煙に巻く
一週間経っても、二週間過ぎても、夫は書類を記入して返却するどころか、まったくそのことについて触れても来なかった。何事もなかったかのように、普通に生活して、いつものように仕事に出かけて帰ってくる。帰宅時間が早まったのは、さすがにいつまでも不倫相手と遊んでるわけにも行かないと、自粛する気持ちがあったのだろう。
だが、そんなことは想定内だった。どうせ、克行のことだから、どうにかしらばっくれて有耶無耶にしてしまえばいいとか考えているのだろう。妻の方から何も言い出さなければ、ほとぼりが覚めるまでおとなしくして、そのうちに自分がしでかしたことなど無かったかのように振る舞うつもりなのだろう。
11月を過ぎて、受験生の春人もピリピリしている。おそらくはろくに顔を合わさないので、夫は息子の様子にも気付いていない。
克行は出来るだけ優子と二人きりになる時間を避けようとしている。二人きりになれば、また離婚の話を持ち出されると思っている。かと言って、子供たちも寄り付かないから、必然的に夫は一人で寝室に籠もるようになった。
三週間待って、優子はもういいだろうと思った。
同じ家にいるのに、優子から夫にスマホで電話をかけたのだ。
万が一にも出なかったら構わず寝室で話をしてやるつもりだった。
「もしもし、克行さん。」
「優子??どうしたの、電話なんかして。」
同じ屋根の下にいるというのに電話がかかってきたので驚いたのだろう、思わず通話ボタンを押したらしい。夫の声はやや狼狽の色があった。
「子供たちに聞かれたくないから、電話のほうがいいと思って。書類の方は記入していただけましたか。もう三週間経つんですけど。」
妻が単刀直入に確信に迫ると、夫はとたんにおどけたように声音を高くした。
「なんの話?全然わからないな。書類って何?」
思わず、優子はスマホを見つめてしまった。
数秒の間無言で、そうしていると、夫のほうが焦ったように会話を仕掛けてくる。
「それより、今夜の夕飯は外食でもどう?しばらくそういうの行ってないよね。寿司とかだったら夏樹や春人も来るかな。どう思う?」
「・・・離婚協議書や離婚届などの書類の話はどうなったか聞いてるの。」
「だから何の話?さっきからさぁ。」
煙に巻くつもりなのだ。
無かったことにする気なのだろう。
優子は心の中で、『馬鹿め』と叫んだ。
「協議するつもりがないということね。話し合いも交渉も決裂ということ。私からはちゃんとあなたに話し合いを持ちかけて、あなたはそれを無かったことにした。よくわかりました。」
「だからさ、何の話?」
夫の声に僅かな焦りが滲む。
「では、わたしの方で動きます。調停もしくは裁判も辞さない覚悟なので。まずは手始めに慰謝料を請求しますね、あなたにも、お相手の女性にも。こうやってとぼけるつもりなら、ことを公にするまで。わたしの覚悟を甘く見ないで。」
「えっ・・・」
優子は夫の返答を聞くまでもなく、すぐに通話を切った。間髪入れず、スマホの電源を切る。
寝室のドアが開く音と共に、克行がダイニングに駆け込んできた。焦燥と狼狽が入り混じった顔だった。裁判などと言う聞き慣れない言葉に刺激され、ショックだったのだろう。
それに気付かないふりをして、優子はキッチンに立ち、夕食の準備に取り掛かった。今夜のメニューは、もやしと豚肉のキムチ炒めに、冷奴と、玉ねぎとじゃがいもの味噌汁。
「優子っ・・・おまっ・・・なんて言った?裁判だと?慰謝料だって!?」
夫の声は掠れている。額には青筋が立っていた。
優子は、それを見て、本当に怒ると、青筋が立つって本当なんだな、漫画みたい、などと呑気に思った。
「まだ夕ごはんには早いよ。もうちょっと待って。」
返答もまた、のんびりしていた。いつもどおりだった。夫が望む、何事もなかったかのような口調と内容。これでいいんでしょ、とでも言うように。
「あれからちゃんと早く帰ってきてやっただろ!土日も家にいるようにしてたじゃないか、何が気に入らないんだ!!」




