思い詰めて
夏休みに入る直前に、県大会が行われた。残念ながら、春人のチームは一回戦で敗退してしまったけれど、本人たちはやりきった感じで満足の行く試合だったらしい。
地区予選で優勝できたことだけでも、春人にとっては充分だったのだろう。三年生は引退し、受験体制に入っていた。
夏樹も進級して、特別進学クラスへ入った。国公立大学を目指す生徒だけを集めたクラスは、全員が優等生で、今まで成績優秀者だという自負のあった彼女でさえも焦りを禁じ得ない。
二人の子供は自分のことで手一杯だ。そして、その二人の生活面のサポートで、優子も頭がいっぱいだった。金策にも走らなくてはならない。これからかかる学費のことを考えると頭が痛かった。学資保険と貯金だけで支払いきれるか心配だ。
勤める会社で優子に声がかかったことが有る。技術者として開発部で働いてくれれば基本給を上げてくれると、部長に言われたことがあった。
正直言ってお給料は上げてほしい。
けれども技術者として働くようになれば、残業や休日出勤は絶対に免れない。特に納期前ともなれば、会社に泊まって徹夜で作業するなどと言うことさえある。
もう若くはない自分にそこまで出来るだろうか。
そして、学生の子供がいる自分にそんなハードな仕事が出来るのかどうか。
そう思うとやんわりとお断りする他無かったのだ。
夫の克行は相変わらずだった。残業だ仕事と言っては午前様の帰宅や、休日出勤が多い。そんなに働いているのなら、どうして彼の収入は増えないのだろう?優子に渡してくれる生活費だってもっと増えてもいいはずだ。
何度か計算してみたことが有る。夫が残業だ休日出勤だと言ってた日数や時間を、時間給や深夜手当、休日手当などを足して換算すれば、彼の収入はボーナスに近いくらいの手取りがあるはずだ。
一度、その換算表を夫に提示して、生活費を増やして欲しいと交渉したときだ。克行は眉根を寄せ、また面倒くさいことを言い出したな、という顔をした。
珍しく二人の子供が外出し、夫婦が二人共在宅しているという日曜日の午後。
外はうだるような暑さなので、エアコンの効いた室内から出たくなかった。
「こんなに貰っているわけないよ。どうすればこんな金額になるんだよ。もしかして嫌味言ってるの。俺の稼ぎがないって馬鹿にしてるわけ?」
呆れるとも困ったとも言えるような表情で、夫は換算表の紙をテーブルの上に放り出した。
「じゃあ、あなたはこれだけの時間会社に拘束されているのに、無給で働いているということ?ブラックが過ぎると思うんですけど。組合に訴えたほうがいいんじゃないの?もしくは社会保険労務士とかに。」
「・・・そんなわけないだろうが。だいたい、この時間だって、優子の勘違いじゃない?俺こんなにも残業してたっけ?」
「毎日あなたの帰宅時間から逆算して計算しているのよ。土日の出勤もそう。毎日ちゃんとメモしてたんだから間違いないわ。通勤時間を差し引いても、最低でもこれだけの時間会社にいたのなら、今の給料じゃ全然足りないわよね?会社の総務に言うべきよ。それとも、あなたは自分が経理なのをいいことに、いいように改ざんしてるとでも?もっとも、この場合は悪いように、だけど。」
「俺が帰ってきても優子は寝てることが多いのに、なんで時間までわかるの?」
「あなたが帰宅する音で起こされていつも目覚めるからよ。時計見てまた眠っちゃうけどね。それに」
優子の言葉を遮って、馬鹿にしたように言う。
「そんな寝ぼけてるのに、正確な時間なんてわからんでしょ。」
そう言って、ソファから身を起こし背を向ける。
妻の方を見ようともしない夫の背中に、優子は一言、呟いた。
「隠していることあるでしょ。」
「そんなのあるわけないよ。なんでそんなこと言うの?俺、なんかした?」
凝視する妻の視線が怖いのだろうか。夫は背を向けたまま、口だけ動かしている。
「・・・あなたがわたしの見えないところで何をしていようとも、家庭を壊さず家族を養ってくれているのなら、目を瞑ろうと思ってたのよ。」
「だから、何もしてないって。」
今日はやけに絡むな、と思いながら、仕方なく振り返った克行の目に飛び込んできたのは。
離婚届を手に、こちらを向いて泣いている妻の顔だった。




