反撃の狼煙
「克行さん、ちょっと話があるんだけど。」
すっかり体調も戻ったと思われる優子が、夫を呼び止めたのが土曜日の午後だった。夏樹は塾に、春人は友達と出かけている。
昼食も終えてのんびりコーヒーを飲んでいた克行は、改まった様子の妻に、
「いいよ、何?」
と気軽に返答する。
リビングのテーブルを軽く布ふきんで拭った優子は、さっと数枚の書類をそこに並べた。
「署名記入と捺印をお願いしたいのよ。」
まるでいつもどおりの、穏やかな表情で妻は言う。
だから、子供の学校の書類とか、あるいは町内会の知らせとか、そんなものかな、と予想していたのに。
一番最初に目に飛び込んできたのは、離婚届の用紙だ。
大きく目を見開いた克行は、一瞬で顔色が変わった。
「何、これ。」
「離婚届よ。見覚え有るでしょ。それから、こっちの書類もサインしてね。」
指で示した別の書類には”離婚協議書”と記されている。
「・・・ちょっと待ってよ。どういうことなんだ。離婚届の話はこないだ済んだろ。あれでおしまいだったんじゃないのか?」
「あなたは嘘を付いています。もうその嘘には付き合いきれない。ちゃんと正直に話してくれなかったわね。わたしは何度かあなたに機会を与えました。正直に全部話してくれるか、あるいは絶対にばれないように隠し通してくれるか。そのどちらも出来なかったので、もう無理です。離婚しましょう。」
至極平静な声で淡々と述べる妻に、克行は有る意味戦慄した。
こんなことを簡単に、当たり前のように言える妻の姿に。
そして、恐れ慄いた精神状態で考えたことは、とにもかくにもこの場を切り抜けることだ。この場をどうにか誤魔化して、後で対策をゆっくりと練るためにも、ここはとぼけてしまうしかない。
「嘘なんかついてないよ。昼ドラかなんかの見過ぎなんじゃない?優子ってドラマとかそんなに好きだったっけ?」
まるで馬鹿にしたように笑って言うのは、動揺を隠そうとしているのだとわかる。
克行は正面から向き合うことをしなかった。ヘラヘラ誤魔化そうとしてきた。そういう男なのだと、悲しい事に、優子は知っている。
「こちらの紙に不倫している相手の名前と住所と連絡先を書いてくださいね。それから、こっちの書類は夏樹と春人の扶養の変更を申請する紙、早めにお願いします。保険証の変更も有るので、急いでね。」
「そんなのいないって言ってるだろ!何を勘違いしているんだ!?」
思わず声を荒げてしまった。
余りにも、妻が冷静すぎて、こちらは頭に血が昇ってしまったのだ。
優子はゆっくりとリビングのフロアに直接腰を下ろした。そして、エプロンのポケットから自身のスマホを取り出し、その画面を夫に見せつける。
「・・・!!」
美しい夜景をバックに、裸で毛布に包まって抱き合う男女の写真がそこに映し出されていた。それはいつだったか、克行が久乃に頼んで撮影させてもらった写真。彼女が写真を撮らせてくれることなど滅多に無いので、大事に保存しておいたのだ。
思わず手を伸ばして妻のスマホを奪おうとするが、彼女はさっと手を引いた。
「お前っ!!俺のスマホを見やがったな!!」
「見てないわよ。」
「そんなはずはない、その写真は俺のスマホとクラウドにしか保存してないんだから、見つけられるはずがない!!」
激昂する夫が立ち上がって凄い顔で妻を睨んだ。
「夫婦であっても、スマホの中身を見るなんてプライバシーの侵害だ!!お前最低だな!」
優子は小さく息を付いて、もう一度否定した。
ちら、と自分のスマホの画面を見て軽く操作し、また視線を上げる。
「だから、あなたのスマホなんか見てないわよ。そんなことする必要もないもの。あなたロックかけてるでしょ?わたしその暗証番号も知らないし、指紋認証もわたしじゃ解けないじゃないの。」
「じゃあ一体どうやってこの写真を手に入れたっていうんだよ!」
「写真だけじゃないわよ。楽しそうな言葉のやりとりなんかも全部知ってるわ。全部記録してあるし。いちいちあなた達が削除していたことまでわかってる。隣の市まで行ってお高いシティホテルに泊まったり、素敵なレストランでお食事を楽しんでいらっしゃったのも知ってるわ。”純白のディナー・コース”でしたっけ?15000円也。税別。『夫にもこんなの撮らせたことないのよ。絶対に秘密にしてね。』『残念だけど、次は必ず会ってくださいね。』・・・まあ、ご主人のいらっしゃる方なんだ。罪深いこと。とてもわたしには真似できそうにないわ。」
妻の、皮肉の滲む言葉が、一つ一つ克行の胸に突き刺さる。




