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更新の度に王子様が私を忘れる世界で、それでも今日もあなたに恋をする

作者: 夢見叶
掲載日:2025/11/29

 ——また、殿下に初対面の挨拶をされてしまった。


 


「アルシェイド公爵令嬢。お目にかかれて光栄だ」


 


 朝の庭園。白い薔薇のアーチの下で、わたしはうっかり立ち尽くした。


 第一王子セルヴァン・リヒトハルト殿下は、完璧な微笑みと、完璧な礼を、完璧に「初対面」の令嬢に向けるそれでやってみせる。


 そこに、昨晩わたしの指先に口づけを落とし、耳元で「ユルナ」と囁いた男の面影は、欠片もない。


 


 ああ、と、胸の奥で小さく音がした。


 また、だ。


 


「……こちらこそ、光栄に存じます。殿下」


 


 わたしは、いつものように微笑みを貼り付け、ドレスの裾をつまみ上げた。礼儀作法の教本どおりの淑女として、完璧な挨拶を返す。


 唇の内側を軽く噛んで、震えそうになる声を押し殺しながら。


 


 ——また、忘れられた。


 



 


 毎晩、零時。


 王都の中心にそびえる時計塔が、深く澄んだ音を鳴らす。


 それは「更新の鐘」と呼ばれている。


 


 一度目の鐘。


 二度目の鐘。


 三度目の鐘。


 


 三度、鐘が鳴り終わる頃には、世界が少しだけ違う形をしている。


 昨日まで得意だったはずの料理が、今日は失敗するようになっていたり。


 隣国との条約の条件が、微妙に有利になっていたり。


 王城の廊下の絨毯の色が、気付かない程度に変わっていたり。


 


 そして一番厄介な変更は、いつだって「人間関係」だ。


 


 ——たとえば、第一王子と公爵令嬢の関係性とか。


 


 かつて「幼馴染」だった日があった。


 城下町の裏路地で、雨宿りをしながら二人でパンを分け合った記憶。


『ユルナ、半分な。……いや、やっぱり多めにやる。お前、いつも食が細い』


『殿下こそ、お仕事でお疲れなのに』


『いいから食え。育たないぞ』


 そう笑って、わたしの頬についたパンくずを指で拭ってくれたひと。


 


 別の更新の日には、「冷酷な婚約者」だった。


『アルシェイド嬢。これは王国のための婚約だ。情は挟まない』


 そう言って、舞踏会の真ん中で淡々と婚約破棄を告げたひと。


 


 また別の更新では、「ひどく甘やかな恋人」だった。


『ユルナ。今日は公式の予定はない』


『では、殿下はゆっくりお休みに——』


『お前を甘やかす予定で忙しい』


 そう言って、仕事を放り出してまでわたしの読書に付き合ってくれたひと。


 


 全部、同じ顔で、同じ声で、同じ金の瞳をしている。


 でも、更新の鐘が鳴るたびに「セルヴァン殿下」が入れ替わる。


 ただひとつ、変わらないのは——


 


 忘れられるのは、いつも、わたしだけだということ。


 



 


「ユルナ? 顔色がすぐれませんね」


 


 庭園から戻ると、侍女のノエラが心配そうに眉を寄せた。わたしは慌てて表情筋を整える。


 


「少し、朝の冷え込みが厳しかっただけですわ。大丈夫」


「殿下、今日はやっぱり……?」


「ええ。『はじめまして、公爵令嬢』でした」


 


 ノエラがそれ見たことかと息を呑む。


 彼女は事情を知る数少ないひとだ。最初の「更新」が起きた日に、泣きながら縋ったわたしの話を、馬鹿げていると笑わずに聞いてくれた。


 


「……それでも、行かれるのですか?」


「ええ。殿下の執務室へ」


「また、お辛い思いをなさるかもしれませんよ」


「ええ。たぶん」


 


 それでも。


 


「——行きます」


 


 わたしはスカートの裾を持ち上げ、ノエラの方へ振り返った。


 


「何度忘れられても、わたしは殿下に恋をします。今日は、その一回目ですから」


「……ユルナ様って、本当に頑固です」


「貶されています?」


「いえ。尊敬しています」


 


 少しだけ笑ってから、ノエラは深くお辞儀をしてくれた。


 わたしは深呼吸をひとつして、王子の執務室へと続く廊下を歩き出す。


 


