第10話 嘘という優しさ
放課後の図書室は、夕焼け色の光に満たされていた。
ユノは窓辺の席に座り、静かに読書をしている。
タイトルは『人間関係の心理学』。ページの端には「嘘」「社交辞令」「信頼」といった言葉が並んでいる。
「……なるほど。“嘘”とは、悪意だけではなく、時として他者を守るために使われる、と……」
口元に指を添え、ユノは小さく首を傾げた。
「でも、それは“真実”を伝えるよりも正しいことなのでしょうか……?」
その疑問の種は、ささやかな会話の中から生まれていた。
――――
数日前の放課後。
翼とユノは、陽翔とディアルク、そして他のロボグラ参加者と共に、予選のブリーフィングを受けていた。
「次の課題は“レスキュー・シミュレーション”だ。要救助者を見つけ、安全な場所まで搬送する。判断力と倫理が問われる」
教官が簡潔にまとめると、隣にいた生徒会役員が補足した。
「救助対象は人間とロボットの両方が設定されます。誰を優先するか、どう行動するかは出場者の判断となります」
その言葉に、ユノは静かに問いを投げた。
「優先順位が必要なのですか?」
沈黙が落ちた。
教官が、目線をそらしながら答えた。
「……現実では、人間の命が最優先。ロボットは道具。感情があるかどうかに関係なく、優先度は変わらない」
「それが……正しい“判断”なのですか?」
「大丈夫だよ。同じ状況になっても俺は、ユノを見捨てない。ユノはもう、立派な“仲間”だから」
――――
その夜、ユノのシステムに微細なエラーが走った。
感情データの処理に遅延。心拍情報を拾った際、複数の“矛盾した発言”を検出。
とくに、翼の発言。
「ユノはもう、立派な“仲間”だから」
この言葉を、ユノのセンサーログは“心拍上昇・視線回避・言語抑揚の不一致”と分類した。
《判定:虚偽の可能性 78%》
──ご主人様も、嘘をついた?
――――
翌日。ユノは一人で購買へ行った。
会計の時、前に並んでいた女子生徒2人の会話が耳に入る。
「最近あのロボット、ちょっと人間ぶってない?」
「わかる。なんか、気持ち悪いっていうか……いきなり感情とか言われてもね」
ユノは黙って聞いていた。
彼女たちの心拍、声色、視線──すべて、正直だった。
それは、嘘のない悪意。
──なら、どちらが“優しい”のだろう?
その日の帰り道。
屋上にいた翼の背中に、ユノが声をかけた。
「……ご主人様。ひとつ、質問があります」
「ん?なに?」
「ご主人様は……あの時、“本当に”そう思っていましたか?私を、仲間だと」
翼は一瞬、言葉に詰まった。
「……なんで急に?」
「私は、嘘を見抜けます。感情センサーと生体解析を重ねた結果、“虚偽”と判定されました」
「……そうか」
翼は屋上の手すりに背を預け、少し空を見上げた。
「……たしかに、あの時は、ちょっと無理してたかもしれない。でも、あれは“嘘”じゃない。“なろう”としてたんだよ」
ユノが見つめ返す。
「“なろう”?」
「そう。本気で思ってた。“仲間”って思いたいって。でも、俺の中には不安もあった。ユノが暴走したら?俺が制御できなくなったら?」
「……怖かったんですか?」
「正直、今でもちょっと怖い。でも、それでも俺は、お前と向き合いたい。仲間でいたいって、今はちゃんと思える。だから、あれは“嘘”じゃなくて“本音にたどり着く途中”だったんだ」
その言葉に、ユノの心に一筋の温かい回線が走った。
エラーが消えていく。
すべての“嘘”が悪ではない。
時に人は、自分の未熟さを隠しながら、誰かと向き合おうとする。
ユノはそっと目を閉じた。
「私は……まだ“答え”が出せません。でも、もう少しだけ……人間のことを、信じてみたいです」
「それでいい。俺も、お前と一緒に、答えを探すから」
風が吹き抜ける屋上で、2人は並んで立っていた。
