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短編集

【コミカライズ】大好きな婚約者に別れてほしいと言われてしまった

「──婚約を……なかったことに、してください」


 ツルッ、ガシャン、ドン!

 ディオネル・アセルナスの慌ただしい動きに効果音を付けるなら、まさしくこんな感じだったと思う。手にしていたティーカップが途端に手汗で滑り、床へ落下して粉々に砕け散り、不随意に跳ねた右足の小指がテーブルの角へ激突する。

 冷え冷えとした表情や隙のない振る舞いから、貴族の間で「氷の皇太子」などと呼ばれるディオネルが、今現在か弱い娘の一言で紅茶を吹き出すや否や椅子から転げ落ち右足の小指を押さえ悶えているなどと誰が信じるだろうか。

 公爵令嬢のレデリーク・トワイニアは、一瞬のうちに起きた皇太子の奇行に言葉を失った後、ハッと我に返った様子で腰を上げる。


「で……殿下……!? おみ足が」

「公爵令嬢」

「は、はい」

「今の発言………………痛い……」

「冷やしましょう」


 今の発言はどういうことだと問い詰めたかったが、小指の悲鳴には抗えず。ディオネルがひとつも表情を変えぬまま痛みを訴えれば、レデリークは急いでメイドに指示を出したのだった。



 猫足のスツールに右足を乗せ、少し赤くなってしまった小指を氷のうで冷やしつつ、ディオネルは私室に引き留めたままだった婚約者と改めて真正面から向き合った。


「……それで、婚約がどうしたと」


 ズボンの裾を捲ったままでは格好がつかないが、もはや彼にとっては格好などつけてる場合ではなかった。


(レデリークは俺のことを少なからず慕ってはくれていたはず……なのに、何故……)


 そう、目の前にいるレデリークは幼い頃からの婚約者であり、ゆえに幼馴染みでもあり、近いうちに妻となる予定の女性だ。公爵夫妻が大事に育てた一人娘は皇太子妃に相応しい教養と品位を有しており、ディオネルを支えられる女人は彼女以外に有り得ないとまで大臣たちに言わしめた逸材である。

 ディオネル自身、皇太子の重責に押し潰されずに今日まで来れたのは、彼女の存在があってこそだと理解している。これから先も国を守る者として、お互い手を取り合って生きていくのだと信じて止まなかった。

 ゆえにこの状況はまるで訳が分からなかった。


(え……だって子どもの頃に花冠作ってあげたら「およめさんになるのたのしみです」って言ってくれたし、学院に通っている間も手紙を送ってきてくれたし、公務も積極的に手伝ってくれるし、こうして暇を見つけて定期的にお茶だってしてるのに??)


 些か記憶を掘り返しすぎだが、ディオネルからしてみればレデリークと過ごした日々は平穏そのものだった。

 ディオネルが何か取り返しのつかないことをしでかした記憶もなければ、逆に公爵家の醜聞が上がったわけでもない。その辺りに婚約を白紙にする理由が見当たらない以上、考えられるのはレデリークの気持ちの変化──つまりディオネルに対する好意や敬意の喪失といった……。


(まさか……他に思いを寄せる男がいるのか?)


 ディオネルはハッとした。


(有り得る……)


 そしてめちゃくちゃ落ち込んだ。

 顔はいつもと変わらず凛々しい面構えであったが、ディオネルの心の中は猛吹雪である。

 彼は幼い頃から感情豊かに振る舞うのが苦手だった。今でこそ皇太子らしい堂々たる振る舞いとして周囲から見なされているものの、ただただ昔から無愛想なのだ。会議での意見交換や部下への指示はするすると言葉が出てくるのに、雑談となると途端に何も浮かばない。

 ゆえにレデリークには苦労をかけてきた自覚もある。


(手紙も大体レデリークからの質問に答えるだけで気の利いたことなんて書けてないし、お茶だってレデリークの話を聞いてるだけだし──)


