忘れられた約束
もはや妻の顔をまともに見られないほど、克行は動揺しきっている。不倫の証拠とさえ言える言葉や写真を提示され、どうしていいのかわからないくらいに、混乱しきっていた。
何が恐ろしいかと言えば、妻の優子がまったく平然とそれらを行っていることである。夫の不貞の証拠を羅列しておきながら、わずかな感情すら見せない。不貞の証拠を押さえられているという事実以上に、そのことが克行を追い詰めた。
「そういうわけだから、ここにある書類の記入に署名捺印、よろしくお願いね。協議書に何か疑問点や変更したいことがあるなら、メールで伝えて頂戴。くれぐれも、子供たちのいる前でこの話はしないで。そのくらいの配慮はしてもらえるでしょ?」
ハハ、と乾いた笑いが起こった。
そして、目線はどこか違うところを見ている状態で、顔を妻の方に向ける。ゆっくりと近寄ってきて、
「馬鹿げてる。・・・どうかしてるんじゃないか。こんなの、ただのでっちあげだろ。ハハ・・・わかったわかった。俺がお前のことかまってやれてなかったな?だからこんなこといい出したんだろ?寂しかったんだよな?かわいそうに、よしよし、今から存分に」
などと譫言のように言いながら手を伸ばしてきた。
「今からベッドに行くか?そう言えば長いことしてなかったよなぁ。」
夫の手が、妻の方に触れる。それだけで、優子の背中に悪寒が走った。ざあっと音が聞こえるかと思ったくらいに、肌という肌に鳥肌が立ったのがわかる。
「気色悪いっ!!触らないでっ!!」
はじめて感情を顕わにした妻が、後ろに後ずさった。
「へ・・・」
その態度に、克行はまた驚愕した表情で目を丸くする。
そして、悲しそうに眉を下げて、泣きそうになった。肩を落とし、下を向き、立ち止まる。
傷ついたのだ。
10年以上も一緒に暮らしてきた妻に、蛇蝎のごとく嫌われ、触られたくないと言われたことに、ショックを受けてしまった。その衝撃の大きさは不貞の証拠を見せつけられたときよりも大きいものだ。
「ゆうこ・・・は、俺が、嫌いになった、の、か・・・?」
なんとも情けない声で、悲しそうな顔で言うではないか。
「そんなわけないよな・・・?だって18年も一緒にいるんだもんな・・・?今はちょっと怒ってるだけだよな?そうだろ?」
でかい図体をして、まるで捨てられた子供のように肩を落として、泣きそうな夫。
なんてみっともなくて、情けない。まるで子供だ。
そして、それが、長年一緒に暮らした、優子の夫で、愛した男なのだ。
好き勝手なことを裏でやっていたくせに、この後に及んで妻に甘ったれようというその姿勢が許せない。いい年をして二人も子供のいるいい大人が、自由気ままに振る舞った挙げ句に、まだその責任から逃れられると思っているのか。
優子が体勢を立て直して立ち上がる。
「・・・そうよ、18年も一緒にいたの。18年も前、あなた私にプロポーズしたわよね?なんて言ったか覚えてる?」
妻の声は、少し震えている気がした。この問いは、以前にもした。結婚記念日の直前だった。素っ気なく忘れたと言い放った夫の顔を、優子は忘れない。
克行は顔を上げた。
前に言われたときのことを瞬時に思い出したからだ。
必死で、その当時の事を思い出す。二度と、”忘れた”などとは言えない。前に妻に聞かれた時は、忘れたと言って誤魔化してしまったのだ。
「結婚してくださいって言った。・・・確か。」
「わたしは、なんて答えたっけ・・・?」
記憶を辿る。随分と以前のことだが、思い出せないはずはない。
そして、思い出した。
克行は絶句してしまった。
まだ若かったあの頃、ボーナスをはたいて買った婚約指輪を携えて高層階のレストランを予約したあの日。嬉しそうに微笑んでくれた、若かりし日の優子の笑顔がちらついた。
浮気者はイヤ。もしも他の人を好きになったら離婚だよ?
眼の前の妻は、確かそう言ったのだ。




