更新の度に王子様が私を忘れる世界で、それでも今日もあなたに恋をする
——また、殿下に初対面の挨拶をされてしまった。
「アルシェイド公爵令嬢。お目にかかれて光栄だ」
朝の庭園。白い薔薇のアーチの下で、わたしはうっかり立ち尽くした。
第一王子セルヴァン・リヒトハルト殿下は、完璧な微笑みと、完璧な礼を、完璧に「初対面」の令嬢に向けるそれでやってみせる。
そこに、昨晩わたしの指先に口づけを落とし、耳元で「ユルナ」と囁いた男の面影は、欠片もない。
ああ、と、胸の奥で小さく音がした。
また、だ。
「……こちらこそ、光栄に存じます。殿下」
わたしは、いつものように微笑みを貼り付け、ドレスの裾をつまみ上げた。礼儀作法の教本どおりの淑女として、完璧な挨拶を返す。
唇の内側を軽く噛んで、震えそうになる声を押し殺しながら。
——また、忘れられた。
◇
毎晩、零時。
王都の中心にそびえる時計塔が、深く澄んだ音を鳴らす。
それは「更新の鐘」と呼ばれている。
一度目の鐘。
二度目の鐘。
三度目の鐘。
三度、鐘が鳴り終わる頃には、世界が少しだけ違う形をしている。
昨日まで得意だったはずの料理が、今日は失敗するようになっていたり。
隣国との条約の条件が、微妙に有利になっていたり。
王城の廊下の絨毯の色が、気付かない程度に変わっていたり。
そして一番厄介な変更は、いつだって「人間関係」だ。
——たとえば、第一王子と公爵令嬢の関係性とか。
かつて「幼馴染」だった日があった。
城下町の裏路地で、雨宿りをしながら二人でパンを分け合った記憶。
『ユルナ、半分な。……いや、やっぱり多めにやる。お前、いつも食が細い』
『殿下こそ、お仕事でお疲れなのに』
『いいから食え。育たないぞ』
そう笑って、わたしの頬についたパンくずを指で拭ってくれたひと。
別の更新の日には、「冷酷な婚約者」だった。
『アルシェイド嬢。これは王国のための婚約だ。情は挟まない』
そう言って、舞踏会の真ん中で淡々と婚約破棄を告げたひと。
また別の更新では、「ひどく甘やかな恋人」だった。
『ユルナ。今日は公式の予定はない』
『では、殿下はゆっくりお休みに——』
『お前を甘やかす予定で忙しい』
そう言って、仕事を放り出してまでわたしの読書に付き合ってくれたひと。
全部、同じ顔で、同じ声で、同じ金の瞳をしている。
でも、更新の鐘が鳴るたびに「セルヴァン殿下」が入れ替わる。
ただひとつ、変わらないのは——
忘れられるのは、いつも、わたしだけだということ。
◇
「ユルナ? 顔色がすぐれませんね」
庭園から戻ると、侍女のノエラが心配そうに眉を寄せた。わたしは慌てて表情筋を整える。
「少し、朝の冷え込みが厳しかっただけですわ。大丈夫」
「殿下、今日はやっぱり……?」
「ええ。『はじめまして、公爵令嬢』でした」
ノエラがそれ見たことかと息を呑む。
彼女は事情を知る数少ないひとだ。最初の「更新」が起きた日に、泣きながら縋ったわたしの話を、馬鹿げていると笑わずに聞いてくれた。
「……それでも、行かれるのですか?」
「ええ。殿下の執務室へ」
「また、お辛い思いをなさるかもしれませんよ」
「ええ。たぶん」
それでも。
「——行きます」
わたしはスカートの裾を持ち上げ、ノエラの方へ振り返った。
「何度忘れられても、わたしは殿下に恋をします。今日は、その一回目ですから」
「……ユルナ様って、本当に頑固です」
「貶されています?」
「いえ。尊敬しています」
少しだけ笑ってから、ノエラは深くお辞儀をしてくれた。
わたしは深呼吸をひとつして、王子の執務室へと続く廊下を歩き出す。
足取りは軽いふりをして。
心臓は、嫌になるほど重いまま。
◇
「殿下。差し入れをお持ちしました」
