高嶺の花
罪悪感が心に戻ってくると、急に自分の立場が見えてきた気がした。もっと家庭のことに気を配らなくてはいけないという原点に、突然戻ってきたのだ。
久乃は高嶺の花だった。高嶺の花は高値の花で、とても自分ごときでは手折るべきものではない。一緒にいる時は楽しいし嬉しいのだけれど、彼女との逢瀬には本当に費用がかかるのだ。優子とのデートのときのように、近所のラーメン屋などで食事をするなどということは有り得ない。高級なディナーはそりゃ美味いけれど、支払うことを考えているとだんだん味がしなくなっていく。服装だって毎度同じスーツでは嫌われてしまうと思い、何着か新調してしまった。こっそり車のトランクに隠してある。それだって安物は買えないから随分な出費だ。
妻は久乃のような美人ではないしお嬢様でもないが、克行が奢るものはラーメンだろうが屋台のおでんだろうが嬉しがってついてきてくれた。そしてそれが楽しかったのだ。
自分には久乃は余りにも過ぎた女性だった。思いが叶った嬉しさでつい溺れてしまったけれど、所詮は先のない恋だった。時折顔が見られればそれでいい。
突然別れるというのは無理だろうから、少しずつ距離を取っていこう。彼女を傷つけて泣かせたりしたくない。
そして自分も少しずつまた家庭へ目を向けていけばいいはずだ。子供たちは多少反抗期もあって、この頃は顔も合わせていないが、それは思春期なのだから仕方がない。
「行ってきます。」
玄関で買い物に行こうとする優子の声が聞こえた。
「ああ、いってらっしゃい。」
思わず応じてしまう。
自分がその言葉を口にするのが、随分としばらくぶりだということに気がついた。
その夜にも会う約束をして、何か理由を付けて外出するつもりだった。だが、昼間の妻の様子を見て、今日は出かけないほうがいいなと思い直し、久乃にドタキャンで悪いが、今日はどうしても会えない、とメッセージを出す。
5分ほどで、返信が有った。残念だけど、次は必ず会ってくださいね、と送ってくれた。
この返答メッセージもいいのだ。
ワガママっぽくなく、かと行って寂しさを隠しきれず、上品でも有る、と思う。
やっぱり会いたくなってしまった。
だが、今夜ばかりはさすがにマズイかと思って、優子の作った夕食を家族全員で揃って食べようと思い食卓につく。
すると、部屋から降りてきた長女も長男も、父親がそこにいることに気付くやいなや顔色を変えた。
「お母さん、あたし夕飯いらない。」
「俺も。」
つっけんどんにそう言ってさっさと部屋へ引き返していってしまった。
なんていう態度だろうか。家族のために夕食を作ってくれた母親に対して申し訳ないとか思わないのだろうか。
「おい、ちょっと」
といいかけた克行を止めたのは、優子だ。
「放っておきましょう。当分は何を言っても無理だから。」
穏やかにそういうではないか。
もしかしたら、子供たちがこんな態度なのは今夜だけではないのか。
「わたしは慣れてるから平気よ。放っておけばそのうち食べるから大丈夫。赤ちゃんじゃないんだし。」
そう言って一度よそった二人分のご飯と味噌汁を下げる。
優子はなんとも思わなかった。
こんなことは日常茶飯事だ。今まで気付かなかった夫のほうが図太いと言えよう。息子も娘も父親がいるときには絶対にリビングやダイニングに寄り付かない。父親がいなくなったところを見計らってやってきて、母親の手料理を食べている。勿論、その時は姉弟揃って楽しそうにおしゃべりしていた。温め直した料理を出す優子も同席したままに。
今頃気付いても、もう遅いのだ。




