがとうございます」
一連の流れを静かに様子見ていた女性警察官は、雨宮蓮を別の階のトイレに誘導するため声をかける。女性が出てくるまで扉前で待つのは気が引けていた雨宮蓮は素直に頷き、女性警官の後を追うためトイレに背を向けた。
途端。
「あああああああああ、ごめんなざい、ごめんなさい、ごめんなざいっ、あああああ」
「「「‼︎」」」
高野愛菜の叫び声が、それぞれの耳に突き刺さる。
近くで待機していた男性警察官は、すかさず胸ポケットからマイナスドライバーのような薄い金属プレートを取り出した。
「高野さーん、開けますよー」
男性警察官は高野愛菜に間延びした声を投げかけると、多目的トイレの扉に記載された《非常時解除用》の文字の下にある穴に、取り出したプレートの先を突き刺す。
涙混じりの叫び声を耳にした雨宮蓮は、思わず足を止めてトイレのほうに体を向け直した。しかし、男性警察官と同様、すかさず女性警察官が天宮蓮の腕を勢いよく掴む。
「雨宮さん、いきましょう」
「わ、っと、あ、はい」
圧をかけるように雨宮蓮の顔を下から覗き込んだ女性警察官は、掴んだ雨宮蓮の腕を自身の方へと強く引き寄せた。雨宮蓮は、その勢いに思わずよろける。なんとか踏ん張り体制を整えると、女性警察官に引かれるままに、足を動かした。
開錠に成功した男性警察官が扉をスライドさせると、多目的トイレ特有の広いスペースの中央で、高野愛菜が文字通り土下座をしていた。
「ごろじでっ、くだざいっ、おねがいじまずっ、ごめんなざい、ごめんなざいっ」
彼女は、床に向かって、何度も何度も額を打ち付ける。
「落ち着いて。ね、死んで逃げるなんて許されないの。ね」
高野愛菜の手に凶器がないことを確認した男性警察官は、正面から彼女の両肩を掴み、自傷行為を制止した。
「だっで!!だ、だっで、わだじがごろじた、わだじが、」
「うんうん。プツッーーこちら交通課市橋、被疑者錯乱中、額を数度床に打ち付け軽傷あり、3階多目的トイレに玉川巡査らを増員願います。どうぞ」
男性警察官もとい市橋は、涙腺が崩壊している高野愛菜と視線を合わせたまま、制服の左肩にクリップ留めされている無線に右手をかけ、玉川巡査(女性警察官)の応援を呼ぶ。
「ーーこちら中野、了解。そちらに向かわせる。どうぞーー」
「了解です、以上ーープツッ」
求める返答を得られた市橋は、無線を切った。
「ひっく、ひっく」
高野愛菜の嗚咽混じりの啜り泣く音と、無情に回り続ける換気扇のまわる音。その二つの音が、多目的トイレ内に反響する。
(…………表示されていない右折信号の誤認、交差点侵入後、交差道路側の直進車両との衝突回避のため急なハンドル操作、信号待ちの歩行者群に突入。2名死亡、2名軽傷の死亡事故)
市原は、事前に共有されていた《交通事故発生状況報告書》の内容を脳裏に浮かべる。被疑者ーー高野愛菜が起こしてしまった、死亡事故。
本人の認識の通り、《誰がどう聞いても》彼女が悪い、あまりにも悲惨な事故。
しかし。
「ごめんなざい…ごめんなざい…ごめんなざい…」
(…典型的な、悪意のない殺人事件)
日本だけでなく、世界でも共通している最多の事実。その数をできる限りゼロにしたいと強く望み、憎まれ役になりがちな交通課を選ぶ者も少なくない。
警察官の身として決して口すことは出来ないが、これからの高野愛菜を思うと、市原は憐憫の念を抱かずにはいられなかった。
***
女性警察官に連れられ別の階のトイレで用を済ませた雨宮蓮は、両肘を大きく開いた脚の上に置き、両手を顔の前で組み額を乗せ、俯くような姿勢でパイプ椅子に腰掛けていた。
廊下と同じく、ベージュの長尺シートに、ざらついたグレー交じりの白い壁。八畳ほどの、窓のない個室。出入りの扉は一つで、廊下側に《応接室》の室名表示が掲げられている。
扉を背にした状態で、横向きに長テーブルが一台。長テーブルよりも出入口側の右側には、よく刑事ドラマなどで登場する記録用の机と椅子が、ぽつんと置かれている。
長机の上には、半透明のプラスチックボックスが一箱と、箱ティッシュが一箱、緑茶のペットボトルが一本。また、長机を挟んで入り口側のパイプ椅子には女性警察官が、向かい合う形で俯く雨宮蓮が、そして記録用の机には若めの男性警察官が腰掛けており、男性警察官はペンを静かに動かしていた。
個室内の防音性は低いようで、時折廊下から警察官同士の会話や、行き交う者たちの足音が聞こえてくる。
雨宮蓮は、長机の上に置かれた半透明のプラスチックボックスに視線を移した。
プラスチックボックスの中には、画面割れのスマホや黒染みのついた赤いショルダーバッグなど《誰かの私物》がビニール袋に包まれた状態でいくつか詰められている。そしてそれらは、雨宮蓮にとって見覚えのある物ばかりだった。
何故。それらが、本来の持ち主たちの手にないのか。
何故。自身はここに居るのか。
何故。会えなくなったのか。
“ごめんなざいっ”
先ほど多目的トイレで遭遇した高野愛菜の姿を思い浮かべながら、雨宮蓮は、静かに息を吸い込んだ。
「……もしかして、さっきのお姉さんが、犯人ですか?」
吐き出された雨宮蓮の問いに、女性警察官は、静かに喉を鳴らした。