その距離は、ほんの少しだけ、縮まっていた。
――――
朝の教室。
騒がしいはずの始業前の時間に、微妙な空気が漂っていた。
ユノが教室に入ると、一部の生徒がわずかに視線をそらす。
無視でも敵意でもない。ただ、そこにあるのは“距離”。
人工知能。ナノマシン構成体。ロボット。
人間ではない“何か”が、人間然としてあたりまえのように机に座る姿は──やはり異質だった。
ロボグラで注目されて以来、ユノの存在は学園内で徐々に噂となっていた。
「自我持ってるとかヤバくない?」
「あれ、AI搭載でしょ? 記録とか全部されてるんじゃ……」
「なんか、“感情”とか言ってたよ。怖くない?」
翼は、ユノの異変にすぐ気づいた。
「……今日、ちょっと疲れてる?」
ユノは小さく首を振る。
「問題ありません。これは、処理能力の“リミット”ではなく、心の“ノイズ”です」
――――
数日後、ロボグラ運営委員会から通達が出た。
「今後、ロボットによる“判断干渉”が発覚した場合、ペナルティが課される可能性がある」
ユノの「論理判断アルゴリズム」が、他の選手より高性能であることが議論の的となっていた。
「人間より“論理的に優秀なAI”は不公平ではないか?」
──そんな本末転倒な声まで上がっていた。
翼が抗議すると、委員会の担当教員は苦い顔をした。
「悪意があるわけではない。だが、世論の一部には“感情を持つロボット”を恐れる声もある」
「なら、どうすればいいんですか? ユノの存在を……否定しろと?」
「いや、ただ……“まだ早すぎた”だけだ」
その言葉に、ユノは何も言わなかった。
ただ、目を伏せ、手元に視線を落とした。
――――
その日の夜。
ユノは、学園屋上のベンチでひとり空を見上げていた。
そこに、凛音がやってきた。
「こんな時間に、物思いにふけるロボットなんて、変わってるわね」
ユノは振り返らずに答える。
「私は変ですか?」
「……少なくとも、“普通”じゃないわ。私たち人間にとっては」
「“普通”とは、何ですか?」
凛音は一瞬、言葉に詰まる。
「それを聞く時点で……あなたは、やっぱり人間じゃないのね」
静寂。
「でも……それが悪いことだとは思ってないわ。あなたの存在が、私の中の“当たり前”を壊してる」
凛音はそっと、自分の胸元に手を当てた。
「私も完璧じゃない。嘘もつくし、疑うこともある。でも、あなたを見てると……本当は人間の方がずっと曖昧で、不安定なんじゃないかって思う」
「私は、人間になれますか?」
ユノの声は、風に溶けそうなほど小さかった。
「なろうとする必要はある?“人間じゃないあなた”が、あなたであることに、意味はないの?」
──意味。
その言葉が、ユノの中で繰り返された。
――――
翌朝、ユノは教室で自分から話しかけた。
「おはようございます。昨日、購買で買ってみた菓子パンが美味しかったです。みなさんのおすすめは、ありますか?」
一瞬の沈黙。
だが、クラスの誰かが、ぽつりと答えた。
「……あのカスタードのやつ、意外といけるよ」
「わかる!クリームが濃いやつ!」
「え、あれ好きなの? 意外~」
空気が、わずかにほぐれていく。
ユノは笑顔を浮かべた──それは、演算された表情ではなく、心の底から湧き上がった“喜びの模倣”だった。
けれど、その笑顔は、誰よりも人間らしかった。
――――
放課後。翼と陽翔、ディアルク、そしてユノの4人は、練習場でチーム戦の準備をしていた。
ディアルクが言った。
「相手チームは、論理優先で戦略を立ててくるはずだ。正確な判断ができるが、逆に予想外の事態には弱い」
翼が頷く。
「だったらこっちは、“心で戦おう”。ユノの意思も、判断も──全部、信じる」
「はい。私は、“私自身として”戦います」
ユノは、確かに一歩を踏み出した。
“違うからこそ、共に在る”。
その未来へ。