執務室の扉をノックし、許可を得て中へ入る。
山積みの書類の向こうで、セルヴァンが顔を上げた。
今日の殿下は、眼鏡をかけている。真面目な書記官のような印象が、少し新鮮だった。
「アルシェイド嬢。何用だ?」
「お仕事のお邪魔をしてしまいましたら、ごめんなさい。少し疲れを癒やせるものを、と」
わたしはお盆を机の端にそっと置く。
銀のポットと、二客のティーカップ。香り立つ紅茶の匂いが、書類とインクの匂いに混ざって広がる。
——この茶葉は、かつて殿下が「一番好きだ」と言ったものだ。
『香りが落ち着く』と、何度もおかわりを所望した日の記憶が、胸の奥で柔らかく疼く。
「……ふむ」
セルヴァンはポットとカップに一瞥をくれ、金の瞳を細めた。
「これは?」
「リヒトハルト商会が最近輸入を始めた新しい茶葉です。殿下のお好みに合うかと」
「私の好みを、いつ聞いた?」
喉の奥がきゅっと締まった。
ああ、やっぱり。
昨日のセルヴァンでは、ない。
「申し訳ございません。お口に合わなければお下げいたしますわ」
「……いや、せっかく持ってきたのだろう。いただこう」
カップに紅茶を注ぐと、とろりとした琥珀色の液体が光を受けて揺れた。
セルヴァンは黙って口元へ運び、一口すする。
瞬間、ほんの刹那だけ、その瞳に懐かしい柔らかさが浮かんだ気がした。
「どうでしょう?」
「悪くない。香りが落ち着く」
——やっぱり、好きなんじゃないですか。
喉元まで出かかった言葉を飲み込む。
「何か、他に用件が?」
「はい。殿下のお目を通していただきたい案件が——」
そこから先は、冷静な公務の話だ。
税率の調整。隣国への支援物資。貴族派と王党派のバランス。
わたしは、公爵家の後継者としての顔を被り直し、淡々と要点を伝える。
セルヴァンもまた、王太子としての顔で応じる。
恋人だった時間の残骸に、触れないように。
ほんの一瞬だけ揺れた紅茶の香りの記憶も、語らずにしまっておく。
——わたしのことを知らない殿下に、「覚えていてください」と縋ることはできない。
そんなのは、卑怯だから。
◇
その日一日、わたしたちは「政略上の婚約者」として、必要最低限の会話だけを交わした。
周囲から見れば、どこからどう見ても優秀な王太子と淑女然とした公爵令嬢の、模範的な政治的パートナーだ。
熱も、棘も、特別な色もない。
透明で、均等で、淡々とした関係。
寝台に横たわった夜、天蓋の布を見つめながら、わたしは両手を胸の上で組んだ。
「……疲れた」
誰もいない部屋に、ようやく呟きがこぼれる。
何度目だろう。
この「初対面の日」をやり直したのは。
この「冷たい婚約者」としての一日を、必死に笑って過ごしたのは。
数えようとしたこともあった。けれど、十を超えたあたりから、どこまでが本当に存在した日で、どこからがわたしの脳が勝手に作り出した夢なのか、分からなくなった。
……それでも。
「明日は、もう一歩だけ、仲良くなれるといいな」
眠る前の小さな願いは、いつも同じだ。
更新の鐘が、また、零時を告げる。
一度。
二度。
三度。
世界の形が、少しだけ、変わる。
目を閉じたまま、わたしは胸の奥で、そっと祈った。
「——ねえ。今度こそ、あまり変えないでください」
◇
夢を見た。
石畳ではない。舗装された灰色の道。
馬車ではなく、鉄の箱が音を立てて走っている。
王城ではなく、四角い建物の群れ。
見たことのない光景。けれど、懐かしい。
『有里』
誰かがわたしを呼ぶ声がする。
振り向くと、そこにいるのは、セルヴァンではない。
黒髪で、少し眠そうな目の少年。制服の胸ポケットにはペンが差さっていて、片手にはノート。
『また徹夜? 死ぬよ』
『……仕事、終わらなくて』
『そんな会社やめちゃえばいいのに』
『簡単に言うね、映司』
