別れる気はない
「え、ちょっと、何それ?エイプリルフールにはだいぶ遅くない?なんで泣いてんの?」
瞠目して数秒間動けなかった克行は、それから慌てたように目を瞬いた。
溢れる涙を片手で拭った優子が、離婚届の紙がよく見えるように更に掲げた。
「冗談でもやめてくれない、そういうの。」
へらっと笑って言うが、克行の声はどこか震えている。
テーブルの上に出されたままの換算表を拾い上げ、離婚届と重ねた優子は、それを夫の眼の前に押し付けるように出した。
「な、なんだよ。こんなのいらないよ。本当に、たちの悪い冗談やめて。」
二枚の紙を押し返してきた夫は、腰が引けていた。
いつもの妻と余りにも違う様子にどうしていいかわからないでいる。離婚届の紙などいつの間に取りに行っていたのだろう。いつから離婚など妻は考えていたのか。
紙を自分の手元に戻し、妻は軽く息をついた。
「わたしは、あなたの何なの?」
「え、だから、俺の奥さんじゃん。もう何年もそうでしょ。」
「あなたは自分の奥さんに隠し事をし、嘘をつく人だったんだ。そして平気で家族を騙して、ヘラヘラと笑ってられる人だったんだね、何年も。」
「嘘なんかついてないよ。だから、そんな紙捨ててよ。」
優子がおもむろにエプロンのポケットからスマホを取り出した。
「じゃあ、録音していいよね?わたしはあなたの奥さんなんだよね?別れる気はないんだよね?ずっと一緒にいたいんだよね?離婚届なんか捨てろって言ったんだから。」
録音だか録画だかの撮影が始まる、小さな音がぽこん、と聞こえた。
「そりゃそうだよ。ずっと一緒だよ。そのつもりで結婚したんだからさ。」
なんの躊躇もなく、克行は答える。録音されていると知っていて、答えている。
そして、停止の音が聞こえた。
優子はようやく表情を和らげる。それはもう、本当に嬉しそうに笑った。
「・・・ありがと。よく言ってくれた。この言葉わたしの宝物にするから。」
大事そうにスマホを両手で抱えて、ぎゅっと握った。
「もしかして、そういうのを言って欲しかったから、こんな大げさなことしたの?」
幾分安心したかのように、克行は肩をなでおろす。
「ふふ、そうかもね。」
そう言って笑っている優子は、以前の妻と同じだ。先程までの思い詰めた様子が嘘のような。
いつも愛想よく笑っていて、ほとんど怒ることがない、温厚な妻だ。泣いてしまったからか、目元にくまが出来ていて目も充血している。
妻は寂しかったのだろうかと、ようやく気付いた。
「そっか・・・。ごめん、俺、そういうのこの頃言ってなかったもんな。」
「もういいよ。この宝物を何回も再生して聞けばそれでいいんだから。大丈夫。さて、夕飯の買い物に行ってこようかな。」
気丈だからなのか、それで気が済んだのだろうか、妻は足取りも軽くリビングを出ていった。健気と言うか欲がないと言うか、本当に優しい女だ。
そう思ったら、急に克行の心の中に罪悪感が募り始めた。
あんなことくらいで、機嫌を直してくれる。単純で、ある意味ちょろいと言ってもいいくらいの、お人好しの妻を、今の自分は騙している。
克行は優子と離婚したいなどと露ほども思ったことはない。優しくて温厚で、芯の強い真面目な、慎ましい優子と別れたいなんて思ったことはないのだ。
ただ、初恋の女性に再会してしまい、それに溺れてしまっただけで、彼女とどうこうなろうとか考えて付き合ってしまったわけではない。彼女の方だって、夫と別れる気なんかさらさらないだろう。