束の間の逢瀬
久乃は美人だった。整った顔立ちに華奢なスタイル。まさに深層の令嬢といった風情の女子だったのだ。クラスの他の喧しい女子たちとは、どこか一線を画していた。話しかければ普通に答えるし、特にお高くとまっているという様子もない。穏やかで優しい娘だった。
それは、人妻となった今も変わらない。いや、人妻になったからこその色気が増して一層魅力的に映ってしまう。
いつ会っても綺麗に化粧をしていて、隙無く美しく装っている。年齢相応の派手すぎない垢抜けた服装は、その美貌を引き立たせた。
「夫は仕事人間だから。わたしにかまっている暇はないのよ。」
細い長いため息をついた憂い顔は、守ってあげたくなる。
ストレートな髪を軽く耳にかける仕草もなんだか酷く上品で艷やかだ。
「あの頃、俺は君に憧れてたんだ。」
「そうなの?・・・言ってくれればよかったのに。そしたら、今の夫はあなただったかも知れないわね。」
「そう、そうかな。そんなことがあり得るのかな。」
こんなお嬢様を、奥様を、そこらのラブホテルなんかに連れ込むわけには行かない。一緒に食事をするのも、ファミレスやファーストフードなどというわけにはいかないではないか。
駅前の高級ホテルのレストランでデートをすれば。
彼女は嬉しそうに笑ってくれるし、何よりこういう場所が彼女には相応しい。
「わたしなんてなんにも出来ないから。つまらない女なのよ。」
「君はとても魅力的じゃないか。何も出来なくても充分だ。」
「そんなこと言ってくれるの克行くんだけだわ。」
何も出来なくてもいいではないか。
久乃はこんなにも美しくて魅力的で。それだけで充分だ。
無理をして一張羅のスーツを着て、久乃と会う。それはそれは心ときめく時間と言うやつで。
しばらく忘れていた、青春とかいう言葉が胸に甦る。
彼女と一緒にいる時間には、所帯じみたものは何もない。子供の送迎も、テーブルの拭き掃除も、ゴミ出しもない。
克行がのめり込んでいくのは必然だった。
「奥様に申し訳ないわ。克行くんみたいな素敵なダンナ様の時間を貰ってしまって。」
少し悲しそうに言う言葉さえ、そこらの女とは違うではないか。
自分の妻がしおらしくこんなことを言うだろうか。プロポーズした時に、絶対に浮気したら許さないと鼻息荒く言っていた、優子の顔を思い出す。
比較してはいけないと思いつつも比べてしまう。そもそも比較になどならないのではないか。いいとこのお嬢が、そのままいいとこの奥様に収まった久乃が、自分の女房と同格のわけがない。
久乃の夫が彼女をちゃんと愛してあげないのがいけないのだ。だから彼女はこんなにも寂しがって、自分のような男にさえ付き合ってくれている。
自分にも家庭が有る。残念ながら今更久乃と一緒になる望みはない。彼女も、克行自身も双方が離婚して再婚しようなどとは流石に思わなかった。
だったら、生活の隙間にある僅かな時間だけでも、会いたい。一緒にいて愛し合えたらいい。
そうだ、これは大人の関係と言うやつだ。浮気とか不倫とか、そんな大層なものではない。
互いの、ほんの少しの寂しさを埋めるだけの、つかの間の関係。
初恋の同級生に溺れていくうちに、克行は忘れていく。
妻の顔も、子供の顔も。久乃と一緒にいる間は忘れてしまう。彼女と逢瀬を重ねる。この時間だけは、克行は夫でも父親でもなく、昔のように、克行という一人の男に戻れるのだ。夫である自分も父である自分も忘れていく。
彼女と再会するまでに、自分の家庭には不満などなかったということも。