そうであって欲しかった
克行が悲しげな泣き声で訴える。
「俺が、悪かった・・・。すまなかった。もう、二度と、こんなことはしない。彼女とも二度と会うこともない。だから、考え直してくれ、頼む。」
再び土下座している夫。
だが、妻はそんな夫の情けない姿にも何も感じない。
大した土下座ではない。それほど価値の有る謝罪ではないのだ。
「無理。帰ったら新しい協議書を作るから、記入と捺印をお願いね。」
「離婚は、いやだ。」
「あなたに決める権限はありません。有責配偶者だからね。決定権はわたしにあるの。わたしは離婚したい。あなたのためにご飯作るのも洗濯するのもうんざりよ。あなたのせいで仕事を失い、女としてのプライドを壊され、子供たちを傷つけられて、どうして一緒にいなくちゃいけないの?」
優子の声は平坦だ。以前に書類を突きつけたときのように。怒りも悲しみもその口調に滲んでいない。これだけの思いを抱え続けて、感情を抑えられるようになるにはどれほどの辛さがあったのだろう。もう克行にはそれを想像するしか出来ない。寄り添うことも分かち合うことも許されないのだ。
「飯も洗濯も手伝うから。ちゃんと子供たちにも向き合うし。」
「あなたが向き合おうとしても、子供のほうがお断りよ、きっと。」
「いやだ。絶対に嫌だ。」
まるで駄々をこねる子供のようだった。
「なら法的手段を取るまでよ。さっさと離婚して存分に久乃さんと会えばいいじゃないの。初恋なんでしょ?学生時代の憧れだったんでしょ?」
「久乃とはそんなんじゃない。頼むから許してくれよ。彼女だって家庭があるんだ、そこまで知ってるんだろ?」
「ええ勿論知ってるわよ。」
だからこそ、許すつもりはなかった。
慰謝料に養育費なんて言ったって、大した稼ぎのない夫からなんか貰えるものは限られている。たくさん稼いでくれているのなら、優子が再び働きに出る必要などなかったのだから。
優子が退職しないであの会社で仕事を続けていれば、今頃はもっと高給取りになれていたことだろう。開発課に配属になればプログラムの仕事がメインだから自宅でだって仕事が出来たのに。夫に押し切られて辞めざるを得なかったのだ。返す返すも口惜しい。
離婚してからも養育費だの財産分与だので何度も顔を合わせるなんてまっぴらだった。子供と会いたいと言われても、今は子供のほうが嫌がるに決まっている。特に長男は頑なだ。出来る限り会いたくない。支払いの全てを一括にしてもらいたい。
協議になって文句言われないように、出来る限り子供の学費に充てられるものは別口座に変えておいた。夫が浪費しても家計に出来るだけ影響が出ないように、夫のカード支払いは夫の給与口座から支払うように変更してもらったし、携帯などの名義も変更しておいた。春人の携帯は、これから用意するので優子の家族割で買うことになる。
前々から色々と準備をしておいたのだ。子供の保険と扶養だけは前もって出来なかったので、最後になってしまった。
どんなにごねても、おそらく克行は最後には首を縦に振る。振らざるを得ない。調停だの裁判などには絶対にしたくないだろうから。もともと気弱な男である。浅はかなのだ。
気弱だけれど浅はかだけれど、正直で不器用な男だった。カッコいいとか稼ぎがいいとかそんな魅力は無かったけれど、正直さが好きだったのだ。
いつまでもそうであって欲しかったのに。