 皇太子としてはなかなかの高得点を貰えるかもしれないが、男としてはゼロ点どころかマイナスなのだろうなと、ディオネルは常々思っていた。

 世間では美徳とされる寡黙も、やはり過ぎればうんざりするものだ。レデリークだって年頃の娘だから、好みの男から甘い言葉のひとつやふたつ欲しいだろう。

 そう例えば、ディオネルとは正反対な性格をした公爵令息のような──。


『今日もお美しいですねレデリーク嬢。我が国、いや大陸一素晴らしい女性を伴侶に迎えられるなんて、殿下が羨ましい限りですよ』

『レデリーク嬢、こちらをどうぞ。なに、街の花屋で見掛けたのですが、この穢れなき純白の花びらが貴女の御髪を思い起こさせまして』

『殿下とのファーストダンスを終えられたら、是非とも私に貴女と踊る光栄を頂きたいのですが、レデリーク嬢』


(あの軟派男が。レデリーク嬢レデリーク嬢と一体誰に許可を得て名前を呼んでいる。俺は緊張して公的な場でしか呼べないのに。腹立ってきた……いや待て、まさかレデリークは奴のことを……!?)


 頼むからアレだけはやめてくれ。なるべく他の男にしてくれ。いややっぱり他でも駄目だ。レデリークに想われる男なんて、羨ましすぎて適当な理由で殺してしまうかもしれない。口笛を吹いたとか。

 ディオネルは素直な性分である。長いこと一緒に過ごしてきたレデリークのことをとても信頼しているし、女性としても好ましく思っている。いや慎ましく言い過ぎたので訂正しよう、シンプルに大好きである。

 気を抜くとすぐ人を睨み殺しそうな顔になってしまうディオネルに優しく微笑みかけ、ゆっくりと言葉を紡ぎ、嬉しそうに肩に寄り添ってくれるレデリークが可愛くて仕方ない。

 そんな可愛いレデリークにすんなりと愛情表現できない自分にもどかしさと苛立ちを抱えながら、今日までやってきたわけだが……。


「……殿下。お話ししてもよろしいでしょうか……?」

「うん……」


 理由を尋ねておいて長いこと一人で俯いていたディオネルは、片手で顔を覆ったまましゅんと頷く。

 そのときレデリークもしゅんと心配そうに眉を下げていたのだが、ディオネルが視線を寄越す前に慌てて顔を引き締めた。


「その……殿下は、癒しの手を持つ聖女を、ご存知ですか?」

「……………………ああ」


 返事にだいぶ時間が掛かったが、ディオネルは確かにその女を知っている。突如として神殿に現れた、珍しい黒髪と黒い瞳を持つ癒しの聖女。その稀有な能力から、すでに王宮にも報告は上がっていた。名を──アカネと言ったか。

 そいつがどうかしたのかと、それより婚約の話をしてくれと内心思いつつ続きを促す。

 レデリークは躊躇いの後、硝子細工のような青みがかったグレーの瞳を潤ませ、告げた。


「で……殿下は、私ではなく、その聖女と結ばれる運命にありまして」

「は?」

「嫉妬に狂った私は殿下を、聖女もろとも手に掛けようといろいろ、あの、画策してしまう、みたいで」

「嫉妬? 嫉妬って言ったか?」

「殿下には幸せになっていただきたいけど、ほ、他の方と結ばれる姿を、心穏やかに眺められる自信がなくて、だから」

「嫉妬って」

「今のうちに、離れて、お祝いできるよう、こころのじゅんびを」


 そこまで語ってから、とうとうレデリークが「ふえ」と泣き出す寸前のように顔を歪めた。

 嫉妬という単語しか頭に入ってこなかったディオネルだったが、これには驚いて慌ただしく立ち上がる。右足の小指が未だじんじんと痛むが構いやしない。

 椅子に姿勢よく座ったまま両の拳を握り締め、何度もしゃくり上げて泣くレデリーク。こんな姿は初めて見た。可愛い──ではなくて。


「れ……レデリーク、落ち着け」


 声が裏返りそうになったが、何とか名前を呼ぶ。すると何故か余計に涙をぼろぼろと溢れさせたレデリークに戸惑い、ディオネルは咄嗟に彼女の肩を引き寄せた。

 ほっそりとした背中を両腕で包み、さらさらとした白金の髪ごと頭を掬い、自らの肩に凭れさせる。すんすんと鼻を鳴らして泣き咽ぶレデリークを見ていたら、ディオネルまで釣られて悲しくなってきた。

