記念日
昼食の準備をしながら優子は珍しくダイニングにいる夫に話しかけた。近頃の克行は休日出勤がどうの出張がどうのと言って、土日はほとんど在宅していないのだ。
「もうすぐ結婚記念日だって気がついてる?」
「え、なんだって?」
スマホの画面に夢中で、ろくに聞いていなかったのだろう。夫は聞き返した。
「来週はわたし達の結婚記念日なんだけど、おぼえていますかって聞いたのよ。さらには夏樹の誕生日も近いんですけど、わかってる?」
露骨に顔をしかめて見せる夫は、
「ああ・・・そう言えば。夏樹の誕生日はともかく記念日は今更何もしなくていいだろ?もう20年近くなるんだし。」
こちらを見もしないで答えた。
「・・・あなたがそういうのならいいわよ。随分ねぇ。わたしにプロポーズした時のこと覚えてる?」
「そんな昔のこと忘れたな。まさか何かプレゼントしてほしいとかそういうのか?」
キッチンからダイニングテーブルの夫が見える。カウンター式のキッチンは、シンク台からダイニングの方がよく見えるのだ。
ようやく顔を上げて妻の方を見た克行は、一瞬狼狽した。
優子の視線がこちらをむいていた。
頻繁に会っている不倫相手よりも、なんだか久しぶりに見たような気がした。慣れ親しんだはずの妻の顔は、なんだか見知らぬ人のように見えてしまったのだ。
妻はこんな顔だっただろうか。もっとふっくらと柔らかい印象の優しげな顔ではなかったか。人の良さそうなタレ目で、いつもニコニコしていたような。
「優子・・・?なんだ、どうかしたのか?なんか、変わった・・・?」
そんな言葉しか口をついて出てこなかった。
妻はそれから口角を上げて笑った。
どこか自嘲するような、悲しげな笑いだった。
「もう覚えていないんだ。そっか。覚えていてくれればな、って思ったんだけどね。」
夜景の見えるレストラン。ビシッとスーツを着て緊張した面持ちの彼は、食前酒が来る前にテーブルの上に小さな箱を置いた。
「俺と、結婚してください。」
彼女はその小さな箱が婚約指輪の箱なのだろうと推測して、ゆっくりと目線を相手の顔へ向ける。
「わたしと、結婚すると?」
「是非。」
克行の表情は緊張気味で、硬い。ガチガチだ。
「わたし、浮気者はイヤ。もしも他の人を好きになったら離婚だよ?」
「もちろん、俺は浮気なんかしない。君だけだよ。」
声には焦りさえ有る。
「本当に?・・・それに、わたし仕事も続けたい。」
「出来るところまで続けたらいいと思う。協力するし、君を養っていけるよう、俺も仕事も頑張るから。一緒になろう。」
やがて優子は嬉しそうに笑った。
「うん。よろしくおねがいします。」
その時の、相手の安堵の表情が余りにも可笑しくて。
未だにその顔を鮮明に思い出せるくらいなのに。
全て忘れてしまったと、夫はそういうのだ。
そういうものなのだろう。
優子は結婚してからのこと何度も思い出して、その楽しかった記憶に浸った。二人の子供に恵まれ、一緒に子育てに悩み、その成長を見守ってきた。
いつから、夫は自分を見なくなったのだろう。思い当たる節は有るが、自分はあらゆる点で克行に対して譲歩してきたつもりだ。
それでも夫の態度は変わらない。むしろ一層家庭への関心をうしなっていく。
わからないのだろうか、彼は。
もう引き返せないところまで来ていることが。