名前を呼んだ瞬間、胸がきゅっと苦しくなった。
映司。
ああ、わたし、この人を知っている——。
夢の中のわたしは、「ユルナ」ではなかった。
疲れたスーツ姿の女。鏡に映る自分を見て、「夢見 有里」と認識する。
机の上に積み上がった書類。点滅するメール。鳴り続ける電話。それらから逃げるように開いた小さな画面には、文字が並んでいた。
『更新しました』『次回、王子は少しだけ優しくなります』
タイトルも、あらすじも、どこかで見たような文字列。
画面の端に表示された作者名は——
『水城 映司』
『ねえ、有里』
隣でノートにペンを走らせながら、映司がぼそりと言った。
『物語の中くらい、君にはちゃんと幸せになってほしいな』
その瞬間、夢が砕けた。
◇
目を覚ましたとき、胸が痛くてたまらなかった。
起き上がると、こめかみのあたりで鈍い頭痛がする。けれど、さっきまでの夢の内容は、妙な鮮明さで脳裏に残っていた。
「夢見……有里」
声に出してみる。
知らないはずの名前。けれど、舌に乗せた瞬間、「それはわたしだ」と理解した。
前世。
そう呼ぶしかない記憶。
「水城……映司」
幼馴染。
隣で、いつも何かを書いていたひと。
わたしが擦り切れていくのを、苦い顔で見ていたひと。
——そして、この世界の「作者」。
◇
王城の書庫は、いつもひんやりしている。
高い天井まで届く書棚には、国の歴史も、財政の記録も、魔術の研究も、ありとあらゆる知識が収められている。
けれど、その一番奥。誰も足を踏み入れないような薄暗い一角に、ぽつりと置かれた机と、一冊の本があった。
昨日までは、なかったはずのもの。
わたしは吸い寄せられるように近付き、その本の表紙に手を伸ばす。
タイトルが、目に飛び込んできた。
『更新の度に王子様が私を忘れる世界で、今日もあなたに恋をする』
息が止まる。
震える指で本を開くと、そこには見覚えのありすぎる物語が並んでいた。
最初の更新で、「幼馴染」から「婚約者」に関係が書き換えられた日のこと。
舞踏会の真ん中で、冷たく婚約破棄を告げられたこと。
泣きながらノエラの部屋に駆け込んだこと。
それでも翌朝には、殿下の寝癖を直しながら笑っていたこと。
全部。全部、そこにあった。
わたしの恋が。失敗も、幸せも、全部。
ページをめくる手が、いつの間にか涙で濡れていた。
最後のページだけが、真っ白だった。
そこに、ひとつだけ、小さな文字が浮かんでいる。
『——そろそろ、楽になろうか』
あの夢で見たノートと、同じ癖のある字だった。
「……映司」
思わず名前を呼ぶ。
その瞬間、書庫の空気が、ぴん、と張り詰めた。
◇
「やっと、思い出した?」
背後から聞こえた声は、夢の中と同じだった。
振り向くと、薄暗がりの中にひとりの青年が立っていた。
王国の服でも、貴族の礼装でもない。地味なシャツにズボン。どこかの学生のような格好。
黒髪。眠たげな目。
それでも、その目がまっすぐわたしを射抜いてくる瞬間だけ、鋭く冴える。
——水城 映司。
「……ここまで来るの、結構時間かかったな」
「わたしを忘れさせていたのは、あなた?」
「正確には、“忘れさせる物語を書いていた”かな」
映司は肩をすくめて、机の上の本を指先で軽く叩いた。
「ブラック企業で擦り切れて、電車のホームでふらついてた君を見送るしかなかった僕がさ。何もできないまま『ありがとう』も言えなかった僕がさ。せめて物語の中くらい、君を楽にしてあげたかったんだよ」
胸が掴まれるように痛んだ。
電車のホーム。足元に迫る線路。遠くから近付いてくるランプ。
あのとき聞こえた悲鳴。伸ばされた誰かの手。
全部、繋がってしまった。
「……だから、殿下にわたしを忘れさせたの?」
「うん」
映司はあっさり頷く。