 足取りは軽いふりをして。


 心臓は、嫌になるほど重いまま。


 



 


「殿下。差し入れをお持ちしました」


 


 執務室の扉をノックし、許可を得て中へ入る。


 山積みの書類の向こうで、セルヴァンが顔を上げた。


 今日の殿下は、眼鏡をかけている。真面目な書記官のような印象が、少し新鮮だった。


 


「アルシェイド嬢。何用だ?」


「お仕事のお邪魔をしてしまいましたら、ごめんなさい。少し疲れを癒やせるものを、と」


 わたしはお盆を机の端にそっと置く。


 銀のポットと、二客のティーカップ。香り立つ紅茶の匂いが、書類とインクの匂いに混ざって広がる。


 


 ——この茶葉は、かつて殿下が「一番好きだ」と言ったものだ。


『香りが落ち着く』と、何度もおかわりを所望した日の記憶が、胸の奥で柔らかく疼く。


 


「……ふむ」


 セルヴァンはポットとカップに一瞥をくれ、金の瞳を細めた。


 


「これは?」


「リヒトハルト商会が最近輸入を始めた新しい茶葉です。殿下のお好みに合うかと」


「私の好みを、いつ聞いた?」


 


 喉の奥がきゅっと締まった。


 ああ、やっぱり。


 昨日のセルヴァンでは、ない。


 


「申し訳ございません。お口に合わなければお下げいたしますわ」


「……いや、せっかく持ってきたのだろう。いただこう」


 


 カップに紅茶を注ぐと、とろりとした琥珀色の液体が光を受けて揺れた。


 セルヴァンは黙って口元へ運び、一口すする。


 瞬間、ほんの刹那だけ、その瞳に懐かしい柔らかさが浮かんだ気がした。


 


「どうでしょう?」


「悪くない。香りが落ち着く」


 


 ——やっぱり、好きなんじゃないですか。


 喉元まで出かかった言葉を飲み込む。


 


「何か、他に用件が?」


「はい。殿下のお目を通していただきたい案件が——」


 


 そこから先は、冷静な公務の話だ。


 税率の調整。隣国への支援物資。貴族派と王党派のバランス。


 わたしは、公爵家の後継者としての顔を被り直し、淡々と要点を伝える。


 セルヴァンもまた、王太子としての顔で応じる。


 恋人だった時間の残骸に、触れないように。


 


 ほんの一瞬だけ揺れた紅茶の香りの記憶も、語らずにしまっておく。


 


 ——わたしのことを知らない殿下に、「覚えていてください」と縋ることはできない。


 そんなのは、卑怯だから。


 



 


 その日一日、わたしたちは「政略上の婚約者」として、必要最低限の会話だけを交わした。


 周囲から見れば、どこからどう見ても優秀な王太子と淑女然とした公爵令嬢の、模範的な政治的パートナーだ。


 熱も、棘も、特別な色もない。


 透明で、均等で、淡々とした関係。


 


 寝台に横たわった夜、天蓋の布を見つめながら、わたしは両手を胸の上で組んだ。


 


「……疲れた」


 


 誰もいない部屋に、ようやく呟きがこぼれる。


 


 何度目だろう。


 この「初対面の日」をやり直したのは。


 この「冷たい婚約者」としての一日を、必死に笑って過ごしたのは。


 


 数えようとしたこともあった。けれど、十を超えたあたりから、どこまでが本当に存在した日で、どこからがわたしの脳が勝手に作り出した夢なのか、分からなくなった。


 


 ……それでも。


 


「明日は、もう一歩だけ、仲良くなれるといいな」


 


 眠る前の小さな願いは、いつも同じだ。


 更新の鐘が、また、零時を告げる。


 一度。


 二度。


 三度。


 


 世界の形が、少しだけ、変わる。


 


 目を閉じたまま、わたしは胸の奥で、そっと祈った。


 


「——ねえ。今度こそ、あまり変えないでください」


 



 


 夢を見た。


 


 石畳ではない。舗装された灰色の道。


 馬車ではなく、鉄の箱が音を立てて走っている。


 王城ではなく、四角い建物の群れ。


 見たことのない光景。けれど、懐かしい。


 


『有里』


 


 誰かがわたしを呼ぶ声がする。


 振り向くと、そこにいるのは、セルヴァンではない。


 黒髪で、少し眠そうな目の少年。制服の胸ポケットにはペンが差さっていて、片手にはノート。


 


