もう、駄目じゃないか。
「ただいまー」
二人の子供と一緒に家の玄関を通る。
夏樹がリビングの入り口で立ち止まっていた。春人は洗濯物を出しに脱衣場へ。
「どしたの?」
「・・・お母さん、あれ。ひっどいね。」
長女が指さした方向には、ソファでうたた寝する夫の姿があった。
だらしなく口を開き、鼾をかいている。傍らにはビールの空き缶とスマホが置いてあった。さながら、横たわるトドかオットセイのよう。下着姿なのがまたひどい。
「はは・・・。フォローしようがないわ。」
優子はそう答えるしか無かった。
「外に捨ててこよう。そうしよう。」
いつの間にか背後に立っていた春人が呟く。
「まあまあ、それくらいにして。」
妻の立場から、長女と長男の辛辣な言葉を遮った。
しかし子供たちの悪態は止まらない。
「なんでお母さんはなんも言わないの?こんな最低な人、もう追い出しちゃえばいいじゃない。」
「俺も同感。父親の価値ゼロ。これが血の繋がった親父かと思うと恥ずかしいわ。」
厳しい意見に、優子もまったく同意見だ。
夫が聞いたら号泣するのではないかと思われるほどの発言が、息子と娘からどんどん出てくる。
「あーあ、ほんと、マジで無理。家出てぇな俺。」
「ちょっと春人」
「あの人がいる家に帰るの本当腹立つ。なんであんな態度でかいわけ?」
「夏樹まで」
言いたい放題言うと、二人とも二階の自室へ行ってしまった。
大きくため息をつくと、優子はダイニングの椅子に腰を下ろす。ハンドバッグを傍らに置いて、両手で顔を覆った。
せっかく春人が優勝してきたというのに。家でお祝いしようと、意気揚々と家路についたのに、その祝勝ムードも夫のせいで台無しだ。
娘も息子ももう気がついている。夫の不貞はもう隠しようがなかった。
何しろ春人は父親が他の女性と歩いているところを目撃してしまっている。夏樹は何度か父親のスマホの画面を見たことがあるそうだ。
本当になんてことをしてくれたのだろう。
数年前に見逃してあげた時に、どうしてやめてくれなかったのだろう。見逃した優子が悪かったのだろうか。あの時に追求して、責め立てるべきだったのか。
どんなに後悔してももう遅い。
自分をひたすら責めるけれど、もう自分だけが黙っていれば、我慢していれば済むことでは無くなってしまった。
テーブルに突っ伏して声もなく泣いた。
誰にも見られたくない涙だった。ずっと堪えて堪えて、ここまで我慢し続けて。
涙にくれる妻の向こうで、夫はソファの上で口を開けて太平楽に眠っていた。これからこの家族が壊れようとしているというのに、その原因である克行は、何も気付かず気楽なものだ。
ひとしきり泣くと、優子は洗面所で顔を洗った。
食材の買い物に行かなくてはならない。平日に行けないから、日曜日に買いだめしなくては。
着替えをしに、寝室へ移動した。クローゼットにしまってあるノートパソコンを引っ張り出して、鏡台の上に置く。電源を入れて起動する間に、優子は着替えを済ませた。
軽く化粧を済ませると、起ちあがったパソコンに向かい、キーボードを叩き始める。
普段は優子が自宅でパソコンをいじることはほとんどない。会社でリースしてくれているノートパソコンを家で開くことは今までほとんどなかった。用がないからだ。
だが今日は買い物に行くまでの時間にやっておきたいことが出来た。スマホにタイマーを設定し、鏡台に向かって椅子に腰掛ける。
鏡台の引き出しから書類を引っ張り出して、読み始めた。
家電や電子機器のマニュアル類である。夫の克行はだらしがないので、取扱説明書などはすぐに無くしてしまうから、全部優子が片付けて管理しているのだ。
寝室に、しばし、キーボードを叩く音が響いた。