「君ってさ、一度誰かを好きになると、自分を削ってでも相手のために動いちゃうじゃん。仕事でも、人間関係でも。だから……恋に縛られたまま苦しんでる君なんて、もう見たくなかった」
「だから、わたしを諦めさせるために、殿下に忘れさせ続けたってこと?」
「うん」
悪びれもなく、もう一度頷く。
あまりにも真顔で言うものだから、一瞬、本気で殴りたくなった。
「……最低」
「うん、自覚はある」
「優しいふりをした、最低」
「それも否定できない」
言い合いながら、涙がぽろぽろと落ちた。
悔しくて、悲しくて、嬉しくて。
だって、それは、わたしを思ってのことだと分かってしまうから。
「ねえ、ユルナ。いや、有里」
映司は少しだけ表情を柔らかくした。
「最終話は、君が楽になるエンドを書こうと思ってた。殿下は君を忘れて、君も少しずつ気持ちを手放して。いつかちゃんと笑えるようになるっていう、“綺麗な終わり方”」
机の上の本の、白紙のページを指差す。
「ここにね、『最終話:君を手放す僕のハッピーエンド』って、書こうとしてた」
「……それが、あなたの考える、わたしの幸せなの?」
「少なくとも、もう傷付かないで済むでしょ」
言葉が喉元で詰まった。
映司の言っていることは、きっと間違ってはいない。
恋は、痛い。何度も忘れられて、そのたびに心が剥がれていくあの感覚は、もう二度と味わいたくないと叫びたくなるほど酷い。
でも。
「……ねえ、映司」
わたしは涙を拭って、顔を上げた。
前世の幼馴染であり、この世界の作者である彼を、真正面から見据える。
「わたし、確かに傷付いてきたよ。何度も。何十回も。忘れられるたびに、ちゃんと痛かった」
「だから——」
「でも、それって全部、わたしが殿下を好きだった証拠なんだよ」
一瞬、映司が目を瞬いた。
「好きじゃなかったら、痛くもなんともなかった。最初から諦めていたら、こんなに苦しくなかった」
言葉にしながら、自分でも驚いていた。
ああ、そうか。
わたしは、この痛みを、ちゃんと「自分のもの」として受け止めていたのだ。
「わたしは、守られるだけの登場人物で終わるのは嫌。勝手に話を畳まれて、『はい、ここで楽になります』っていう人生は、もっと嫌」
ぎゅっと拳を握る。
「楽になる物語じゃなくて、わたしが選んで、わたしが傷付いて、それでも笑える物語がいい」
映司はしばらく黙っていた。
やがて、ふっと視線を落とし、小さく笑う。
「……そういうところ、昔から変わらないな」
「褒めてる?」
「呆れてる。けど、好きだよ、そういうとこ」
せめてもの抵抗として、わたしは彼の腕を軽く小突いた。
手応えは少し薄い。彼はもう、ここにはいない人だから。
「じゃあ、どうする? このまま僕の“ハッピーエンド”で終わる? それとも——」
「わたしに、書かせて」
映司の言葉を遮るように言った。
「最終話の一行くらい、自分で選びたい」
わたしの言葉に、彼は目を見開き、それからふっと肩の力を抜く。
「……いいよ」
机の上の本が、ゆらりと光った。
白紙だったページに、ペンがひとつだけ現れる。
黒いインク。見慣れた形。前世の会社で使っていたボールペンとよく似ていた。
「これで、ラストを書いて。どんな終わり方でも、文句は言わない」
「本当に?」
「うん。本当に。たぶん。……たぶん?」
「最後の“たぶん”が余計」
少しだけ笑った。
泣き疲れた頬が痛い。けれど、涙の味はさっきよりも少しだけ優しくなっていた。
わたしはペンを手に取り、白紙の最初の行を見つめる。
「最終話」のタイトルの部分が、薄くぼやけている。
『最終話: 』
そこに、ゆっくりと文字を刻む。
『最終話:忘れても、何度でも君を選び直す僕と私の話』
続いて、その下の本文一行目。