『また徹夜? 死ぬよ』


『……仕事、終わらなくて』


『そんな会社やめちゃえばいいのに』


『簡単に言うね、映司』


 


 名前を呼んだ瞬間、胸がきゅっと苦しくなった。


 映司。


 


 ああ、わたし、この人を知っている——。


 


 夢の中のわたしは、「ユルナ」ではなかった。


 疲れたスーツ姿の女。鏡に映る自分を見て、「夢見 有里」と認識する。


 机の上に積み上がった書類。点滅するメール。鳴り続ける電話。それらから逃げるように開いた小さな画面には、文字が並んでいた。


 


『更新しました』『次回、王子は少しだけ優しくなります』


 


 タイトルも、あらすじも、どこかで見たような文字列。


 画面の端に表示された作者名は——


 


『水城 映司』


 


『ねえ、有里』


 隣でノートにペンを走らせながら、映司がぼそりと言った。


 


『物語の中くらい、君にはちゃんと幸せになってほしいな』


 


 その瞬間、夢が砕けた。


 



 


 目を覚ましたとき、胸が痛くてたまらなかった。


 起き上がると、こめかみのあたりで鈍い頭痛がする。けれど、さっきまでの夢の内容は、妙な鮮明さで脳裏に残っていた。


 


「夢見……有里」


 


 声に出してみる。


 知らないはずの名前。けれど、舌に乗せた瞬間、「それはわたしだ」と理解した。


 前世。


 そう呼ぶしかない記憶。


 


「水城……映司」


 


 幼馴染。


 隣で、いつも何かを書いていたひと。


 わたしが擦り切れていくのを、苦い顔で見ていたひと。


 


 ——そして、この世界の「作者」。


 



 


 王城の書庫は、いつもひんやりしている。


 高い天井まで届く書棚には、国の歴史も、財政の記録も、魔術の研究も、ありとあらゆる知識が収められている。


 けれど、その一番奥。誰も足を踏み入れないような薄暗い一角に、ぽつりと置かれた机と、一冊の本があった。


 


 昨日までは、なかったはずのもの。


 わたしは吸い寄せられるように近付き、その本の表紙に手を伸ばす。


 


 タイトルが、目に飛び込んできた。


 


『更新の度に王子様が私を忘れる世界で、今日もあなたに恋をする』


 


 息が止まる。


 震える指で本を開くと、そこには見覚えのありすぎる物語が並んでいた。


 


 最初の更新で、「幼馴染」から「婚約者」に関係が書き換えられた日のこと。


 舞踏会の真ん中で、冷たく婚約破棄を告げられたこと。


 泣きながらノエラの部屋に駆け込んだこと。


 それでも翌朝には、殿下の寝癖を直しながら笑っていたこと。


 


 全部。全部、そこにあった。


 わたしの恋が。失敗も、幸せも、全部。


 


 ページをめくる手が、いつの間にか涙で濡れていた。


 


 最後のページだけが、真っ白だった。


 そこに、ひとつだけ、小さな文字が浮かんでいる。


 


『——そろそろ、楽になろうか』


 


 あの夢で見たノートと、同じ癖のある字だった。


 


「……映司」


 


 思わず名前を呼ぶ。


 その瞬間、書庫の空気が、ぴん、と張り詰めた。


 



 


「やっと、思い出した?」


 


 背後から聞こえた声は、夢の中と同じだった。


 振り向くと、薄暗がりの中にひとりの青年が立っていた。


 王国の服でも、貴族の礼装でもない。地味なシャツにズボン。どこかの学生のような格好。


 黒髪。眠たげな目。


 それでも、その目がまっすぐわたしを射抜いてくる瞬間だけ、鋭く冴える。


 


 ——水城 映司。


 


「……ここまで来るの、結構時間かかったな」


「わたしを忘れさせていたのは、あなた?」


「正確には、“忘れさせる物語を書いていた”かな」


 


 映司は肩をすくめて、机の上の本を指先で軽く叩いた。


 


「ブラック企業で擦り切れて、電車のホームでふらついてた君を見送るしかなかった僕がさ。何もできないまま『ありがとう』も言えなかった僕がさ。せめて物語の中くらい、君を楽にしてあげたかったんだよ」


 


