ヒステリックな声
居酒屋の看板が見えてきた。夕闇にたくさんのネオンが光り、帰途につく人々やいっぱい引っ掛けて帰る人々の群れが交差点を行き来する。
スーツケースを引きずって歩き出した優子は、自分のスマホが鳴ったことに気付いた。もしや娘からかと思い手に取るが、着信の番号を見て一瞬天を仰いだ。
宗像久乃だ。
通行人の邪魔にならないよう道路の隅に寄って、通話ボタンを押す。
「夫と会うつもりでしょう!!やめなさい!絶対に会うんじゃないわよ!!」
鼓膜が千切れるかと思った。
傍を歩く通行人さえ振り返るほどの声のデカさだったのだ。半狂乱と言ってもいいくらいの、音の割れ方だ。
優子は急いでボリュームを下げる。スピーカーにしてたわけでもないのにあれほどの音量だったのだ。どれだけの大声だったのだろう。
「・・・なんのお話ですか。」
「これから夫と会うんでしょ!!総務の林から聞き出したのよ。絶対に会わないで!!余計なこと夫に喋ったら承知しないから!!」
「あなたに指図される謂れはないと先日も申し上げましたよね?」
「お父様に言いつけるわよ!!お父様は大臣にも顔が利く実力者だったのよ!!あなたのいい出したことなんか誰も信じないんだから。簡単に潰しちゃうんだから!!わかったら、すぐに引き返して。夫に会うのは止めなさい!!」
なんという剣幕だ。
お嬢様だと聞いていたがとんでもない取り乱しようだ。声が時折裏返るほどの口調で、スマホを耳から離しているのに頭が痛くなってくる。
それにしても、呆れたものだ。
本当に久乃の言うとおりなら、なんでこんなに焦って優子に電話してきたというのだろう。その、お父様、とやらにどうにでもしてもらえば良いではないか。
いい年こいて、お父様に言いつけるだと。笑わせてくれる。
「・・・どうぞ、なんだか知りませんが告げ口でもなんでも。」
冷たく言った。
「そ、そんなこと言っていいと」
相手の言葉を遮って、優子は続ける。
「あなたのお父上が若年性痴呆症で入院して、政界の第一線から退いていることは承知の上です。実力者だったのは10年以上も前の話ですよね。現在は県外の施設で療養中と伺いましたが。」
「・・・。」
久乃は途端に黙ってしまった。さっきまでの勢いはどこへ言ったのだろう。
「お話は以上ですか?では切りますね。」
「待って!!お願いだから、夫に会うのは止めて!!」
自分の立場がようやく理解できたのだろう。
相手の声は急に哀れっぽく変わった。先程までの居丈高な怒鳴り声は鳴りを潜めてしまったようだ。
どこにいるのか知らないが、電話口の向こうで泣き崩れでもしているのだろうか。
「もうお約束をしてしまったので。約束を反故にするのは失礼ですから。」
優子の口調は、むしろ優しくさえあったかもしれない。ほんの少しでも同情の気持ちが沸いたのか。
「じゃあ、何も言わないで!!絶対に黙っていて。お金なら払う!!慰謝料でもなんでもいくらでも支払うから。お願い!お願いだから!!」
必死な声が聞こえる。
本当に哀れに聞こえた。優子の視界の隅で、見たことの有る人が手を振った。居酒屋の看板の前に一人立っているナイスミドルのイケメンだ。
これ以上時間は稼げないだろう。
「そうですか。もう電話を切ります。ご主人様がこちらを見つけておられるので。」
ギリギリまで何か言っているのが聞こえた。
追い詰められているのだろうな、と思う。
この電話も録音しているのだと教えるのは、さすがに控えた。