——何を書こう。
わたしは、一番最初に思いついた言葉を、そのまま書いた。
『たとえ何度忘れられても、今日もわたしはあなたに恋をする。』
文字を書き終えた瞬間、本全体が眩しい光を放った。
目を閉じる。風が吹いたような感覚。足元がぐらりと揺れる。
「……これで、いいの?」
「うん。……うわ、すご。構造、だいぶ破壊したね」
「ごめん」
「いいよ。もともと歪んだ世界だったし」
少し離れたところで、映司の声がした。
振り向くと、彼の輪郭が薄くなっている。
「もう、お別れ?」
「物語は君の手に渡ったしね。作者の出番は、ここまで」
彼はいつものように、少し眠そうな目で笑った。
「有里。じゃなかった、ユルナ」
「どっちでもいいよ」
「どっちも君だからな」
ゆっくりと言葉を選ぶように、映司は続ける。
「僕のわがままを押し付けて、ごめん。守るつもりで、君を縛ってた」
「ううん。わたし、あなたの物語に何度も救われたから」
「それでも、最後は自分で選んだ。……偉い」
くすぐったくて、目頭がまた熱くなる。
「今度こそ、ちゃんと幸せになってよ」
「うん。見ててね」
「見てるよ。たぶん、更新ボタンの向こう側から」
手を伸ばす。でも、指先は空気を掴むだけ。
映司の姿は、ふっとかき消えるように消えた。
書庫には、わたしと、本だけが残された。
◇
世界が、静かだ。
さっきまで、どこか遠くで常に鳴っていたような「機械音」のような違和感が、綺麗に消えている。
耳を澄ませても、時計塔の音以外は聞こえない。
——更新の鐘が、鳴っていない。
本を閉じると、背表紙に赤い帯がついていた。
『完結済』
その文字を見て、胸がじんと熱くなる。
完結。
終わり。
でも、それは「物語としての終わり」であって、「わたしたちの人生の終わり」ではない。
ここから先は、わたしの足で歩くのだ。
「……殿下に、会わないと」
そう呟いて、書庫を飛び出そうとしたときだった。
「——ユルナ!」
廊下の向こうから、聞き慣れた声が響く。
振り向くと、セルヴァンが息を切らして立っていた。
いつもの落ち着いた表情ではなく、どこか必死な顔。
「殿下? どうされたのですか」
「その呼び方はやめてくれ」
わたしの言葉を遮るように、セルヴァンはずかずかと歩み寄ってくる。
そして、わたしの手首を掴んだ。
「ユルナ。君は、今、どこへ行こうとしていた」
「殿下のところに」
「なぜだ」
「殿下に会いたかったから、です」
きょとんとするセルヴァンを見て、思わず笑ってしまう。
それは、今までのどのセルヴァンも見せたことのない顔だった。
「殿下?」
「……変なんだ」
セルヴァンは眉間に皺を寄せ、言葉を探すように視線を彷徨わせた。
「君を見ると、胸が苦しくなる。初めて会ったはずなのに、何かを何度も繰り返したような、嫌な——いや、嫌ではないのだが、奇妙な既視感がある」
慌てたように言い直すその姿が、おかしくて愛おしい。
「さっきから頭の中で、君の泣き顔や笑い顔が、知らない景色ばかり映る。舞踏会で君が泣いている映像。裏通りでパンを分け合った記憶。書類の山を押しのけて、君とお茶を飲んだ感覚。どれも現実には起きていないはずなのに……」
セルヴァンはわたしの手首を握る手に、少しだけ力を込めた。
「——おかしいだろう?」
更新のたびにリセットされていたはずの記憶の断片が、今、砂のようにさらさらと戻ってきているのだろう。
世界のルールを無視して、勝手に。
わたしが、そう書いたから。
『忘れても、何度でも君を選び直す僕と私の話』
セルヴァンは、深く息を吐いた。
「恐らく私は、君を何度も手放し、何度も好きになったのだろう」
「……はい。そうだと思います」
「そしてそのたびに、君を傷付けてきたのだろう」
「……はい。とても」