 胸が掴まれるように痛んだ。


 電車のホーム。足元に迫る線路。遠くから近付いてくるランプ。


 あのとき聞こえた悲鳴。伸ばされた誰かの手。


 全部、繋がってしまった。


 


「……だから、殿下にわたしを忘れさせたの?」


「うん」


 映司はあっさり頷く。


 


「君ってさ、一度誰かを好きになると、自分を削ってでも相手のために動いちゃうじゃん。仕事でも、人間関係でも。だから……恋に縛られたまま苦しんでる君なんて、もう見たくなかった」


「だから、わたしを諦めさせるために、殿下に忘れさせ続けたってこと?」


「うん」


 


 悪びれもなく、もう一度頷く。


 あまりにも真顔で言うものだから、一瞬、本気で殴りたくなった。


 


「……最低」


「うん、自覚はある」


「優しいふりをした、最低」


「それも否定できない」


 


 言い合いながら、涙がぽろぽろと落ちた。


 悔しくて、悲しくて、嬉しくて。


 だって、それは、わたしを思ってのことだと分かってしまうから。


 


「ねえ、ユルナ。いや、有里」


 映司は少しだけ表情を柔らかくした。


 


「最終話は、君が楽になるエンドを書こうと思ってた。殿下は君を忘れて、君も少しずつ気持ちを手放して。いつかちゃんと笑えるようになるっていう、“綺麗な終わり方”」


 


 机の上の本の、白紙のページを指差す。


 


「ここにね、『最終話:君を手放す僕のハッピーエンド』って、書こうとしてた」


「……それが、あなたの考える、わたしの幸せなの?」


「少なくとも、もう傷付かないで済むでしょ」


 


 言葉が喉元で詰まった。


 映司の言っていることは、きっと間違ってはいない。


 恋は、痛い。何度も忘れられて、そのたびに心が剥がれていくあの感覚は、もう二度と味わいたくないと叫びたくなるほど酷い。


 


 でも。


 


「……ねえ、映司」


 


 わたしは涙を拭って、顔を上げた。


 前世の幼馴染であり、この世界の作者である彼を、真正面から見据える。


 


「わたし、確かに傷付いてきたよ。何度も。何十回も。忘れられるたびに、ちゃんと痛かった」


「だから——」


「でも、それって全部、わたしが殿下を好きだった証拠なんだよ」


 


 一瞬、映司が目を瞬いた。


 


「好きじゃなかったら、痛くもなんともなかった。最初から諦めていたら、こんなに苦しくなかった」


 言葉にしながら、自分でも驚いていた。


 ああ、そうか。


 わたしは、この痛みを、ちゃんと「自分のもの」として受け止めていたのだ。


 


「わたしは、守られるだけの登場人物で終わるのは嫌。勝手に話を畳まれて、『はい、ここで楽になります』っていう人生は、もっと嫌」


 


 ぎゅっと拳を握る。


 


「楽になる物語じゃなくて、わたしが選んで、わたしが傷付いて、それでも笑える物語がいい」


 


 映司はしばらく黙っていた。


 やがて、ふっと視線を落とし、小さく笑う。


 


「……そういうところ、昔から変わらないな」


「褒めてる?」


「呆れてる。けど、好きだよ、そういうとこ」


 


 せめてもの抵抗として、わたしは彼の腕を軽く小突いた。


 手応えは少し薄い。彼はもう、ここにはいない人だから。


 


「じゃあ、どうする? このまま僕の“ハッピーエンド”で終わる? それとも——」


「わたしに、書かせて」


 


 映司の言葉を遮るように言った。


 


「最終話の一行くらい、自分で選びたい」


 


 わたしの言葉に、彼は目を見開き、それからふっと肩の力を抜く。


 


「……いいよ」


 


 机の上の本が、ゆらりと光った。


 白紙だったページに、ペンがひとつだけ現れる。


 黒いインク。見慣れた形。前世の会社で使っていたボールペンとよく似ていた。


 


「これで、ラストを書いて。どんな終わり方でも、文句は言わない」


「本当に?」


「うん。本当に。たぶん。……たぶん?」


「最後の“たぶん”が余計」


 


 少しだけ笑った。


 泣き疲れた頬が痛い。けれど、涙の味はさっきよりも少しだけ優しくなっていた。


 


 わたしはペンを手に取り、白紙の最初の行を見つめる。


 「最終話」のタイトルの部分が、薄くぼやけている。


 


『最終話:               』


 