 彼は背中を恐る恐る摩ってやりながら、レデリークの頭にそっと頬を寄せる。


「……レデリーク、泣かないでくれ。一体誰がそんな荒唐無稽な話を吹き込んだのだ」

「そ、それは」

「教えてくれ」

「…………先日、神殿でアカネさまとお会いしたときに……わ、私の未来を教えて差し上げます、と言われて」


 殺そう。邪魔だ。

 心の中の暴君は即決してしまったが、ディオネルは至って冷静な面持ちで純粋な婚約者を抱きすくめた。


「レデリーク、それは……俺が君を捨てて、よく知りもしない聖女を伴侶に選ぶということか? いくら治癒の力を持っていようと、血筋も定かでない女を妃にするなど現実的ではないな」

「……ですがアカネさまは、殿下のお好きなものをいくつも知っておいででした。きっと彼女には治癒の他にも未来を予知する力が……」

「──では俺がどれだけレデリークを好いているかも知っているはずだ!」


 訪れた沈黙。

 レデリークの嗚咽がぴたりと止まる。

 暫し彼女を抱き締めたまま固まっていると、そろそろと白金の頭が持ち上がり、頬に紅葉を散らしたレデリークがまばたきを繰り返した。


「……えっ?」


 言うまでもないが、ディオネルは頬どころか耳まで真っ赤にして口許を押さえていた。

 しまった口が滑ったいやしかし今のは心からの本音であって取り消す必要はないわけで寧ろこれは普段から堂々と言うべき言葉だろうがこれだからヘタレは……などと忙しなく脳内で言い訳を並べ立てながら視線をさまよわせた後、ええいとレデリークを再び抱き締める。


「レデリーク、悪かった。俺の態度があまりに素っ気ないから、そんなふざけた言葉を真に受けたのだろう。忘れろ、俺と聖女が結ばれる未来など有り得ない。いいか絶対に! 有り得ない!」

「は、はいっ」

「君と結婚するまで聖女は登城禁止にする。私から神殿に赴くこともない。そもそも心変わりなどしないが君に誤解されるのは死ぬほど辛いから徹底的に視界から排除する。心変わりなどしないが」

「や、やりすぎです……! 神殿の行事では顔を合わせる機会もあるのですから、どうか私のことはお気になさらず」

「じゃあこのまま結婚してくれ頼むから!! 俺は! レデリークと結婚できるから皇太子やってるんだぞ!!」

「ええ……!?」


 氷の皇太子による情けなさ全開の求婚は、扉の向こうまで聞こえていたらしい。今の今まで堪えていたであろう側近がついに「ぶわっははは」と豪快に笑い出す。

 しかしそれを今すぐ咎める余裕もなく、ディオネルは腕の中にいる愛しい婚約者の肩にぐりぐりと額を押し付けた。


「レデリーク、離れるなんて言わないでくれ……君が好きなんだ、ずっと」

「は、わ」

「これからは頑張って俺からも話し掛けるし好意も伝える。好きだレデリーク、レリ、早く結婚したい」

「あぅ」

「だからレリ、どうか先程の言葉はなかったことに……レリ? レデリーク!?」


 ぷしゅう、と空気が抜けたように、レデリークがへなへなと崩れ落ちる。婚約者となってから今日に至るまで、知らずのうちに堰き止められていた好意を突如として全開放してきた皇太子。葉から滴る僅かな水で舌を湿らせるような日々を送ってきたレデリークには、それらを微笑んで受け止められるほどの器は備わっていなかったのだ。