思わず正直に答えてしまう。
セルヴァンが苦い顔をした。
「すまない」
その一言に、これまでの全部が、まとめて込められていた。
婚約破棄も。
冷たい言葉も。
全部、彼の意志ではなく、「物語」の都合でそうさせられていたことも、きっと彼は理解している。
それでも、謝る。
自分が選んだわけではない罪を、ちゃんと自分のものとして引き受ける。
ああ。
わたし、この人が、本当に好きだ。
「顔を上げてください、殿下」
わたしはそっと笑った。
「わたし、殿下に何度も恋をしました。殿下が忘れてしまうたびに、何度でも」
「……ユルナ」
「だから、もし殿下がまた忘れてしまっても、大丈夫です」
セルヴァンの目をまっすぐ見つめる。
「そのたびに、わたしが殿下に恋をし直しますから」
一瞬、時間が止まったような静寂が流れた。
次の瞬間、セルヴァンはわたしを強く抱きしめていた。
「それは……あまりにも、君にばかり負担がかかる約束ではないか」
「殿下?」
「忘れる権利を前提とした愛など、あってはならない」
耳元で、いつか聞いたことのある響きの声がする。
でも、それは今まででいちばん、セルヴァン自身の言葉だった。
「だから、約束を変えよう」
少し離れて、わたしを正面から見つめる。
真剣な金の瞳。どこまでもまっすぐな眼差し。
「私が君を忘れたら、そのたびに君に叱ってもらう」
「……はい?」
「『忘れるな』と」
あまりにも真面目な顔で言うものだから、思わず笑いそうになる。
「そして私は、そのたびに君に恋をし直す。君が選び直すだけでなく、私も選び直す。二人で、何度でも」
言葉は穏やかで、でも、決意は固い。
「そんなこと、できますか?」
「できるように生きる。物語の都合ではなく、自分の意志で」
セルヴァンはわたしの手を取り、そっと甲に口づけを落とした。
あの日と同じ位置。
けれど、あの日とは違う世界。
「ユルナ・アルシェイド。君を、私の婚約者としてではなく、一人の女性として選びたい」
心臓が跳ねる。
「物語がどう終わるかは知らない。だが、私の生涯の中で、君を一度きりしか選べないと言われる方が、よほど残酷だ」
ふっと、彼は柔らかく笑った。
「何度でも選べるなら、何度でも選ぼう。君を」
そんなずるいことを言わないでほしい。
そんなの、断れるわけがない。
「……分かりました」
頬が熱いのをごまかすように、わたしは少しだけ顎を上げた。
「殿下。何度でも、わたしを選んでください」
「約束する」
「その代わり——」
悪戯を思いついた子どものように、わたしは微笑む。
「殿下が約束を忘れたときは、全力で怒らせていただきます」
「それは、恐ろしい」
「忘れなければいいだけです」
二人で笑った。
書庫の窓の外では、夕日がゆっくりと沈んでいく。
時計塔の針は、零時に向かって確かに動いているはずなのに——
不思議と、もう、あの「更新の鐘」が鳴る気配はしなかった。
◇
夜。
寝台に横たわり、天蓋の布を見つめる。
いつものように、胸の上で手を組む。
「……おやすみなさい、映司」
小さく呟いて目を閉じた。
鐘は、鳴らない。
深い静寂が、部屋を満たしていく。
初めての、「何も更新されない夜」だった。
世界は、物語としては完結した。
けれど、わたしたちの人生は、ここから始まる。
何度でも、忘れても、選び直せるように。
何度でも、今日も、明日も、あなたに恋をするために。
読了ありがとうございました。
この物語のテーマは「忘れられても、選び直せるなら何度でも恋をする」「誰かの優しさに守られるだけでなく、自分で自分の幸せを書き換える」です。
少しでも心に残るところがありましたら、ブクマ・評価・感想など頂けると、次の物語を書いていく大きな励みになります。