 そこに、ゆっくりと文字を刻む。


 


『最終話:忘れても、何度でも君を選び直す僕と私の話』


 


 続いて、その下の本文一行目。


 


 ——何を書こう。


 


 わたしは、一番最初に思いついた言葉を、そのまま書いた。


 


『たとえ何度忘れられても、今日もわたしはあなたに恋をする。』


 


 文字を書き終えた瞬間、本全体が眩しい光を放った。


 目を閉じる。風が吹いたような感覚。足元がぐらりと揺れる。


 


「……これで、いいの?」


「うん。……うわ、すご。構造、だいぶ破壊したね」


「ごめん」


「いいよ。もともと歪んだ世界だったし」


 


 少し離れたところで、映司の声がした。


 振り向くと、彼の輪郭が薄くなっている。


 


「もう、お別れ?」


「物語は君の手に渡ったしね。作者の出番は、ここまで」


 


 彼はいつものように、少し眠そうな目で笑った。


 


「有里。じゃなかった、ユルナ」


「どっちでもいいよ」


「どっちも君だからな」


 


 ゆっくりと言葉を選ぶように、映司は続ける。


 


「僕のわがままを押し付けて、ごめん。守るつもりで、君を縛ってた」


「ううん。わたし、あなたの物語に何度も救われたから」


「それでも、最後は自分で選んだ。……偉い」


 


 くすぐったくて、目頭がまた熱くなる。


 


「今度こそ、ちゃんと幸せになってよ」


「うん。見ててね」


「見てるよ。たぶん、更新ボタンの向こう側から」


 


 手を伸ばす。でも、指先は空気を掴むだけ。


 映司の姿は、ふっとかき消えるように消えた。


 


 書庫には、わたしと、本だけが残された。


 



 


 世界が、静かだ。


 


 さっきまで、どこか遠くで常に鳴っていたような「機械音」のような違和感が、綺麗に消えている。


 耳を澄ませても、時計塔の音以外は聞こえない。


 ——更新の鐘が、鳴っていない。


 


 本を閉じると、背表紙に赤い帯がついていた。


『完結済』


 その文字を見て、胸がじんと熱くなる。


 


 完結。


 終わり。


 でも、それは「物語としての終わり」であって、「わたしたちの人生の終わり」ではない。


 ここから先は、わたしの足で歩くのだ。


 


「……殿下に、会わないと」


 


 そう呟いて、書庫を飛び出そうとしたときだった。


 


「——ユルナ!」


 


 廊下の向こうから、聞き慣れた声が響く。


 振り向くと、セルヴァンが息を切らして立っていた。


 いつもの落ち着いた表情ではなく、どこか必死な顔。


 


「殿下? どうされたのですか」


「その呼び方はやめてくれ」


 


 わたしの言葉を遮るように、セルヴァンはずかずかと歩み寄ってくる。


 そして、わたしの手首を掴んだ。


 


「ユルナ。君は、今、どこへ行こうとしていた」


「殿下のところに」


「なぜだ」


「殿下に会いたかったから、です」


 


 きょとんとするセルヴァンを見て、思わず笑ってしまう。


 それは、今までのどのセルヴァンも見せたことのない顔だった。


 


「殿下?」


「……変なんだ」


 


 セルヴァンは眉間に皺を寄せ、言葉を探すように視線を彷徨わせた。


 


「君を見ると、胸が苦しくなる。初めて会ったはずなのに、何かを何度も繰り返したような、嫌な——いや、嫌ではないのだが、奇妙な既視感がある」


 


 慌てたように言い直すその姿が、おかしくて愛おしい。


 


「さっきから頭の中で、君の泣き顔や笑い顔が、知らない景色ばかり映る。舞踏会で君が泣いている映像。裏通りでパンを分け合った記憶。書類の山を押しのけて、君とお茶を飲んだ感覚。どれも現実には起きていないはずなのに……」


 


 セルヴァンはわたしの手首を握る手に、少しだけ力を込めた。


 


「——おかしいだろう?」


 


 更新のたびにリセットされていたはずの記憶の断片が、今、砂のようにさらさらと戻ってきているのだろう。


 世界のルールを無視して、勝手に。


 わたしが、そう書いたから。


 


『忘れても、何度でも君を選び直す僕と私の話』


 


 セルヴァンは、深く息を吐いた。


 