 想像以上に好かれていた事実を前にぐるぐると目を回している彼女の心中など露知らず、ディオネルは大慌てで側近を呼びつけたのだった。



 ◇◇◇



「──どうだった? って聞かないでも分かるな」


 聖女などと大袈裟な呼び名とは裏腹に、その黒髪の娘は頬杖をついてケラケラと笑っていた。

 こぢんまりとしたガゼボの下、朱音(あかね)の向かいには頬をりんごのように赤らめた公爵令嬢レデリークが座っている。先日初めて会ったときは気の毒なほど青褪めさせてしまったが、どうやら事は上手く運んだらしい。笑いを引き摺りながら渋めの紅茶を啜れば、レデリークがその眦をキッと吊り上げる。


「ア、アカネさま。もしかしてこうなることを知っていて私を煽ったのですか」

「いや、どちらかというと煽ったのは皇太子殿下の方かなぁ。このままお二人のすれ違いが続いてたら、私が皇太子妃に担ぎ上げられてたのは事実だし? そのときレデリーク様が潔く身を引いちゃうのも本当だし」

「うっ……」


 自分がそんな行動を取ってしまう可能性を否定できないのだろう。レデリークはせっかく強気に持ち上げた眉を再び頼りなく下げた。


 ──皇太子ディオネルと公爵令嬢レデリークは先月、予定されていた時期よりもだいぶ早く結婚式を挙げた。無論ディオネルたっての強い希望で。

 初めから二人を強引にでもくっつけようとしていたとは言え、このスピード感には朱音もびっくりしてしまった。あのむっつり皇太子、どんだけ婚約者のこと大好きだったんだと。


(だから小説の中でも初めは聖女(ヒロイン)への当たりが強かったのか……そのときの仕打ちが酷すぎて、後々ラブラブになってもイマイチ好きになれなかったんだよなぁ……)


 朱音はこの世界へ召喚される直前まで読んでいたライトノベルを思い返しながら、げんなりとしつつも溜息を飲み込む。

 とにかく、特に好みでもないむっつりびっくり皇太子との結婚生活は回避できた。彼にはこのまま可愛くて健気なレデリークを思う存分幸せにしてもらうとして、次は何かにつけて行動を制限してくる面倒な神殿を如何にして脱走するかだ。

 右も左も分からない世界に放り込まれた以上、無条件で衣食住を提供してくれる神殿がどこよりも安全なのは分かってはいるが──あそこは如何せん娯楽がない。スマホにゲームに漫画に、娯楽に溢れた世界で暮らしていた自分にはなかなか厳しいものがある。

 その代わり、この世界はテレビや写真でしか見たことがないような素敵な景色ばかりだし、せっかくならあちこち旅行してみたい。癒しの力があれば冒険者になれたりしないだろうか。いや、また面倒な国に目を付けられる可能性もあるから何か対策を……。


「アカネさま?」

「はっ」


 目の前に最適の人材が!

 朱音は幸せ絶頂期のレデリークの手をぎゅっと握り、満面の笑みで告げた。


「レデリーク様、皇太子殿下との結婚を後押しした見返りとして、神殿から逃げるお手伝いをしてくれませんか?」

「え」

「何なら皇太子殿下にお願いしてもらえませんか? 鬱陶しい聖女を国外に追放してくれーって! 面倒事にならないよう私の身分とか素性も偽装して、あっ手切れ金という名の軍資金も欲しいです! レデリーク様がお願いすればきっと二つ返事で私を神殿から引きずり出してくれます! ええ絶対ね!」


 レデリークの視線がふと上に逸れたことには気付いていたが、朱音は構わず図々しいお願いを並べ立てる。

 やがて何だか背中がひんやりするなと後ろを振り返った彼女は、そこに立つ絶対零度の皇太子を見付け──「これには深いワケがありまして」と華麗な土下座をかましたのだった。




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