合図
軽く会釈をして近寄ると、相手も軽く会釈をする。
「今晩は。お忙しいところご足労頂きましてありがとう。おや、お荷物があるのですか?お持ちしましょうか?」
「今晩は。荷物は大丈夫です。店内でお話するのでしょうか?」
「はい、席を予約してあります。」
景気のいい店員の掛け声が響く入り口をくぐって、優子は宗像浩未と共に大衆居酒屋へ入った。満席ではないが、すでに席は埋まり始めている。
個室というには無理が有る座敷は、低い仕切りで隣の席と区別されているだけだ。隣の座敷の客に、聞こえてしまうだろう。そこに思い至らないとは、社長も大したこと無いな、などと思ってすぐに考え直す。
低い仕切りの向こうの座敷にいるのは、スーツ姿の壮年の男が二人だ。こちら見て神妙な顔で会釈している。
顔に見覚えはないが、恐らく、宗像の会社の人もしくは知り合いなのだろう。
靴を脱いで、スーツケースの車輪を軽く拭う優子に、
「どうぞ、奥へ。」
と上座を進める宗像はにこやかだ。
だが、軽く手を振って、それに遠慮する風を見せ断った。
「いえ、わたしトイレが近い体質なものですから、是非入口側にお願いします。」
すぐに席を立てる入り口側へ荷物を置いて座った。
「そうですか、では失礼して。」
社長は奥へ入っていって座った。
やられた、と思った。
まあ、向こうが指定してきた場所なのだから当然と言えば当然だ。
「何を召し上がりますか?」
ナイスミドルは、気軽にメニューを取り上げてテーブルの上に広げてみせる。
「わたしはこれから帰った後に子供に夕食をして上げなくてはいけないので何もいりません。どうしても、というのなら、麦茶とか烏龍茶などを一杯だけ。」
「ご遠慮なさらなくても、ご馳走させていただきますよ。」
「ですから、遠慮ではありません。こちらの都合の話です。」
「なるほど。」
宗像は無理に勧めようともせず、すぐにメニューを閉じた。
「では、単刀直入にいきましょう。」
おもむろに茶封筒を引っ張り出し、テーブルの上に出した。何も手に持っていないように見えたので、まるで魔法のようだ。
だが、なんのことはない。元々この席を押さえていたのなら、座敷の隅の座布団の下にでも隠しておける。
「こちらの郵便物は、あなたが俺の妻に宛てたもので合っていますか?」
「差出人は弁護士の名前に見受けられるのですが。」
「慰謝料の支払先はあなたのお名前になっている。」
「弁護士に直接連絡してください。そう記載されているはずです。」
「妻は頑としてこの内容を認めないのですよ。それであなたに直接確かめないことには、どうにも出来ないと思いまして。」
「では、そのように弁護士にお伝えください。」
「埒が明かない。実際のところを聞きたいのです。上っ面はどうでもいいんですよ。こちらの書類にはあなたのご主人と俺の妻が不貞関係にあったため、そのために被った精神的な被害かつ経済的被害を慰謝料として補償しろと書いている。これは事実ですか?」
「事実です。」
「それを証明するものは?」
「あります。」
「見せてください。」
二人の対話の他には何も会話がない。隣の座敷ではまったく会話がされていないのだ。どう考えても聞かれている。
「・・・案外卑怯なんですね。社長さんともあろうかたが、こんなオバサン一人のために男性二人も連れてきてわたしを脅そうとでも言うんですか?証拠の品があれば、ここで無理矢理にでも奪えばいいと?」
さすがに、ここまで言われればナイスミドルも顔色が変わった。
「そんなつもりは」
「生憎ですが、証拠の品は複製を作っています。今わたしから奪っても無駄ですよ。お美しい奥様がどれほど大事なのか知りませんが、わたしは出した矛を収めるつもりはありません。・・・では、失礼します。」
さっと立ち上がり背を向けて靴を履き始める。スーツケースを手に、店を出ようと歩き出した。