「恐らく私は、君を何度も手放し、何度も好きになったのだろう」


「……はい。そうだと思います」


「そしてそのたびに、君を傷付けてきたのだろう」


「……はい。とても」


 


 思わず正直に答えてしまう。


 セルヴァンが苦い顔をした。


 


「すまない」


 


 その一言に、これまでの全部が、まとめて込められていた。


 婚約破棄も。


 冷たい言葉も。


 全部、彼の意志ではなく、「物語」の都合でそうさせられていたことも、きっと彼は理解している。


 それでも、謝る。


 自分が選んだわけではない罪を、ちゃんと自分のものとして引き受ける。


 


 ああ。


 わたし、この人が、本当に好きだ。


 


「顔を上げてください、殿下」


 


 わたしはそっと笑った。


 


「わたし、殿下に何度も恋をしました。殿下が忘れてしまうたびに、何度でも」


「……ユルナ」


「だから、もし殿下がまた忘れてしまっても、大丈夫です」


 


 セルヴァンの目をまっすぐ見つめる。


 


「そのたびに、わたしが殿下に恋をし直しますから」


 


 一瞬、時間が止まったような静寂が流れた。


 次の瞬間、セルヴァンはわたしを強く抱きしめていた。


 


「それは……あまりにも、君にばかり負担がかかる約束ではないか」


「殿下?」


「忘れる権利を前提とした愛など、あってはならない」


 


 耳元で、いつか聞いたことのある響きの声がする。


 でも、それは今まででいちばん、セルヴァン自身の言葉だった。


 


「だから、約束を変えよう」


 


 少し離れて、わたしを正面から見つめる。


 真剣な金の瞳。どこまでもまっすぐな眼差し。


 


「私が君を忘れたら、そのたびに君に叱ってもらう」


「……はい?」


「『忘れるな』と」


 


 あまりにも真面目な顔で言うものだから、思わず笑いそうになる。


 


「そして私は、そのたびに君に恋をし直す。君が選び直すだけでなく、私も選び直す。二人で、何度でも」


 


 言葉は穏やかで、でも、決意は固い。


 


「そんなこと、できますか?」


「できるように生きる。物語の都合ではなく、自分の意志で」


 


 セルヴァンはわたしの手を取り、そっと甲に口づけを落とした。


 あの日と同じ位置。


 けれど、あの日とは違う世界。


 


「ユルナ・アルシェイド。君を、私の婚約者としてではなく、一人の女性として選びたい」


 


 心臓が跳ねる。


 


「物語がどう終わるかは知らない。だが、私の生涯の中で、君を一度きりしか選べないと言われる方が、よほど残酷だ」


 


 ふっと、彼は柔らかく笑った。


 


「何度でも選べるなら、何度でも選ぼう。君を」


 


 そんなずるいことを言わないでほしい。


 そんなの、断れるわけがない。


 


「……分かりました」


 


 頬が熱いのをごまかすように、わたしは少しだけ顎を上げた。


 


「殿下。何度でも、わたしを選んでください」


「約束する」


「その代わり——」


 


 悪戯を思いついた子どものように、わたしは微笑む。


 


「殿下が約束を忘れたときは、全力で怒らせていただきます」


「それは、恐ろしい」


「忘れなければいいだけです」


 


 二人で笑った。


 書庫の窓の外では、夕日がゆっくりと沈んでいく。


 時計塔の針は、零時に向かって確かに動いているはずなのに——


 不思議と、もう、あの「更新の鐘」が鳴る気配はしなかった。


 



 


 夜。


 寝台に横たわり、天蓋の布を見つめる。


 いつものように、胸の上で手を組む。


 


「……おやすみなさい、映司」


 


 小さく呟いて目を閉じた。


 鐘は、鳴らない。


 深い静寂が、部屋を満たしていく。


 


 初めての、「何も更新されない夜」だった。


 


 世界は、物語としては完結した。


 けれど、わたしたちの人生は、ここから始まる。


 


 何度でも、忘れても、選び直せるように。


 何度でも、今日も、明日も、あなたに恋をするために。


読了ありがとうございました。

この物語のテーマは「忘れられても、選び直せるなら何度でも恋をする」「誰かの優しさに守られるだけでなく、自分で自分の幸せを書き換える」です。

少しでも心に残るところがありましたら、ブクマ・評価・感想など頂けると、次の物語を書いていく大きな励みになります。


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