末期
人間には段階がある。
子供から大人になる段階、仕事における若手からベテランへの段階、生まれてから死ぬまでの段階。
良い段階も「悪い段階」もある。
「ベンチ」
二十三時を回った駅のホームは、湿った夜気と鉄の匂いが混じり合っている。
僕の毎日は、この無機質な空間で始まり、またここで終わる。広告代理店の制作進行という仕事は、生きている感覚と時計の針を麻痺させる。
そんな僕には、最近気になっている男がいた。
年齢は僕と同じであろう二十代後半。くたびれたスーツの肩を落とし、毎晩最寄り駅のホームのベンチで五〇〇ミリリットルの缶チューハイを二本、儀式のように空ける男だ。
男はいつも、飲み干すとフラフラになりながら改札へと消えていく。その足取りは危ういが、どこか解放されたようにも見えた。
「よっぽど、溜まってるんだろうな……」
他人事ではない。僕もまた、胃の奥にどろりとした澱を抱えながら、彼を横目に最終列車に乗り込むのが常だった。
ーーー
ある夜、帰りの路線が止まった。人身事故だった。
「……またか」
車内アナウンスを聞きながら、僕は舌打ちを飲み込む。溜まりに溜まった疲労が、焦燥感となって肌を刺す。一刻も早くベッドに倒れ込みたいだけなのに、世界はそれを許してくれない。
ようやく最寄り駅に辿り着いたとき、いつものベンチに目をやった。
だが、そこに「彼」はいなかった。
「今日は休肝日か?」
少しだけ拍子抜けしながら、僕は静まり返った街を家路についた。主のいないベンチは、妙に白々しく街灯に照らされていた。
「境界線」
翌日は金曜日だった。週末の開放感など、この業界には存在しない。
結局、オフィスを出たのは夜の十一時を過ぎていた。足取りは鉛のように重い。
僕は駅前のコンビニに吸い込まれるように入り、ストロング系の缶チューハイを二本、手に取った。解放されたい、その一心だった。
ホームのベンチに腰を下ろす。冷えたアルミ缶の感触が、熱を持った掌に心地よい。
一本目を喉に流し込む。炭酸の刺激と一緒に、上司の叱責や終わらない修正依頼、将来への漠然とした不安が、胃の腑へと押し流されていく。
二本目を開ける頃には、視界がゆっくりと滲み始めていた。
頭がフワフワと浮き上がる。骨が抜けたような感覚。まるで、自分が「一旦木綿」にでもなって、夜風にたなびいているような錯覚に陥る。ここではないどこかへ、このまま風に流されて消えてしまいたい。
「終着」
その時、アナウンスもなく回送電車が猛スピードで目の前を通過した。
「ゴォォッ」という轟音と共に、暴力的な風が僕を襲う。
体がふわりと前傾した。線路の底にある暗闇が、磁石のように自分を吸い寄せようとしている。
ああ、あの男もこんな気持ちだったのかな。
僕は抵抗するのをやめた。一旦木綿のように軽く薄く感ぜられた体は、もはや重力に従うことを忘れていた。吸い込まれるような感覚は、恐怖ではなく、むしろ抱擁に近い安らぎさえ伴っていた。
ああ、「彼」もまた段階を進んだだけだったんだ、次は僕の番だったんだ。
最後に脳裏をよぎったのは、明日の仕事の締め切りでも、コンビニのレジの音でもなく、アルミ缶の乾いた音だけだった。
視界が真っ暗な衝撃に塗りつぶされる。
嵐が去った後のホームには、主を失った二本のアルミ缶だけが転がっている。
そこにはもう、「僕」という意識を繋ぎ止めるものは何もない。
人が死ぬと残るのは名前、だが肉塊に名前などない。




